接続の構造は、野矢さんの解答を見ても、それが正しいと確信するのに苦労するところがある。全体の構造というのは、単に部分である言葉(接続詞)だけを見ていても分からないところがあり、文脈というものを読み取る必要があるからだろう。この文脈というやつは、いつでも勘違いしてしまう可能性がある。何らかの先入観があって文章を読むときは、そこに書かれていない事柄を前提にして読んでしまうので、表現された論理以上のものを論理的に読み取ってしまうのではないかと思う。野矢さんが、その構造を解析するように求める問題を見てみよう。
例題3 「1 語の意味とは、単なる定義的意味ではない。たとえば、 2 「独身」という語は、「結婚していない成人」と定義される。しかし、 3 この定義に当てはまるにもかかわらず、同棲しているゲイのカップルやターザンやローマ法王などを「独身」と呼べば、「それはおかしい」と思うだろう。 4 この語は、「結婚及びその適齢期に関して一定の期待がある社会」という文脈でなければ、意味をなさないからである。つまり、 5 この語は、定義を知るだけでなく、その語が用いられる文脈をも知らなければ、使用できないのである。」 それぞれの主張を接続詞で関係づけると次のようになる。 1 たとえば 2 2 しかし 3 3(なぜなら)4 だから 4 つまり 5 3と4の間には、問題文には接続詞が使われていないが、「意味をなさないからである」という言い方から、接続関係は「なぜなら」という語を使って表現されると解釈した。この接続関係がどの範囲まで及ぶかというのに答えるのが、文章全体の論理構造、すなわち接続構造を解析することになる。 それぞれの主張の関係を捉えるには、その主張が主題としている事柄が何であるかをまず知らなければならない。そうすると、1の主張は一般的な内容を持ったものであるのに、2から5までは「独身」という語に関する様々な説明になっていることが分かる。つまり2から5まではきわめて具体的なことを語っていることになっている。これは、「たとえば」という接続詞が2から5までの内容に対して使われているという構造を示すだろう。すなわち 1 たとえば (2から5まで) という接続構造になっていると考えられる。 そこで次に2から5までの内的なつながりを考えてみる。2は「独身」という語に対して「結婚していない成人」という定義を与えているが、それを「しかし」で受け継いで3では、「結婚していない成人」であるけれども「独身」と呼ぶのはおかしいというような例を挙げている。この対立が「しかし」という接続詞で捉えられている。 そうすると、このどちらの主張と内的な関連を持っているかで、4がどちらと構造的につながっているかという判断ができる。4で語られる主張が根拠になり、「なぜならば」という結び方ができるのは、2の方だろうか、それとも3の方だろうか。言葉のつながり方としては、その直前の主張を導いた方がわかりやすくなると思うが、どうなっているだろうか。 4では「独身」という語は、ある文脈の下で使わないと「意味をなさない」、つまり「おかしい」と思われるという主張が語られている。そうであれば、これを根拠として「なぜならば」と言えるのは、3で語っている「おかしい」という主張になる。つまり4が論理的につながるのは3であるということになる。 今僕は「つまり」という接続詞を使ったが、僕が使った「つまり」は、ある理由を語って結論を言う「つまり」なので、根拠を示す「つまり」として使った。4の内容が論理的には3とつながっているという判断の根拠を示すために使った。このように「つまり」は根拠を示すために使う場合もあるのだが、4と5の間に使われている「つまり」は言葉の言い換えとして、解説の意味で使われている「つまり」だと野矢さんは指摘する。 野矢さんは、4と5の内容があまりにも近すぎるので、これは同じことを言葉を換えて説明した解説だと捉えた方がいいと指摘している。つまり4と5は「=」の関係にあるのであって、論理的な帰結の関係(「→」の関係)ではないということだ。これは、論理の初学者にとってはなかなか難しいところではないかと思われる。論理的な帰結なのか、単なる言い換えなのかというのは、それが表現している内容を深く捉えて初めて判断できることになるからだ。 僕が、この問題を考える過程で使った「つまり」は、4で語られている主張が3で語られている「おかしい」という主張と重なるという点を見て、それが「重なる」ということが関連性があるという判断をもたらしたと意識している。だから「つまり」が論理的な帰結として使われているのだと自分で意識している。この論理的帰結としての意識が、あそこの文章を読む人にも伝わるなら、僕の「つまり」の使い方は適切であり、この「つまり」は論理的帰結を表す「つまり」だと言っていいだろうと思う。 また、僕が使った「つまり」でつながれている主張は、意味的に全く同じだとは言い難い。「つまり」の前では、3と4の主張が「おかしい」という内容で「重なる」といっている。そして「つまり」のあとでは、そのことから3と4は「論理的なつながりがある」と主張している。「重なる」という言い方と、「論理的なつながりがある」という言い方は、同じ意味だが言葉を言い換えたと判断するには、やや違いが大きすぎるのではないだろうか。「重なる」言葉に、いつでも「論理的なつながりがある」とは限らないからだ。だじゃれなどは、重なる言葉に論理的なつながりがないことの意外性におもしろさがあったりするのだから。 それに対して問題文の「つまり」は、前後の表現からどのように意味が読み取れるだろうか。この表現をした者がどういう意識でこれを書いたかということは、どこかに明示されていない限り知ることはできない。だから、意識ではなく、あくまでも書かれた文章という表現からどう読めるかということを考えなければならない。 そうすると、4では「独身」という語が、ある文脈を前提として使われないと「意味をなさない」という主張だということが読み取れる。5では、「独身」という語が、それが使われる文脈を知らなければ「使えない」のだということが主張されている。これは、意味的に同じことを説明しているのか、それとも意味が食い違うときもあるのを、ある条件の下で同じになるという論理的な判断を語っていることになるのか、どちらだろうか。 「意味をなさない」から「使えない」というふうにつながるのか、「意味をなさない」と「使えない」は同じことを語っていると判断できるのか、どちらだろうか。「重なる」言葉には、「論理的なつながり」がないときもあると考えられて、それ故これは言葉の言い換えではないというふうに判断した。「意味をなさない」と「使えない」という二つの表現に関しては、「意味をなさない」けれども「使える」という反対の場合が果たしてあるだろうか。 「意味をなさなくても」滑稽さを表現するために「使える」ということがあるかもしれないが、それは言葉として「使える」といってもいいことになるだろうか。それは伝達の手段としての言葉としては「使っていない」のではないだろうか。言葉が「使える」ということの内容には、それが伝達手段として「意味をなす」ということが必ず含まれているのではないだろうか。「意味をなさない」言葉は、言葉としては「使えない」、逆に「使えない」言葉は「意味をなさない」のだと常に必然的に言えるのではないだろうか。そうであれば、この両者の表現は、どちらか一方が他方の論理的帰結だというよりは、言葉を言い換えることでちょっとした視点の違いを表現はしているものの、意味的には同じだと言えるのではないだろうか。 4と5の内容は、その表現だけから考えると、論理的帰結ではなく、野矢さんが言うように5が別の言い方で4の内容を解説する「=」の関係になっていると考えられる。そうすると、この文章全体の論理構造は、接続の構造から考えて次のようになると思われる。 1 たとえば (2 しかし (3 ← (4=5))) 同じ括弧内の論理的なつながりが、括弧の外の関係よりも優先するという記号の使い方になっている。 もし最後の4と5の関係が論理的な帰結の関係になっていれば、その帰結は4だけから導かれるのか、4を含んだ他の主張とのまとまったつながりから導かれるのかという構造がまた問題になったりするだろう。だから、4と5の接続の構造が、論理的な帰結なのか解説なのかという判断は、全体の論理構造を判断するのに大きな影響があるだろうと思う。 インターネットの世界では、かつては、ある特定の言葉のみに反応して、表現全体の文脈を少しも読まないで反論するという、「脊髄反射」と呼ばれるような現象が多く見られた。二つの主張のつながりでさえもない、単なる一単語への反応は、論理というものを全く無視した読み取りになっていると思う。このような反応で、論理的な帰結が語られるとはとうてい思えない。建設的な対話からは、このような「脊髄反射」的な主張は排除されるべきだろう。 かつて「差別糾弾主義」が横行したときも、表現の中の一つの単語が「差別語」だとして糾弾されることが多かった。これは全く非論理的で感情的な反応だったが、かつての日本社会では、そこに論理的な考察が及ばなかった。今「差別糾弾主義」的なニュースを聞かないのは、日本社会がそれなりに論理的になってきたことの表れであるならいいのだが、つまらない現象を取り上げてバッシングをするということが繰り返されているのを見ると、まだまだ論理よりも感情が先行する社会なのかなというため息が出てくるような感じがある。論理トレーニングの初歩的段階だけでも教育の中に取り入れられないかと強く思う。
by ksyuumei
| 2008-02-14 10:14
| 論理
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