論理解明のためのウィトゲンシュタインの関数

野矢茂樹さんが紹介するウィトゲンシュタインの関数の具体例を通じて、その関数概念の把握と、それがどのようにして論理構造の解明に役立てられるのかを考えてみたい。野矢さんは、概念理解の目的のために非常に単純な世界を設定する。名として設定されているのは次の6つの言葉だけとする。

 「ポチ」 「ミケ」 「富士山」 「白い」 「走る」 「噴火する」

この単純な世界では、これら6つの言葉を用いて表現されるものだけが実現可能な「事態」となる。単純化するために日本語の助詞も省略して、二つの名の結びつきだけで表現を考える。たとえば

 「ポチ」-「白い」

というなの配列によって、「ポチ」という個体が「白い」という属性を持っていることを表す。現実に「ポチ」(これはたぶん犬の名前だろう)が「白い」ならば、この「事態」は「事実」として、この世界に実現されているものになる。このとき、言語の配列として

 「ポチ」-「噴火する」

というものも形式的には作ることが出来るが、「ポチ」と「噴火する」という二つの名の論理形式が、このような表現を含んでいなければ、この配列による表現は、この世界では無意味だということになる。つまりこの配列は「事態」にならない。このあたりの解析をもっと厳密に行うために、野矢さんは次のような関数を作る。



 「ポチ」-x

xは変項で、ここに他の任意の名を入れて考える。そうすると「白い」と「走る」は有意味の表現になるが、他の名を入れた時は無意味な表現になる。野矢さんは次のようにまとめている。


 ポチ関数「ポチ-x」…定義域 「白い」「走る」
           値域 「ポチ-白い」「ポチ-走る」


ウィトゲンシュタインの関数においては、定義域として考えている対象は「名」であって現実の存在ではない。また値域として考えているのは、命題の表現であって、その命題が正しいかどうかという真偽値ではない。フレーゲ・ラッセルの関数とのこの違いが、両者の論理の解明の違いにつながってくる。ウィトゲンシュタインが関数の判断の基準として捉えているのは言語の意味であって、現実世界のあり方がどうなっているかではない。ウィトゲンシュタインの論理の世界はあくまでも言語の使用というものを基礎にしている。

現実の「ポチ」が「白い」かどうかを見て「ポチ-白い」が関数として成立するかを判断しているのではない。日本語の使い方の中に、そのようなものが有意味になるということから、これが関数として定義域と値域がどうなるかを決定する。現実が関わってくるのは、これが「事態」ではなく「事実」になるかどうかという判断のときだけである。それが可能性の段階にとどまり、現実化していなければ「事態」であり、現実に「ポチ」が「白い」ならばその表現は「事実」になるということで現実が関わってくる。論理の世界では、そう表現できるかどうかという言語の使い方だけが問題にされる。

野矢さんは、「白い」についても次のようなまとめ方をしている。


 白い関数「x-白い」…定義域 「ポチ」「ミケ」「富士山」
           値域 「ポチ-白い」「ミケ-白い」「富士山-白い」


この関数の定義域と値域の判断においても、現実を観察した結果として判断しているのではない。言語の使い方からこのように判断しているだけだ。このように現実と無関係に言語の範囲のみで関数と命題を考えるというのは、それが「事実」という現実世界から解析されてきたということと、何か本末転倒ではないかという印象も感じてしまう。フレーゲ・ラッセル的な、現実の対象の属性から判断するほうが、論理としての信頼性が得られるのではないだろうか。少なくとも現実に成立していることから「正しさ」を感じることが出来る。単に言葉の使い方が正しいというだけで論理の正しさを信頼できるものだろうか。

そのような疑問をウィトゲンシュタインはどのように解決しているのだろうか。野矢さんの解説を読むと、ウィトゲンシュタインのこのような発想は、あくまでも論理とそれを表現する言語の解明のための道具として使っているに過ぎないという。我々が語っていることの実質が正しいかどうかという、現実との結びつきの真理性を問題にしているのではなく、我々はどこまで論理によって思考を展開できるかという、思考の限界を求めるために、思考において使われる言語の限界を見極めようということがウィトゲンシュタインの問題意識だということなのだろう。

ウィトゲンシュタインによれば、世界とは成立している事柄であり「事実」と呼ばれるものとして現れる。そして、それを表現するものとして言語が使われる。その表現されたものである「命題」を分析して抽出されるものが「名」になる。この「名」の論理形式を解明することが、我々の論理的思考を解明することであり、我々が何をどこまで考えることが可能なのかという限界を捉えることになる。

人類の進歩がまだわずかだった頃は、世界はおそらく単純なものだっただろう。それを表現する言語も単純なものだったに違いない。つまり、かつては「名」は多くなかっただろうと思われる。そのような時代は、人類が思考できる範囲も狭く、大部分が「分からないこと」「思考できないこと」になっていたのではないかと思う。

だが、だんだんと「事実」として捉えられることが増え、その表現が豊富になるにつれ「名」も豊かになり、言語表現として有意味なものが複雑化し立体的になっていったのではないかと思う。論理も豊かになり進歩したのではないだろうか。現在の人類は高度に発達した言語環境の中で生まれ育つというふうになっている。

我々は現実から何かを学ぶ前に、すでに言語によって多くの教育を受けている。我々にとっての真理とは、実際に体験して得られるものよりも、言葉として受け入れた「知識」が圧倒的に多い。他人の経験を追体験して、想像の世界での体験(これが論理と呼べるものになるだろう)が我々の真理の体系を作る。その論理の体系を解明するのがウィトゲンシュタインの目的だと僕は感じる。ウィトゲンシュタインにとっての論理とは、言葉の正しい使い方の解明に他ならない。そして、我々は言葉の正しい使い方を知ることによって、思考を展開し、その結果として体験していないことまでも予想し、しかもそれが真理となることを確信する。

我々の言語の使い方には、人類のこれまでの歴史が刻まれている。人類が経験から得た真理が言語を通じて伝えられているという感じだろうか。「ポチ-白い」は日本語の使い方として論理形式にかなっているが、「ポチ-噴火する」は日本語の論理形式にはない。これまでの先人の体験によって「ポチ-噴火する」は現実化しないということが言語規範に、言語のルールとして刻み込まれている。だから、我々は、現実に「ポチ」が噴火するかどうか確かめることなく、この表現が無意味であると判断する。同様に、現実の「ポチ」が白いかどうか判断することなく、「ポチ-白い」は論理形式として存在することを知っている。

この論理形式を、我々がどのようにして知っているかは分からない。知っているという「事実」があるだけだ。ウィトゲンシュタインは、「名」の論理形式の解明は、言語に熟達している人間のみが行うことが出来ると語っていたと野矢さんが書いていた。論理というのは言語なしに駆使することは出来ないし、この前提は、現実を捉えるものとしては必要なのではないかと感じる。

さて、このようなウィトゲンシュタインの関数において、論理はどのような現れ方をするだろうか。それは合成関数として見えてくるような気がする。野矢さんが提出した単純な世界では「名」の数があまりにも少ないので論理というところまで行かずに、有限個の「名」の組み合わせですべての命題が尽くされてしまうが、もう少し複雑化した世界では、組み合わせの数が多量なので、論理を見通すにはうまく合成関数を作らなければならないのではないかと思う。たとえば

 「ソクラテス-人間である」
 「人間-死すべきものである」

という二つの論理形式があったとき、この両者を関数として捉えて、

 「ソクラテス-x」
 「x-死すべきものである」

とする。このときxが両方の関数に重なる「名」であるなら、ここから合成関数が作られる。そうすると論理形式として

 「ソクラテス-死すべきものである」

という命題が導かれるだろう。これも「名」の論理形式として存在はしているであろうが、これが「事態」ではなく「事実」になることを、直接現実に問い掛けて確かめるのではなく、

 「ソクラテス-人間である」
 「人間-死すべきものである」

この両方が「事実」であることを確かめて、現実を検証することがなくても確信できるというのが論理の働きではないかと思う。「ソクラテス-死すべきものである」という命題は、「名」の論理形式から、「事態」であることはすぐに確認できる。それが「事実」であるかどうか、つまり現実化していることであるかどうかは、直接確かめれば分かるが、直接確かめなくとも論理を使えば確証できる。さらにいえば、直接確かめることに大きな困難がある時は、論理を用いてそれが「事実」であるかどうかを見る以外に方法がないだろう。目撃者のいない過去の「事実」を確かめたり、まだ実現されていない未来の「事実」を正しく予想したりする時は、論理を用いる以外に真理を求めることはおそらく出来ないだろう。

あることが「事実」であるという前提に立てば、論理形式を把握している事柄は、その前提の元での真理を論理によって求めることが出来る。それが論理の持つ威力というものだろう。論理形式を把握している人間は、今までに知られている「事実」から、その世界における大部分の真理を導くだろう。これが「すべて」と言えないのは、ゲーデルの不完全性定理があるからだ。おそらく「すべて」というのは「無限」という厄介な概念に引っかかってくるので、現実世界の把握の範囲を越えるからだろう。

いずれにしてもウィトゲンシュタインの発想ならば、現実世界の真理性が把握できそうだ。したがってパラドックスの生まれる余地がなくなりそうな気もする。これがラッセルのパラドックスを解決するカギにもなっているのだろう。フレーゲ・ラッセルの発想は、数学に近いので、何らかの意味で現実を越えて数学の世界に踏み込んでいるような気がする。そのためにパラドックスの発生を許してしまっているようだ。ウィトゲンシュタインの発想が、どのようにパラドックスを防いでいるかを、この次は詳しく検討してみたいと思う。
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by ksyuumei | 2008-05-10 10:20 | 論理


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