さて、解答のない課題問題を引き続き考えてみよう。まずは次の問題だ。
問4-3 「日本でも、玄関の戸は現在では引き戸ではなく、ほとんどがドアになった。 <しかも/しかし>、 欧米と同じようなドアでありながら、欧米と異なっているのは、外開きであることだ。ドアを内開きにすると、玄関で脱いだ靴がドアに引っかかってしまうからである。」 この問題を解くポイントは、接続詞の前後の論理の流れがどうつながっているかを正しく読むところにある。その主張が、同じ方向を向いていて、それを強化する働きを続く主張がしているのなら「しかも」を選ぶ。前半の主張は、玄関の戸がドアになったことを主張している。これに「しかも」と続けるなら、ドアだけではなく他のところも日本古来の引き戸のようなものがなくなってしまったとか、同じ論理の流れの方向での主張が続かなければならない。 だが、続く文章を読んでみると、そこには内開きか外開きかという点について、日本のドアは欧米と「違う」ということが主張されている。前半では、日本古来のものが失われて欧米と「同じ」になったと主張されているのに、それに続く後半は、「同じ」を否定する「違う」という指摘になっている。この論理の流れには、「しかし」という接続詞の方がふさわしい。論理を転換する流れとなっているからだ。 次の問題は以下のようになっている。 問5 「モグラのように穴に潜ることを決心すれば、地中の環境は安定しているので、寒冷地や風の吹き通しの草原などではまことに快適かつ有利である。 <しかし/ただし> 困るのは夏の暑さである。小型動物であるモグラは代謝速度が高く、体表からの熱の放出が難しい。しかも、身体から逃げた熱の行き場所がないから、地温の高い熱帯では大げさに言えば焼け死んでしまう。それで、熱帯の食虫類はもっぱら地上性で、モグラ類は分布しにくい。 <しかし/ただし>、 同じく地中生活性のキンモグラ類は、熱帯地を含むアフリカ大陸の南部に住んでいる。これはなぜかというと、この類は代謝速度が変動性を持つなど、外部環境に対する特殊な適応を持っているためである。」 この問題では「しかし」と「ただし」の論理の流れの違いに注目して、どちらがふさわしいかを決定する。しかしでは、その前の主張に反対の方向に流れる論理になる。単純に否定されると考えられる。「ただし」では、前の主張を認めつつも例外的な事柄を述べる。前の主張の一部を否定するものの、その否定は本質ではなく、本質は肯定しながらも例外的に否定するという論理の流れになる。 最初の接続詞の前後を見ると、前の主張は寒冷地での快適さや有利さを主張している。そして接続詞のあとの主張では、熱帯地での困難が指摘されて、そこでは分布しにくいことが主張されている。これは、最初の主張を肯定していて、その範囲の中で例外的なことを語っているのではない。寒冷地では有利な特徴を持つが、それとは別に熱帯地では不利な特徴が表れるということを主張している。両者は別のことで、しかも反対の側面の否定的な事柄を主張している。だからここは「しかし」がふさわしい。 あとの接続詞では、その前で熱帯地での分布しにくさを主張しているが、その中で例外的にキンモグラは熱帯地に住んでいることを指摘している。キンモグラの存在は、分布しにくさを否定するものではなく、分布しにくいのは前提としてあるのだが、例外的に分布しているものもあるということを示している。ここは「ただし」がふさわしいだろう。 接続詞に関する最後の問題として次の問6が提出されている。 問6 「木の葉が落下する様子を注意深く観察してみると、おもしろいことが分かる。木の葉は、ただ単に落下しているのではないのだ。葉っぱの種類や、風向き、落とす高さなどによっても変わるが、木の葉はまず、そのまま真下か、少し斜め方向に、直線的に落ち始める。 <そして/しかも>、 だんだんスピードが上がるとくるくると回転しながら落下する。このような変化は、重力による加速に伴うエネルギーの流入を、いかに効率的に逃がしていくか、というバランスの下で生じている運動パターンなどのである。」 「そして」は、単純な付加を示すもので、どのような論理の追加に対しても使うことができる便利な接続詞である。それに対して「しかも」の場合は同じような論理の流れに対して、それを補強するような意味で付け加える。「なおその上に」というようなニュアンスが加わる。 この問題の前半の主張は、木の葉の落下が「単純な落下ではない」ということだ。その現象には様々な意味が読み取れる。葉っぱの種類、風向き、落とす高さなどの影響も読み取れる。そして、接続詞の直前で主張されるのは、その最初の落ち方についてだ。まずは「真下か、少し斜め方向に、直線的に落ち始める」という。 この論理の流れは後半ではどのようにつながっているだろうか。そこには内容的なつながりがある。最初落ち始めた木の葉が、その次にどのような動きをするかということが語られているからだ。単純に違う事柄をつなぎ合わせているのではない。直線的に落ちていったものが、やがて回転し始めるということが語られ、その理由が最後に語られている。ここには、木の葉が落ちるという運動が、単に直線的に落ち始めるだけでなく、その上途中で回転を始めるのは、「いかに効率的に(エネルギーを)逃がしていくか」ということと結びついているのだという主張がある。そしてそれは、最初の主張の「単純に落下しているのではないのだ」と結びつく。これは「しかも」のニュアンスがふさわしいだろう。 野矢さんはこの問題で一章を終わらせている。二章では接続詞ではなく、それぞれの命題の接続関係の「構造」に注目している。接続詞は、どちらかというとその主張の部分に注目して、部分を正しく読み解くために分析する技術として提出されているように感じる。この部分の読み取りが正しくできたら、次は、その全体のつながりを問題にするのは自然ではないかと思う。 また、この論理構造のそれぞれのつながりというのは、接続詞がつながりを作っている部分が反映したものとなっている。接続詞によるつながりは、その前後の命題間のつながりであり、それは、接続詞の意味を理解することによって正しく読み取られる。だが、それがいくつもつながって一つのまとまりのある文章になると、その文章全体が、いったい何を言いたいのかということはとたんに難しくなる。それを理解するには、どうしても論理の流れというのをつかまなければならない。 この流れが正しくつかめないと、部分では全体の主張と反対のことを敢えて言っているという、反語的な表現に気づかないで読み進んでしまうことがある。かつて宮台氏が語っていたことだったが、日本がアメリカから自立して、自前で安全保障を考える道を踏み出すかどうかが議論されていたとき、「もしそうであるなら」という仮定の下に、そのときは軍事力の拡張や、場合によっては徴兵制にも言及しなければならないだろうというような論理を展開していた。 宮台氏は、「徴兵制をするべき」という主張を基本に持っているわけではなかった。しかし、日本が独自に安全保障を行うのであれば、その仮定の下では徴兵制もやむなしという論理も展開できる。この仮定を抜いてしまって、その結論だけを見ると、宮台氏は「徴兵制に賛成している」というふうに見えてしまう。部分を正しく解釈しても、この部分は全体の主張とどういう関係にあるかということを見誤れば、その人の主張の論理の流れを間違って受け取ることになる。 論理を正しく理解するというのは、部分である接続詞を正しく解釈することも大事だが、それと同じくらい、全体の流れを正しく理解し、部分の主張を全体の中でどう位置づけるかということが大事になってくる。このトレーニングが終わって、ある程度の長文による主張を読めば、おそらくその主張の本質をつかむという点においてトレーニング後はもっとうまくなっているのではないかと思う。 内田樹さんを批判した斉藤環さんの『バックラッシュ』(双風社)における論文は、今何度か読み返しているのだが、論理の流れをつかむことが非常に難しい。部分を見ている限りではそれほど論理的な狂いがあるようには思われないので、あとは論理を展開する前提となる事実認識において、斉藤さんと僕とではそれが違うのだろうという印象が残る。 論理の流れがつかめれば、論理的に違和感を感じるようなところが見つかるかもしれないという感じはしている。論理トレーニングで全体の構造の分析を訓練したあとで、それを応用して齋藤さんの論文をまた読んでみようかと思う。 僕が斉藤さんの文章に違和感を感じるのは、内田さんを批判しているということがきっかけではあるけれども、もう一つ気になっているのは、斉藤さんの文章が非常にわかりにくいという点だ。そこに書かれているものが専門用語ばかりというわけでもないし、僕が知らない事実を元に論理が展開されているからという感じでもない。そのわかりにくさには、どうも論理の飛躍があるように感じるのだ。主張がうまくつながって、「そうなのか」という納得するような感じが生まれてこない。 これも、僕がそう感じているだけなのか、それとも客観的に論理の飛躍があることが指摘できるものなのか。論理トレーニングの応用として、全体の論理構造がつかめたらその判断ができるだろうと思う。そして、論理トレーニングを進めるとともに、斉藤さんが指摘する内田さんの言説の部分も、それが内田さんの著書のどこにあり、全体としてどのような論理構造の下で語られていることなのかということを確かめたいと思う。そうして初めて、僕の違和感がどんなものだったのかということがよく分かるのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-02-10 17:48
| 論理
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