メディア・リテラシーについて

マル激にもよくゲストで出ている森達也さんの『世界を信じるためのメソッド』(理論社)という本を読んだ。とても面白い内容だった。副題に「僕らの時代のメディア・リテラシー」とあるように、現在の発達したマス・メディアの時代に、そこから送られてくる情報をいかに有効に受け取るかという「メソッド(方法)」を論じたものだった。

その語り口はとても分かりやすいもので、専門的な話は何もなく、まったく予備知識がなくても「メディア」というものの本質がどこにあるかを的確に理解させてくれるものだと思った。メディアというものの代表は今ではテレビによる動画になっているが、これはたいへん分かりやすい媒体(メディア)として情報を伝える。マス・メディアそのものに分かりやすさがあるので、その危険性や本質を語るにもやはり分かりやすさがなければ多くの人には伝わらない。森さんはそのようなことを考えて、この本で書いたような語り口を使っているのだろう。

リテラシーというのは本来は「読み書き能力」のことを指した。これは印刷技術の発達によって、文字情報が多くの人に共有された時代に、情報を正しく受け取るための技術として考えられたらしい。これは、文字に書かれた情報というのが、直接体験を、いわば完全に離れた形での間接体験として受け取られるからではないかと思う。このような情報を受け取る時は、リテラシーという技術がなければ、それを正しく受け取ることが出来なくなるのだろう。



我々が直接体験することについては、時に勘違いということもあるかもしれないが、その大筋においては体験という「事実」を取り違えることはない。「事実」をどう「解釈」するかという、「解釈」の段階では間違えることがあっても、「事実」がどうだったかというのはあまり間違いはないだろう。錯覚でさえ、そこに錯覚が起きたということは「事実」として認められる。

他者が経験した事実であっても、他者との直接の対話によって伝えられるものはそれほどゆがみのあるものとしては広がらない。ゆがみが生じるのは、直接体験者でない人を媒介にして、人づてに聞いたりするときだろう。そして、この情報の広がりが個人単位で行われている時は、その影響は少ない。大量の同じ情報が出回るようになったとき(かつては印刷による文章の流通がそういうものだっただろう)、その影響は大きなものになる。

文章による表現は、直接体験した者の文章であっても、それを体験した「事実」のように受け取ることが難しい。文章というのは、絵画的な表現が出来ないからだ。絵画であれば、目に入るものならすべて絵の中に含めて表現できる。しかし文章ではそういうわけにはいかない。表現者が認識したものの中から、何を文章にするかという選択がまず入る。そして、文章は同時に表現できないので、何から先に表現するかという順番の選択も関わってくる。また、表現されなかったもの、そこに存在はしていたものの、伝えられなかったものがある。それは文章を受け取る人間には、最初から存在していなかったものとして受け取られてしまうだろう。

リテラシーという技術は、文法的な意味を受け取る、文字に関する知識というものがまず必要であることは間違いないが、それだけではリテラシーにならないというのが重要なことだ。森さんの言葉でいえば、「事実は限りない多面体であること。メディアが提供する断面は、あくまでもその一つでしかないということ」と表現されていることを常に意識することが重要だ。これこそがリテラシーの基礎であるといってもいいだろう。メディアの情報を簡単に信じてはいけないということだ。

メディアが送ってくる情報は直接体験できるものではない。また、それを問い直して疑問に答えてくれるものでもない。一方的に送られてくるものを受け取るだけだ。だから、その一面だけが世界の現実だと思ってしまえば、見えていない他面への考慮は出来なくなり、そこにこそ大事な事実が隠れているとしても、そこに気づく人は圧倒的に少なくなる。しかし多くの人がリテラシーという技術を持てば、隠れているものが何かということは分からなくても、何かが隠れているんじゃないかという「方法的懐疑」を持つことが出来る。これが大きな失敗を避けさせてくれる要素になるだろう。

森さんは、リテラシーの中でも特にメディア・リテラシーについて語っている。これはその影響力の大きさからいって、現代社会では特に気をつけて見なければならないリテラシーになると思っているからだ。メディアの中心にあるのはテレビで、本質は動画による情報伝達ということになる。

動画は言葉がわからなくても、見ていれば分かる部分というものが多い。直接体験に近いものが得られるので、そこで見たものが「事実」だというふうに信じやすいということもあるだろう。だが実際には、カメラを向けた範囲の対象しか見ていないのであって、カメラに収まらなかった映像にこそ実は大切な本質が隠れていたかもしれないのである。これはリテラシーという技術を身につけて、そのような前提で映像を見なければなかなか考えが及ばない。

メディア・リテラシーを持っていなければ、情報を間違って受け止めて、間違った判断を引き出す恐れがある。それは善意のメディアであってもそのような可能性があるのであって、ましてや悪意を持ってだまそうとするメディア、たとえばナチス・ドイツのプロパガンダのようなメディアであれば、だまそうとするテクニックに発達したものがあるため、よほど高度のリテラシーを持たなければだまされてしまう。

森さんによれば、ナチスの最高幹部へルマン・ゲーリングの言葉として次のようなものがあるそうだ。


「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。ソ連でもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでもそれは同じです。でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民に向かって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方は、どんな国でも有効です。」


これは、大衆をだまそうとするファシストのほうがメディア・リテラシーについての理解では進んでいたことを示すものだろう。このファシストに対抗するには、大衆の側がもっと高いリテラシーを持たなければならないのだが、メディアの発達途上段階ではそれは難しかったのだろう。ゲーリングが言うように、このやり方は「どんな国でも有効」だったというのが、当時のリテラシーの状況だったのだろう。果たして今はどうだろうか。今では、だますほうがもっと巧妙になっているかもしれない。

森さんは他の例として、かつて湾岸戦争と呼ばれたイラクとアメリカの間の戦争の際に、クウェートの少女がイラク兵の残虐さを語ったメディア情報を取り上げて考えている。この時は、イラク兵が病院を襲って、保育器の中の赤ちゃんを放り投げて殺していたということを、クウェートの少女が涙ながらに語っていたということが報道されていた。

この少女が涙ながらに語ったというのは映像として流されたので「事実」に違いない。しかし、イラク兵が保育器の中の赤ちゃんを放り投げて殺したというのは、実は誰も見ていないことだった。後になってこれは嘘であることがばれた。このクウェートの少女は、実はアメリカを離れたことがなかった大使館職員の娘だということが分かったからだ。クウェートに行ったことがない少女が、クウェートについての「事実」を語れるはずがないという論理で、これが嘘であることがばれた。

しかしこの情報を多くのアメリカ人は信じた。これによって、フセインとイラクというのは、残虐非道なことをする極悪人だというイメージが作られた。これは実際とは違うのに、メディアの嘘によって人々によって信じられてしまった。

これは嘘であるから、嘘であることが確実になればだまされたことを反省することが出来るだろう。しかし、嘘ではなく「事実」には違いないのだが、それが一面的なものばかりなので、実際のイメージとは違うはずなのにステレオタイプなイメージが定着してしまうことが反省できないこともある。中国の民衆がチベット問題で国際的な非難を浴びているのを理解できないのも、中国政府の情報操作によるものではないかという指摘もある。外国の攻撃は、発達しつつある中国を押し止めようとする悪意があるためだというイメージが植え付けられているのではないだろうか。

一面的な事実によってステレオタイプが流通しているというのは、このような意識を持って情報を眺めるのもメディア・リテラシーの一つだろう。森さんは、犯罪報道などで犯人を救いようのない悪人だというイメージで伝えることを、一面的な「事実」情報を流しているものだと指摘している。このとき、他面があることを考えるのは想像力の働きで、これがリテラシーとして深い読み取りをもたらしてくれるのだが、その難しさを次のようにも森さんは語っている。


「もちろん短気な人はいる。思慮の浅い人もいる。他人の痛みや苦しみへの想像力が欠けている人もいる。でも救いようのない悪人などいない。オウムの信者も北朝鮮の工作員もアルカイダのテロリストも、親を愛し子を愛し、喜怒哀楽もある普通の人たちだ。
 大多数の人たちは、これをなかなか認めたがらない。なぜならこれを認めてしまうことは、自分の中にも悪事を成す何かが潜んでいると認めることになるからだ。これは困る。連続殺人犯と自分との間には、大きな違いがあるはずだと思いたい。きちんと線を引いて欲しい。だって彼らは特別な人たちなのだから。そう思う人はとても多い。」


このようなメンタリティがあれば、メディアが流す一面的な情報も、その気分を満足させるものであれば多くの人に肯定的に受け取られる。この難しさは、テレビというメディアでは特に顕著に表れてくる。なぜなら、テレビでは多くの人に見られるという視聴率の高さが、その企業の生き残りにかかわってくる最大の関心事になるからだ。ステレオタイプの一面的な情報を多くの人が望むなら、テレビは結果的にそのようなものを流すようになるだろう。

森さんは、戦争のときの新聞媒体が、戦争の勇ましい面を報道することによって販売部数を伸ばしたことが、結果的に大政翼賛的なプロパガンダのメディアになっていったことを指摘して、マス・メディアの特性への注意を呼びかけている。そしてこのことがリテラシーにおいては最も重要な側面を理解させることにもなる。

ファシズムのように、プロパガンダをするほうが悪意を持ってだますということもあるだろうが、現代社会においては、情報があふれてコントロール可能な領域を越えてきているようにも感じる。だから、プロパガンダとしてコントロールできるのは、社会主義独裁をしている中国のような国だけかもしれない。ほとんどの「民主主義国」では、民衆が望むものこそメディアは報道することに熱心になるだろう。そうすると、リテラシーのない、自らの感情に気分よい情報だけを望むような人々が増えたら、メディアは当然そのような面を持った情報しか送らないだろう。そしてますますメディア・リテラシーを身につけることが難しくなっていくという悪循環になる。

森さんの最後の呼びかけも、メディア・リテラシーが重要なのも、実は一人一人が正しい判断をしたいということを願うかどうかという、あなた自身の問題なのだということで結ばれている。森さんに出来るのは、メディア・リテラシーがどういうものかということを語ることだけで、それを身につけたいと願ってほしいということだと思う。そして、たぶん多くの人がそう願ってくれるだろうという希望を森さんは語っているのだろうと思う。僕もそこに共感する。僕も自分自身のメディア・リテラシーを伸ばしたいと思うし、多くの人もそう願ってくれるだろうと期待している。
[PR]
by ksyuumei | 2008-06-09 10:10 | 雑文


<< 内田樹さんの分かりやすさ 1 内田樹さんの語る中華思想 2 >>