チベット問題の合理的な理解

チベット問題を合理的に理解するということは、中国の姿勢・態度を理解してそれを是とするということではない。むしろその逆で、チベットに対する中国の姿勢・態度は明らかに間違っていると思われる。しかしそれにもかかわらず、中国には間違っているという自覚がない。論理的にはおかしいと思われる理由でチベット支配の正当性をごり押ししているに過ぎないように見える。

中国はかなり多くの部分で論理的に正当だと思われる行動をしているのに、チベット問題に限っては、かなり無理をしてでもエゴイスティックな自分の利益を守ることに固執しているのだろうか。それは結果的には世界的な不人気を呼び、自らの利益を守る方向に働かないのではないかと、論理的には考えられるのに、その可能性を考えることが中国政府の目からは完全に消えている。この非論理性が、中国内部ではなぜ正当化されるのか。その合理的な理解をしたいというのがこの考察の目的だ。

中国はもともとそういう国なのだと受け取ってしまうと、合理的に思考する必要はなくなる。「嫌な野郎だ」という感情的な反応で終わってしまう。それを、結果的におかしいと思われる行動の中にも、なるほどこの原因があればこのような行動に結びつくのも無理はない、と合理的な理解が出来るように論理を構築したいと思う。そのような論理が見つかれば、その原因を取り除けば問題は解決すると思われるからだ。変なことをする人間も、もともとその人間が変なのではなく、普通の状態であれば合理的で納得できる行動をするという前提で考えるのが合理的な理解だろうと思う。変な行動に結びつくのは、そこに普通ではない何らかの原因があると思われるからだ。その論理的な結びつきが、チベット問題における中国には、どのようなところにあるのかを考えてみたいと思う。




考察のヒントにするのはマル激の第366回(2008年04月05日)「中国がチベットを手放せない理由」における平野聡氏(東京大学大学院准教授)の話だ。中国のチベットに対する態度が明らかな間違いであると判断するのは、そこにかつての日本が中国を侵略したことと同じ構造を見ることが出来るからだ。

日本の戦争を「侵略」と呼びたくないという人もいるだろうが、この判断においては、中国が日本の行為を「侵略」として非難していたということが重要だ。「侵略」という言葉の定義はナイーブなところがあるものの、基本的にはもともとそこに住んでいた人たちの権利を侵害して、外部から侵入してきた人間が利権の大部分を武力によって奪ったという面を見れば、日本の行為は「侵略」と呼ぶことが適当だし、それを非難する中国に正当性がある。日本としては、権利を侵害した部分で謝罪し、今後はこのような侵略行為が起きないことを保障して理解してもらう方向を取ることが正当な道だろう。

この、日本と中国における「侵略」をめぐる関係で中国に正当性があると認めるなら、中国とチベットにおける現在の関係においては、逆に中国がチベットを「侵略」していると判断するのが論理的だろう。中国はチベットにおけるチベット人の権利を侵害している。それは経済的な侵害にとどまらず、仏教の弾圧という宗教の自由に対する弾圧もある。近代的な自由概念の発展から言えば、日本の侵害よりもさらにひどいことをしていると言ってもいいだろう。そしてこの弾圧は、警察権力を使って暴力的に行われている。これは明らかな「侵略」であると判断できるだろう。

中国がかつての日本を非難するのなら、今の中国がチベットで行っていることも同じように非難されなければならない。そうでなければ論理的な整合性が取れない。日本は非難されるが、中国は正当化されるといえば、矛盾を認める非論理的な思考だと言われても仕方がない。ここに、チベット問題における中国の明らかな間違いというものが見えてくる。

中国は、なぜこのような非論理的な主張をしていて平気でいられるのだろうか。日本の戦争は「侵略」ではないと主張して、中国のチベット問題を非難している「右翼」の方々だったら、もしかしたらこの中国の矛盾が心情的に理解できるかもしれない。だが論理的に捉えようと思ったら、この矛盾は、いつまでも形式論理的な矛盾として残り、観点・視点の違いから対立の存在が認められるという、弁証法的な矛盾としては解消できないことが分かる。

「侵略」という定義を客観的に設定すれば、日本のかつての行為も、中国の今の行為もともに「侵略」だと判断できる。これは同じ観点からそう判断できるのであって、違う観点で同じように「侵略」と判断しているのではない。そして、「日本の侵略」は不当だが、「中国の侵略」は正当だと判断するなら、その正当性の判断には客観的な基準はないといわなければならない。構造的に同じものが正反対の判断になってしまうのだから、そう思いたいからそう思っているだけだということになってしまうだろう。ここに見られる「侵略である」という判断と「侵略でない」という判断の、肯定と否定の二つの判断は、視点・観点の違いから両立するものではなく、絶対に両立しない形式論理的な矛盾としてのものだとしか言えないだろう。

僕は中国の事情には詳しくないので、中国がなぜこのような間違った論理的判断をするのかを想像するのは難しい。しかし日本人だから、日本の「右翼」が、日本の戦争を「侵略」ではないと判断して、中国の現在の行為を「侵略」だと判断する思考については少しは想像できる。心情的な理解は出来る。それをちょっと考えてみよう。

それは宮台氏がよく語る「アジア主義」というものに通じる考え方だ。日本は現象的には中国への侵略をしたように見える。客観的に「侵略」を定義すれば、それは「侵略」と判断されても仕方のない現象が、かつての歴史にはある。しかし、それは「アジア主義」というもっと大きな観点から見れば、西欧列強の植民地支配に抵抗し、西欧列強を追い払うという目的のためには過渡的にはそのような現象が起こっても許されるという思考法もあることは理解できる。これは、結果的に迷惑をこうむる人々にとっては、勝手な言い分のように聞こえるかもしれないが、論理としては構築することが出来るものだ。

日本が開国したのは、そのまま鎖国状態を続けていても、その当時の西欧列強の軍事力にまったく抵抗できないことが明らかになったので、とりあえず開国して近代化を進めなければならないと考えたからだといわれている。近代化こそが国家存続のための緊急の課題であり、他の問題は近代化の後に取り組むもので、近代化がすむまでは多少の犠牲は止むを得ないという判断だっただろうと思う。

そしてまた、日本だけが近代化をしただけでは、日本の主権を守るには足りないと考えた人々が「アジア主義」を唱えたというふうに僕は宮台氏が語っていることを理解している。アジア全体で近代化をして抵抗しなければ、回りすべてが植民地支配されれば日本も危ないと考えるのは、論理的には正当な展開ではないかと思う。

ただ、後発の後進国が近代化するには、かなりの無理をしなければならない。まして自国のみではなくアジアの諸国までも近代化しようとすれば、それを無理やり押し付けて、表面的には「侵略」に見えることも生じてくるだろうと思われる。「アジア主義者」たちにとっては、その「侵略行為」は、結果的に近代化されて植民地支配に抵抗できたときに正当化されるのだと考えられていたようだ。

歴史の展開が、アジア主義者たちが考えている方向に行っていれば、かつての戦争は今では「侵略」とは呼ばれていなかったかもしれない。しかし、歴史はそのような展開を見せなかったので、「侵略」した部分だけが評価されて歴史の評価となってしまった。かつて「右翼」の音楽家黛敏郎氏は、「戦争に負けたことが非難されているんでしょ」というようなことを語っていたが、この発想は、アジア主義者の理想が志半ばで挫折したから非難されているのだという心情を表しているのだろうと思う。

宮台真司氏は、アジア主義者の理想の挫折を、理想を求めながらその手段を間違えたために、結果的に理想とは程遠いものをもたらした論理の展開を、失敗の歴史として正しく受け止めなければならないと語っていた。理想を求めることは正しいが、理想のために手段を選ばずという方向に論理が展開すれば、それは非常に危険な一歩を踏み出すことであり、悲惨な結果をもたらすということを学ばなければならない。

日本人としては、かつての戦争を、その結果のみを取り上げて「侵略」だと一方的に非難されるのを、心情的には反発したくなる気持ちは理解できる。そんなつもりではなかったのだと言いたくなる気持は、日本人であれば理解可能だろう。しかし、それは心情的な問題であって、論理的にはやはり「侵略」を認め、結果がなぜこのような正反対のひどいものになったかという原因を論理的に正しく求めなければならないだろう。

日本人が、かつての戦争を「侵略」ではないといいたい気持を、僕はこのように理解しているのだが、マル激の議論を聞いていると同じような心情が中国人にもあるような気がする。ゲストの平野さんによれば、中国はその近代化のモデルを明治維新によって成功した日本に求めたところがあったということだ。最も大きな注目点は、国民国家として民族的な統一をして、国を一つにまとめて近代化をした点に求めたらしい。近代国家としての富国強兵を目指すなら、日本のように民族を統一してナショナリズムを高揚させることが課題だと考えたらしい。

このような発想を前提にして考えてみると、チベットの仏教の弾圧なども、民族的な統一を図るためには漢民族と同等な習慣・習俗を押し付けることが正しいという発想が見えてくる。中国語を押し付けたということもあったらしい。これなどは朝鮮半島で日本語を押し付けた日本の姿と重なるところだ。それは、日本が朝鮮半島の人々の文化を破壊したひどい行為として今は語られているが、アジア主義的な視点から言えば、朝鮮半島の人々も日本語を学んで日本人になることで国家としての統一が図れると考えたのではないかとも感じる。

結果的には、日本語の押し付けはうまくいかなかったのだから、アジア主義者たちの予想は外れたことになる。つまりそれは間違いだったわけだ。この間違いをどう正しく理解するかが、今の中国の間違いを合理的に理解することにつながるのではないかと思う。

かつての日本の戦争を「侵略」でないといえば、それは歴史を否定するものだと非難されるだけだった。しかし、あの戦争を「侵略」でないと考える考え方こそが、結果的に「侵略」を生むという論理の皮肉を正しく理解するには、そのような考え方を、考えてはいけないことというようなタブーにするのではなく、そのような発想が生まれてくる可能性を理解することが必要なのではないかと思う。宮台氏は「アジア主義」を学ぶべきだといっているが、それは「アジア主義」に共感して賛成することではなく、その間違いを正しく理解するために学ぶべきだと語っているのだろうと思う。今の中国の間違いを理解するヒントはこのようなところにあるのかもしれない。そして、そこにどのように伝統的な中華思想の蓄積が関わっているのか。その構造が整合的に理解できたとき、チベット問題も合理的な理解が出来るのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2008-05-23 10:23 | 雑文


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