正義を実現するためには手段が正当化されるという思想

マル激の366回では、チベット問題を論じて、中国がなぜあれほどまでチベット支配に執着するのかということを議論していた。外交的な利益というものを考えれば、直接支配をしなくても交易などの交渉で有利な手打ちが出来れば、形の上で高度な自治を認めても十分見合うのではないかと宮台氏は語っていた。

それなのに、国際的に悪者のイメージが強くなっていくような、あからさまな侵略行為をしていながら開き直るのはなぜなのか。その事の合理的な理解、つまり中国は、そのような行為によって自らの利益の何を守ろうとしているのか、という点を理解することに議論を集中していた。

中国が嫌いという人は、中国は「そういうひどい国なのだ」という怒りを表明することで済ませてもすむのかもしれない。しかし、好き・嫌いということで判断するのではなく、中国にも頭のいい人間がいるはずなのに、ちょっと考えれば何が論理的に正当かが分かっていいような問題で、あえて間違った判断を主張しているように見えるのは、何が目を曇らせているのか、ということを考えてみたくなる。普通に考えて論理的に正当な展開をしている結論なら、それを理解することはた易い。しかし、そのようなた易い論理とはまったく違う、むしろ正反対の結論を提出している時は、それがどのようにして導かれた主張なのか、その論理的な前提を知りたいと思うものだ。



中華思想を前提にしてチベット問題を理解しようとするとやや無理があるのを感じる。特に内田さんが語るようなグレーゾーンを許容する中華思想というものでチベット問題を理解しようとすれば、むしろチベットの自治を許すほうが正しい中華思想の展開であって、あくまでも帝国の内部に取り込んで、外部と遮断した境界をはっきりさせるというのは、中華思想に反する結論ではないかとも思われる。

中華思想で理解すべきは、外交的な曖昧さを許容しながらも、自らの利益を守るような方向で交渉する中国の姿というものではないだろうか。つまり、頭のいい中国を理解するなら中華思想が役に立つというものではないかと思う。

共産主義イデオロギーには、どこの共産党にも「無謬神話」というものがあって、これによってチベット問題の理解を図ることが出来るかもしれない。つまり、一度支配下においた判断が間違っていたと認めることが出来ない中国共産党の無謬性が、チベット問題での固執に関係しているという理解だ。

これはちょっと心惹かれる解釈ではあるが、「無謬神話」というのは、何も共産党の専売特許ではなく、宗教的な独裁体制には常に付きまとっているもので、共産主義イデオロギーに内在している思想とはいえないだろう。また、「無謬神話」による理解は、実は何も理解していないことと同じことになるかもしれない。

「無謬神話」があるから間違ったことでも主張しつづける、という理解は論理的には易しい。しかしこの理解は、「主張しつづける」ことの合理性の理解にとどまる。その主張をどうして正しいと思い込んでいるかという、間違った原因についての理解にはならない。「主張しつづける」ことの理由ではなく、「どうして間違ったのか」ということの理由のほうを僕は知りたい。

マル激の議論では、中国が清帝国の時代に直面した国家としての近代化に問題があるのではないかということに話題が集中していた。清は欧米先進国の侵略を受け、さらにアジアでいち早く近代化を実現した日本の侵略も受けて、国家としては壊滅状態になっていったという歴史がある。清の人々を一くくりで中国人と呼ぶのは大雑把過ぎるかもしれないが、侵略の屈辱を受けつづけた人々にとっては、早急な近代化を経た強い国家の実現というのは最も関心の高い願いだったのではないかと思う。

近代化する以前の人々は、日本がそうであったように、自分たちが生活している身近な地域が「国(くに)」だという意識ではなかっただろうか。「国」とは「故郷」のことである、という意識だ。しかし、植民地主義の時代には、強大な軍隊を持った近代国家が交渉あるいは戦いの相手として登場してくる。この強大な相手に対抗するには、小さな地域でまとまるのではなく、国家全体として一つになれるような「近代国家」の意識を持った国民を育てなければならない。

かつての日本人にとっては、国というのは地方の自分が住んでいる地域のことであり、江戸時代では藩と呼ばれるものだった。それを明治政府は、天皇のもとに国民を統合することにより「日本人」という国民を創りあげることに成功した。近代化のためにもっとも有効な装置として天皇制を評価するというのが宮台氏がよく語る議論だ。これには僕もそのとおりではないかと共感する。

天皇制のもとに国民の意識が統一され、国家への忠誠心などが育てられた。また、江戸時代の社会組織が、明治以後の資本主義の導入において、宮台氏が、資本主義の精神として、その基礎を作るものと指摘する、日本人の勤勉さや時間概念・識字能力といったものが、資本主義の導入において役立ち、それが近代化を進めたということもあっただろう。

日本が近代化に成功したのはさまざまな幸運が重なったおかげだと言われている。この日本の近代化の成功を学び、自らの近代化に生かそうとしたのが清であるともマル激では語っていた。それでは、清は日本のどこを学び、どこを手本として近代化を実現しようとしたのか。それは、マル激の議論で語っていたのは、民族同化政策による国民の統一というものに、日本の近代国家としての成功を見たようだ。国として一つにまとまったことが、日本の近代化の成功の基だったという判断だ。

その判断の証拠としては、当時の日本で学んだ中国人留学生の多くが、帰国した後に周辺部の異民族の同化政策としての中国語の指導に赴いているというのを指摘していた。日本は、北海道でも沖縄でも、固有の文化をもっている先住民族に日本語を教育し、臣民意識を植え込むのに成功したというのが当時の中国の指導者の判断だったらしい。これは大いなる勘違いだったとマル激では指摘していたが、これこそが近代化への道だと考えるならば、同化政策のもとに国民意識を植え付けることが近代化であり、そのためには固有の文化を否定することも止むを得ないという考えも生まれてくる可能性が理解できる。

日本の同化政策や日本語の押し付けなどが、朝鮮半島では大きな失敗をしたことを中国が知っていれば、この勘違いは速やかに修正されたかもしれないが、そうはならなかったようだ。共産党支配の社会主義国家になっても、なおこの勘違いは維持されていたのではないかとマル激では指摘されていた。

中国のチベット問題における、その間違った根拠の一つが、実は軍国主義日本の近代化の思想にあったのではないかという指摘は、まったく思いもしなかったものだが、その論理的つながりはよく理解できるものだ。今でこそ、朝鮮半島での日本語の押し付けや、日本人になることの強制は、朝鮮民族の文化を否定するものとして非難されているけれど、当時の日本人は、進んだ近代人としての日本人になることで、朝鮮半島も進歩の仲間入りをするのだと信じていた人もいたのではないかと思う。客観的にはひどい行為をしていたと思うが、主観的には善意あふれる良いことをしていると思い込んでいたのではないかと思う。

この議論の最中に、宮台氏が「アジア主義」のことを思い出すと語っていた。そして、その特徴として「正義を実現するためには手段が正当化される」というような考え方の危険性を語っていた。

「アジア主義者」たちは、西欧列強の植民地主義に対抗するには速やかな近代化が必要だと主張していた。そして、その近代化は日本一国だけがしたのではとても西欧先進国には対抗できないので、アジア全体が近代化する必要があると考えていた。だからこそ「アジア主義者」と呼ばれていたのだろう。

この近代化は、遅れた国が無理をして行うところがあるので、その過程では侵略などの不当な行為に見えることも生じるだろうと考えていたようだ。しかし、近代化が実現した暁には、その志において不当なところがないことが証明されれば(宮台氏の言葉によれば、天皇が世直し宗教である日蓮宗に改宗すること)、その過程に起こった出来事もすべて免罪されると、「アジア主義者」たちは考えていたようだ。

この発想はイラク侵略を主導したアメリカのネオコンと呼ばれる人たちの思想にも見られると言う。宮台氏によれば、ネオコンの人々というのは、イラク戦争の結果においてその馬鹿さ加減が露呈してしまったが、思想においては非常に優れた頭のいい人々の集団だったと言う。僕は、この種の頭のいい人々には、ある意味では頭がよすぎて判断を間違えてしまうという結果が生じているのではないかと感じる。

目的のためには手段を選ばずというような、正義のために手段を正当化する発想は、頭のいい人間ほどそのような発想をするような感じがする。ヒトラーは、その行ったことの結果だけを見ると極悪非道な人間のようにしか見えないが、当時まったく疲弊していたドイツの経済を見事に復興させたりしたように、非常に優秀な人間であったことは確かではないだろうか。マル激のゲストでも出ていた岡田斗司夫さんによれば、世界征服をしようなどという人間は、あまりにも頭がよすぎて、他の人間がやっていることを許しておけなくて、指導のために世界征服を考えるのだということを語っていた。この種の頭のいい人間は、正義が分からない人々に正義を教えるために、ある意味ではひどい征服や侵略を行っても止むを得ないという発想に傾きやすいのではないかと思う。

正しいことをしているのであれば、その過程で起こった被害に対しては免罪される、あるいは結果が目的のものであれば、その過程で生じた失敗に対しては責任は問われない・免罪されるという発想は、しばしば無理な行動の選択をすることになり、甚大な被害を与える。非常に危険な結果に結びつくというのを知らなければならない。

正義のヒーローが登場する物語では、悪を退治するためにしばしば無理な戦いをし、その過程で無関係な犠牲者を生む可能性が見られる。ウルトラマンが破壊したビルの中に人はいなかったのだろうか、ということを気にする人は少ない。しかし、現実には誰かがいるだろうということのほうが多い。正義の実現はすばらしい行為であり、そこで犠牲になるものの存在が小さいものであれば、あまり顧みられずに放っておかれる。

宮台氏は、「アジア主義」の危険性を学び、それを中国に教えてやらなければならないということも語っていた。それは、我々が多くの犠牲を払って、身にしみて学んだことだからだ。ノー天気に正義を信じる、頭のいい・強い人間たちがいかに危険なのか、チベット問題に登場する中国の頭のいい指導者たちの姿は、この種の頭のいい人間と重なって見えるような気がする。そしてそのように理解すると、頭がいいにもかかわらず、なぜあれほどチベットの支配に固執するのかという理由が少し見えてくるような気がする。このような発想が、チベット問題を理解するためのカギであり、前提の一つなのではないだろうか。
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by ksyuumei | 2008-06-01 23:03 | 雑文


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