「近代」と「一般理論」の概念

宮台真司氏の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「社会」という概念に続いて、「近代」と「一般理論」の概念について解説されている。この二つの概念も、辞書的な意味としてはぼんやりとイメージできるものの、明確に他のものと区別してこうだ、というような概念をつかんでいるとは言いがたい。これらの概念を明確につかむことは出来るだろうか。

宮台氏は現在の日本を「近代成熟期」と呼んでいて、戦後の高度経済成長期までを「近代過渡期」と呼んでいる。イメージとしては、物の豊かさが飽和状態に達したかどうかで区別するという感じになるだろうか。また「近代」がスタートしたのは明治維新からという漠然とした理解もある。明治以前の江戸時代は「近代」ではないという理解だ。それでは、「近代」とそれ以前の決定的な違いはどこにあるのだろうか。

板倉さんの『日本歴史入門』(仮説社)では、江戸時代は「身分制度の時代」と呼ばれ生まれつきで生き方が決まってしまう時代と捉えられていた。それが明治維新以後になると、一応は個人の努力によって運命を切り開いていける時代になった。学問による立身出世が可能な時代になっている。江戸時代だったら、どれほど有能であろうとも有力な家系に生れなければその才能を生かすことは出来なかった。しかし「近代」になった明治には、それまでなかった「自由」がかなり生れたという感じがする。




「近代」については、いまもまだ「成熟期」という形で続いていると思われるし、身近に経験できるものなのでイメージは抱けるが、「近代」でないものを知ることが難しいので、差異による概念の理解は難しい。「近代」の概念はあまりにも豊富な内容を含んでいるので、「社会」の一面を見ているだけでは正確な概念をつかむことが出来ないのを感じる。宮台氏は、「近代」については後に詳しく言及すると書いていて、ここではまあぼんやりとしたイメージでもそれ以前の時代とは「何か」が違うものとして、特に「自由」の存在に大きな違いを見ることが出来そうなものとして捉えておこう。

「一般理論」については、この第二回の講座ではかなり詳しく書かれている。これは「一般」と「理論」という二つの概念の単純な組み合わせで理解すると、具体的な対象についての「理論」というよりも、「一般」的な抽象的な対象に対する「理論」だというようなイメージになる。しかし具体性と抽象性というのは、同一のものが視点の違いによってある時は具体的なものとして理解され、ある時は抽象的なものとして理解されるという弁証法的な同一性(矛盾)を持っている。そうすると、対象の具体性と抽象性で「一般理論」を考えると、その理論が「一般理論」であるかどうかが分からなくなる。

この区別が分かるような「一般理論」の概念(定義)は、「社会学では「一般性」という場合、文脈自由が指し示されています。特定の文脈に拘束されないことです」と宮台氏は語っている。「文脈自由」という特徴が本質的だということだ。ただし、この自由も「特定の文脈に拘束されない」という「特定の文脈」をどう見るかという視点に関わってくるような感じもする。これも、ある文脈が「特定」であるかどうかに弁証法性がありそうな感じがするので、「特定」という概念も検討する必要があるだろう。

宮台氏は具体的な「一般理論」として経済学における貨幣の理論を例としてあげている。物の交換において「特定の文脈」とは、「交換当事者が互いに相手の持ち物を欲しがり、相手が欲しがる自分の持ち物を欲しないという「欲求の相互性」という文脈」を捉えている。何を欲求するかは人によって違い、「一般」化することができない。「特定」の状況だという判断だ。この文脈が、貨幣というものを設定すると消えてしまうという。

宮台氏は、「誰もが貨幣を欲しがるとの前提で振舞えば済むようになります」というふうに貨幣の働きを指摘している。その個人が何をほしがるかという「特定」の文脈が、常に貨幣をほしがるということで一つに絞られてしまう。これが「一般」化であり、特定の文脈に縛られない「文脈自由」が実現されていると理解する。宮台氏は、貨幣のこのような「一般」性を「一般的購買力」とも呼んでいた。

このような文脈自由な一般理論としては、社会学では「制度的役割による一般化機能」という例もあげられている。これはある種の人間関係において、たとえばマクドナルドの店でハンバーガーを買うときの店員との人間関係において、「店員が誰で、どんな人格で、どんな機嫌かといった雑多な文脈」は「特定の文脈」になる。これが「制度的役割」という了解がすべての人にあれば、このような文脈で人間関係を捉えなくてもすむようになる。相手が「マクドナルドの店員だ」ということが確認できれば、安心してハンバーガーを買うことが出来る。「特定の文脈」を意識する必要がなくなる。

このように「貨幣」や「制度的役割」が特定の文脈を消してくれるなら、それに関する理論が「一般理論」として提出されることになるのではないかと思う。この「一般理論」に関しては、宮台氏は


「(1)できるだけ多様な主題を、(2)できるだけ限定された形式(公式)で取り扱え
るほど、理論の一般性が高いと見なされます。」


とまとめている。これは自然科学の場合でいえば、武谷三男さんが提唱した三段階論における本質論的段階に当たる理論が、自然科学における最も一般性が高い「一般理論」だということになるのではないだろうか。天動説は、人間が地球上から見える視覚的データと整合性を取るという「特定の文脈」の下で正しくなるような理論だろう。ケプラーの太陽系に関する法則は、太陽系という特定の対象のデータとの整合性を取るという点でまだ「特定の文脈」が残る。文脈からまだ自由になっていない。しかしニュートン力学の段階になれば、質量を持つ物質という一般的な存在であれば、どの対象に対しても成立するという自由な文脈の下での法則性が提出される。最も高いレベルでの「一般理論」になるのではないかと思う。

「一般理論」のイメージはこの説明でかなり明確になったと感じる。概念がかなりはっきりと見えてきた感じだ。科学というのは、最終的にはこのような一般性がもっとも高い理論を提出して本質論的段階が求められて終わるような感じがする。しかし、社会学の最近の状況は、このような一般理論が廃れているところに問題があると宮台氏は指摘する。一般理論の概念は、それが進歩発展の目標のように見えるのに、現実には必ずしもそれが目指されることがなく、むしろ個別的な、ある意味では末梢的だと思えるような分野に研究が集中しているようにも見える。これはどう理解したらいいだろうか。

「一般理論が死滅しつつある理由の第一は「共通前提の崩壊」です」と宮台氏は語る。「共通前提」というのは、社会に生活する誰もが同じように考え・受け止めていた「前提」と考えられる。それがかつてあった時代は、自分が専門としている特定の領域の文脈で見えるものばかりを考えるのではなく、その共通前提で見えるものを考えるという傾向があったようだ。そうなれば特定の文脈というものが分岐せずに、共通前提という(ある意味では特殊な文脈かもしれないが、誰もが同じものを抱いているという点で一般化されている)一般化された文脈を持ちえたのではないかということが推論される。

共通前提があった時代は「近代過渡期」と重なるようだ。それは社会に生きる人々の希望が単純に一つの目標につながっていた時代だとも言えるだろう。宮台氏も次のように書いている。


「なぜ共通前提が崩壊したか。近代過渡期が終ったからです。近代過渡期とは、第二次産業(製造業)が中心という経済的に定義された社会段階。これに対比される近代成熟期とは、第三次産業(情報・サービス業)が中心という経済的に定義された社会段階です。
ところが差異は経済に留まりません。近代過渡期には、郊外化で追いやられつつも村落的共同性が残存し、それゆえに「物の豊かさ」という国民的目標が成り立ち、それゆえに目標に近い「強者」と目標から疎外された「弱者」という差異が共通に主題化される。」


国民的目標が一つに絞られていた時代は、その共通の思いが、そこから派生する論理的な結論を共有するようになり、感覚としても共通前提を持ちえたのだと感じる。そして、国民的目標がある意味で達成されたときに、その目標の下に一つにまとまっていた人々の心も、目標を失って共通前提を失ったといえるのではないだろうか。

共通前提があるなら、その共通前提という文脈が結果的には一般性の高い文脈になりそうだが、それがない時は自分が関心のある特定の文脈に意識が集中しそうだとも考えられる。宮台氏は次のように書いている。


「近代成熟期になると、郊外化で共同体が空洞化し、「物の豊かさ」が達成されたあと何が幸いなのか人それぞれに分岐し、人々が個室からメディアを通じて各自の別世界にコネクトし、「強者/弱者」図式では到底扱えない社会問題が噴出します。
それゆえ、まず「強者/弱者」図式を依り代にするドキュメンタリーが廃れます。ついでサブカルチャーも学問も同じく、手段は違っても共通の問題(戦後の再近代化、並びにそれがもたらす問題)を扱っているとの意識が廃れ、タコツボ化します。」


共通前提の喪失は、どの立場の人間であっても最終的にはそれを考えようという目標を失わせる。それゆえに理論も一般化を目指すよりも、それぞれの個別の関心にもっとも答えるような方向で展開される傾向をもつ。「タコツボ化」するということだろう。

学問の世界では、これらの状況に加えて「制度的な自己言及化」の問題があってさらに「一般理論」が衰退していくという。これは、他の世間と関係なく、その専門分野の学問業界内部で価値が高いとされる言説に研究者の意識が集中してしまい、世間の関心と専門家の関心が大きくずれてしまうことを意味する。共通前提がないので、世間がどのようなものに関心を持っているかではなく、自分が学問業界の中で高い地位を得られる問題は何かということに関心が集中するというわけだ。これはまさに「特定の文脈」での言説であり、「一般理論」にはなりえないだろう。

「一般理論」という概念は、物事を理解する段階を考えるということでは、教育においては興味深いイメージを与える。これが廃れているということは残念なことで、僕などはむしろこのような理論のほうへの関心が高い。宮台氏は、最後に


「皮肉です。社会学の一般理論を退潮させる原因が社会学の一般理論へのニーズを高め、社会学の一般理論へのニーズを高める原因が社会学の一般理論を退潮させる。とすれば、社会学の一般理論の退潮はむしろ一般理論へのニーズを表しているという他ないのです。」


と語っている。このニーズが高まり、目から鱗が落ちるという見事な一般理論が登場するのを期待したいと思う。萱野稔人さんの一連の仕事が、そのような見事な一般理論の提出ではないかとも感じる。
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by ksyuumei | 2008-07-07 09:54 | 宮台真司


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