論理トレーニング 19 (議論の組み立て)

練習問題の問3は次の問題である。


問3 次の文章を読み、根拠の関係にあるものをすべて取り出し、その関係を、「1→(2~5)」や「(1,2)←3」のように文番号と記号を用いて答えよ。

1 刺身は活け作りに限るかといえば、そうでもない。
2 締めたばかりの魚は、実はおいしくないのである。
3 鯛などの刺身は身のしまったコリコリした感触にそのうまさがある。
4 一般に、魚肉のような、タンパク質でできているものは、アルカリ側だとドロリとした感じになり、酸性になるとコリコリとした感触になってくる。ところが、
5 鯛などの白身の魚は、生きているときはややアルカリ側にあり、締めてから徐々に乳酸などが身の中にできて、魚肉が酸性になる。だから、
6 活け作りはかえってドロリとした感触になり、むしろしばらくたった身の方がコリコリしておいしいのである。さらに、
7 締めたあとしばらく寝かせておいた方が、うま味が出ておいしくなる。
8 魚のうま味成分は、主にグルタミン酸とイノシン酸である。
9 この内、グルタミン酸の方はほとんど増減しない。他方、
10 イノシン酸は、魚が生きているときには肉の中にわずかしか含まれないのだが、死後に猛スピードで増えてくる。そして
11 イノシン酸は、ほんの少し増えても、グルタミン酸との間に相乗作用が起こって、遙かに強くうま味を感じるようになるのである。


この問題から、根拠の論理関係を取り出すのだが、それが表現されている接続詞は5と6の間の「だから」しかない。表現されているのはこれだけだが、根拠の論理関係が、ここの他には認識されていないかといえばそうとは限らない。認識の中にあってもそれが直接には表現されていないということはあり得る。




根拠を直接表現する言葉として「から」というものがある。これは日本語を教えるときなど、理由を述べるときに使われるという教え方をする。この理由を述べる言葉として、日本語教育では「ので」という言葉も使われる。この二つには微妙なニュアンスの違いがある。

「ので」の方は、野矢さんも書いているが「のだ」という断定の判断に由来し、そこにある認識は、根拠というよりも肯定判断という意味合いの方が強い。この肯定判断がなぜ根拠・理由を相手に伝えるかといえば、そのような事実が実際にあれば、それに続いてこのようなことになるのは仕方がないかな、と思えるような客観性がそこにあるからだ。つまり、事実を述べれば、そこから論理的に帰結されることがほぼ自明であれば、特にそれが根拠だと語らなくても、事実さえ言えばそれが根拠であることが相手に伝わる。

雨が降れば運動会が中止になることが確実であれば、「雨が降った<ので>、運動会は中止です」という言い方に誰も違和感は感じない。この「ので」が、もし個人的な理由の表現として使われていたら、多くの日本人は違和感を感じるのではないだろうか。たとえば、「気分が乗ってこない<ので>仕事を休みます」なんて言われたら、「なんていい加減なやつなんだ」という気持ちがわいてこないだろうか。仕事を休む理由として、「気分が乗ってこない」などというのは、客観的に納得するだけの理由になっていないからだ。

これを、親しい友達に対して、「気分が乗ってこない<から>今日は仕事を休んでのんびりするよ」などというのは、それほど違和感は感じない。「から」は理由を直接表現するだけに、その理由が個人的なものであっても、自分で自覚しているときはそう表現しても、そう表現する人自身がそう思っているなら仕方ないなという感じがしてくるからだ。「ので」は断定の表現であって、本来は理由の表現ではないから、それが客観的に根拠として成立しないのではないかと思えるときは、そう表現することに違和感を覚えるのだろう。

このように考えると、問題文で直接根拠の表現として使われている「だから」の部分以外では、断定の表現が使われているところが根拠として成立するかどうかということが論理関係の判断に際して重要になるだろう。雨が降れば確実に運動会が中止になるという前提を持っていれば、「雨が降った」という断定ができたとき、そこから「中止になる」ということが論理的に帰結できる。このようなときは、そこに根拠としての表現の「から」が使われていなくても、認識の中には根拠の論理関係があると判断してもいいだろう。それぞれの断定の判断の間に、客観的な因果関係があるかどうかを現実世界の問題として検討してみよう。

1と2はほとんど同じことを言っている。つまり「1=2」である。このとき、1と2に根拠を示す因果関係があると言えるかどうかは論理的には難しい問題ではないかと思う。論理の法則には「A→A」という同値律があるからだ。ある命題を肯定すれば、当然その命題を肯定する結論を導けるので、これを「→」の関係として記述することもできる。だがこれは、内容的にもまったく同じ、つまり文言までもが同一の命題でなければ形式的にはこう言えないものになると解釈すれば、文言が違う1と2の命題は、どちらかがより基本的、たとえば常に時間的に先行するとかいうことがない限りは、根拠の関係ではなく、同等の「=」の関係として見た方が論理的ではないかと思う。

1では、活け作りが「必ずしも」おいしいとは限らない、という主張になっている。つまり、活け作りにもおいしくないものがあるという存在を語る命題になっている。これがもしも「すべて」の活け作りの魚がおいしくないという全称命題であれば、そこから2の命題が論理的に帰結する。なぜなら、「締めたばかりの魚」は「活け作りの魚」と同じになるので、全称命題が成立する命題が「締めたばかりの魚」にも成立するからだ。

しかしこれは全称命題ではないので、2の「締めたばかりの魚」は、実際に1の「活け作りの魚」と重なる同じものになるかは、現実に食べてみなければ分からない。論理的な帰結ではなく、現実的な実験の結果として重なるかどうかが判断される。「締めたばかりの魚」は、「実は」おいしくないと語っているのが2であるが、それがおいしい場合もあるのである。だが、1の「必ずしも」おいしくないというものと重なる魚なら、「実は」ということが言える。だから1と2の関係は、論理的な帰結ではなく、現実的な事実として重なるとき同じことを述べているという関係になる。

この、現実においしくないとされる魚があったとき、3~11までは、その「おいしくない」ということの根拠を説明する命題が続いていると解釈できる。

3 コリコリしているのはおいしい … コリコリしていない「から」おいしくない
4 酸性になるとコリコリする
5 鯛は生きているときはアルカリ性で締めてから徐々に酸性になる
  …(4と5から)死んですぐはコリコリしない
6 しばらくたった身の方がコリコリしている … 死んですぐはコリコリしない
7 締めてしばらくたった方がうま味が出る … 死んですぐはうま味がない
8 うま味成分はグルタミン酸とイノシン酸である
9 グルタミン酸の方はほとんど増減しない
10 イノシン酸は死後に猛スピードで増える
11 イノシン酸とグルタミン酸の相乗作用でうま味が出る
  …(8~11から)死んですぐはうま味が出ない

3~11までの命題からは、「死んですぐの魚にはおいしくないものもある」ということが、その事実を認めれば論理的に帰結されることが、現実の関係から判断できる。以上から根拠の関係を求めれば野矢さんの解答である

   (1,2)←(3~11)

というものが納得できるだろう。なおここでの考察において、おいしくないことの根拠を求めた過程で、死んですぐは「コリコリしない」ということと「うま味がない」ということが「おいしくない」ということにつながっていることを見たが、この二つの帰結もまた、部分的な根拠の論理関係になっていると考えられる。野矢さんの解答によれば、直接の主張は

6 しばらくたった身の方がコリコリしている
7 締めてしばらくたった方がうま味が出る

の二つだと考えられる。この二つの根拠となっている命題を求める。6でいえば、「コリコリしている」ということの根拠になっているものを求める。それは4で語られている「酸性になる」ということであり、5で語られている「死後徐々に酸性になる」ということがコリコリ感を造りだすという根拠になると考えられる。野矢さんは、6の根拠に3も含めているが、これは6の前半の「ドロリとした感触」がうまくないという判断をもたらし、それがうまくないという根拠として3で主張する「コリコリした感触にそのうまさがある」ということが関係しているという判断だろうか。

「うまさがある」という主張そのものは、なぜコリコリしているかという理由にはなっていないので、6の主張の後半と結びつけるのが難しい。また4では、生きている間のアルカリ性がドロリとした感じになると語っているので、6の前半の「ドロリとした感触になる」ということの根拠としても提出されている。だから、根拠としては4と5で足りる感じもするのだが、3の位置づけが野矢さんの解答では

   (3~5)→6

となっている。ここはまだ十分納得できていないので難しさを感じるところだ。

もう一つの根拠の関係は、野矢さんは

   7←(8,10,11)

と解答している。9を除いてあることに注意を喚起している。7の主張である「しばらく寝かせたあとの方がうま味が出る」ということの理由は、イノシン酸が死後に増えて、その作用でグルタミン酸にも効果が出てうま味成分が強くなるということが語られている。そうすると、9の「グルタミン酸が増減しない」という主張は、グルタミン酸の方は、魚が生きているか死んでいるかということに、直接「うま味」との関係はないということを物語っているだけで、死んだあとの方がうま味が強く出るということの根拠にはなっていない。

これは、イノシン酸が死後増えるということとの対比として、レトリックの効果を持たせるための文章のように感じる。論理構成の観点からは、これがなくても論理的な効果はあまり変わらないのだろう。だから、野矢さんがこれを7の根拠からはずしていることには、十分納得がいく。
[PR]
by ksyuumei | 2008-03-04 10:48 | 論理


<< 論理トレーニング 20 (議論... 論理トレーニング 18 (議論... >>