論理トレーニング 10 (接続の構造)

野矢さんが、論理構造の解析を求める次の問題は以下のものである。


問3 次の文章を読んで問に答えよ。
「ある心理学者たちはこう主張する--

1 カラーテレビの画像の色は、実は目の錯覚をうまく利用したものなのである。その根拠は、
2 カラーテレビに映った色は3種類の光を発する光点(赤、緑、青)からなっており、たとえば、
3 黄色に見られている部分で実際に光っているのは赤と緑の光点に過ぎず、
4 単にそれが小さいため明確に見えないということにある。それゆえ、
5 目の極端によい人にとってや拡大鏡を用いる場合には、実際にあるようなまだらな画面が見えるであろう、というわけである。

しかしながら、小さいものが見えないことが錯覚の根拠であるとすると、われわれの知覚のほとんどすべては錯覚だということになる。たとえば、われわれはモネの描いた絵を見てそこに睡蓮の花を見いだす。しかし実際にキャンバスの上に存在するのは、様々な絵の具の斑点に過ぎない。それ故、睡蓮の花の知覚は錯覚である。あるいは、水道水は透明に見える。しかし、顕微鏡で見れば分かるように実際にはそこに様々な含有物が含まれている。それ故、透明さの知覚は錯覚である、といった具合である。したがって、このような帰結を避けるのであれば、カラーテレビの場合も、必ずしも錯覚という必要はないことになろう。」

(1)1~5の接続構造を記号と番号を用いて図示せよ。
(2)下線部の「このような帰結」の内容を述べよ。


この問題も、接続詞による部分の構造が、全体の主張と論理的にどうつながっているのか、その接続詞が影響する主張はどこからどこまでなのかを、全体の主張の内容から読み取っていこうと思う。



接続詞の前後の主張の関係は、接続詞から次のようになっているものと考えられる。

   1 その根拠は 2 …… 1←2(根拠)
   2 たとえば 3  …… 例示
   3 + 4     …… 付加
   4 それゆえ 5  …… 4→5(根拠)

3と4の間には接続詞がないが、意味においては、光点に関して光点そのものに対する言及(3)と、それがどう見えるかという、見ている主体に対する言及(4)とが、単純に付け加えられていると判断した。これらの部分の構造が、全体としてはどのように働いているだろうか。

まず1の主張の「錯覚」ということに関しては、意味的には2から5までのすべての主張で語っているように思われる。だから、根拠の論理構造が及ぶ範囲は、

   1←(2~5)

というふうに図示されるだろう。2から5までの論理構造は、「たとえば」で語られている具体的な例示がどこまで及ぶかということを、その意味から考えて判断する。そうすると、「黄色に見られている部分」と具体的に指摘されている対象は、4では「それ」と指摘されて同じ具体的なものであることが語られている。そして5で語られている「まだらな画面」も、一般的に語ったものではなく、この「黄色に見られている部分」について語ったものと思われるので、「たとえば」の構造は3から5まで及ぶと考えられる。ここまでを図示すると

  1←(2たとえば(3から5))

ということになるだろうか。というふうに僕は最初考えたのだが、野矢さんの解答を見ると、「内容から判断して」2の例示になっているのは3だけだと考えている。4は、具体的な対象として「それ」が3と同じものを指しているにもかかわらず、例示としての提示になってはいないと判断している。

これは、よくよく考えてみると、2の判断は、光点そのものに関してそれが3種類であることを語っているだけで、それが「小さい」ということを語っていない。もし2の例示であるなら、3種類であることに関係する例示になっていなければ内容的なつながりがないということになるだろう。

4では、具体的な対象としては同じでも、それを見ている視点が違ってきている。これは別の話を付け加えたと判断する野矢さんの解答の方が妥当ではないかという気がしてきた。

僕の最初の印象や判断と野矢さんの解答が食い違うということはよくある。その意味で解答がついているのは有り難い。時には、前回のエントリーのように、どうしても解答に納得できずミスプリントではないかという思いが残る場合もあるが、たいていの場合は、最初の思い込みが間違っていて、野矢さんの解答が正しいことに納得できる。これは、論理というものは、よくよく考えて正しい結果を出せば一致するものなのだということを意味しているのだろうと思う。

前の「論理トレーニング 5 (接続詞の選択)」のコメント欄で数学snobさんが寄せてくれた指摘を見たときも、よくよく考えてみると数学snobさんの指摘の方が正しいと思えるようになった。これなども、論理的に正しいものなら同じ結論に達するということではないかと思う。また、いいわけではないが、このように間違える・失敗するという要素を持っている問題だからこそトレーニングにはふさわしいいい問題なのではないかと思う。人間は、間違えることによってその部分をもっと印象的に学べるのではないかと思う。

以前のエントリーの間違いに対してさらにいいわけをするのではないが、僕の最初の思い込みというのは、全体の論理構造がこうなっているから、部分もこうなっているに違いないという先入観があったためではないかと感じた。「木を見て森を見ず」の反対で、「森を見て木を見ず」というような失敗をしたように感じた。この問題でも、野矢さんの解答と僕の考えが違ったのは、そのような全体の論理構造を部分に押しつけたことが原因ではないかと思う。

4でも同じ対象を指しているから、これは具体的な例示だという思い込みは、2から5までが同じ主張の補強を繰り返し語っていると思えるからだ。しかし、2の内容は、あくまでも種類に関することなので、小さいということに関しては別の話だと解釈した方が論理構造としては正しいだろうと思う。したがって、ここの構造は、

   (2たとえば3)+4

ということになるだろう。次の問題は、「それゆえ」で導かれている5の根拠が4だけなのか、それ以前を含むのかということになる。(2,3)と4が別のことだと考えると、これは4だけのような気もするのだが、野矢さんの解答では、2から4までの3つが5の根拠となっていると判断している。

これは、内容的な判断でそうしている。「まだらに見える」という結論が、光点が小さいということだけから導かれるかどうかということだ。これはやはり、小さいだけではなく色が3種類あるからこそ、それが区別できればまだらになるという帰結に結びつくのではないかと思う。「まだらに見える」という判断においては、小さいだけではなく、色が違うものが見えるということがなければならないのではないかと思う。これは野矢さんの解答が納得できる。

以上を考え合わせると、この問題の解答である論理構造は次のように図示されるだろう。

    1←(((2たとえば3)+4)→5)

これは、確かに野矢さんの解答と一致する。

もう一つの問題の「このような帰結」の内容だが、これは具体的には

・カラーテレビの画像の色は、実は目の錯覚をうまく利用したものなのである。
・(モネの絵で)実際にキャンバスの上に存在するのは、様々な絵の具の斑点に過ぎない。
・水道水は透明に見える。しかし、顕微鏡で見れば分かるように実際にはそこに様々な含有物が含まれている。

と語られている帰結のことだ。「このような」という言葉で指されていることを考えると、この具体的な言い方を抽象してまとめたものが「このような帰結」の内容になるものと思われる。これは、どの主張も、実際に目に見えることは、もっと小さい視点にしていけばすべて目に見えたようには見えなくなるということを語っている。つまり、われわれが肉眼で見る世界は「すべて錯覚だ」と語っているような結論になる。野矢さんは次のように模範解答を示している。


「われわれの知覚のほとんどすべてが錯覚だとされてしまうという帰結」


これは、その通りだと納得できる解答だろう。

論理というのは、その全体をつかんだと思っても部分で間違えるときがあるし、部分をつかんだと思っても全体の構造を間違えるときもある。誰が考えても同じ結論に達するはずであるのに多くの間違いがあるというのは、それだけ難しい面を持っているということだろうと思う。特に先入観というものは論理を間違えさせるのに大きな影響を持っている。僕が「イズム」というものが気になるのも、「イズム」というものが大きな先入観となるからだろうと思う。そのもっとも極端な失敗の例は、われわれは「マルクシズム」というもので経験した。この経験をもっと深く学んで、論理の間違いを避ける技術を習得するのに役立てたいものだと思う。
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by ksyuumei | 2008-02-20 09:45 | 論理


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