msk222さんのエントリーへの書き込みで、大岡信の「青空」という詩を思い出した。この詩は、詩という芸術の面白さに気がつき始めたころ、青春の輝きを感じさせてくれるような、思い出深い詩だった。ずいぶん前のことなのに、この詩は小さいノートに書き込んで取ってあった。今では、インターネットで検索してもヒットしないので、どこかで探そうとしてもなかなか見つからないだろうと思う。当時(1970年代半ば)の通信高校講座で取り上げられたものだった。
全文を載せてしまうと著作権のことが気になるので抜粋を紹介したいと思う。もし関心をもたれた方がいたら、プライベートなメールなどで紹介させてもらおうかなとも思っている。それなら、誰でも見られるところに公表しているのではないので、著作権を侵さずにすむのではないかと思う。さて、この詩の冒頭の部分をまずは引用しよう。 「 一 最初、わたしの青空の中に あなたは白く浮かび上がった塔だった。あなたは初夏の光の中で大きく笑った。わたしはその日、河原に降りて笹舟を流し、あふれる夢を絵の具のように水に溶いた。空の高みへ小鳥の群れはひっきりなしに突き抜けていた。空はいつでも青かった。わたしはわたしの夢の過剰で一杯だった。白い花は梢でゆさゆさ揺れていた。」 この冒頭の部分はすべて過去形で語られている。それがすでに終わってしまったことであることが示されている。「あなた」の存在が「わたし」にとっていかにすばらしいものであったかが、ここではこれ以上ないくらいの過剰な表現でなされている。青空の中の白く浮かび上がった塔は、それ以外の存在が目に入らない、「わたし」にとって存在するのは「あなた」だけだと言っているように感じた。 「わたし」の夢はそのままにしておけば、その夢で「わたし」自身が埋もれてしまいそうなくらいあふれているように感じる。絵の具のように水に溶いて流さなければ夢の過剰で「あなた」が見えなくなりそうだし、いくら水に溶いてもその夢は尽きることがないことを思わせる。 空の高みにある小鳥の群れも、白い花がゆれている姿も、すべて「わたし」の夢の過剰によるもののように思われる。そんなすばらしい時間を過ごしたあの時も、それはすでに過去のものになってしまったという喪失感がこの冒頭にはある。すばらしいときの存在とその喪失との大きな違いの対比が印象に残る一節だった。 自分の大切なものを失うということは、論理的に考えれば、その原因を探り・理由を納得することも出来るだろう。しかし、それをなくしたという喪失感は、その理由がいくら合理的に説明できようと埋めることが出来ない。その理由があったんじゃ仕方がないね、ということであきらめられるようなものだったら、それほど大きな喪失感は生まれないのだ。 青春の真っ只中にいたときにこの詩に出会ったというのは、真に幸せなことだったと思う。今の若者たちは、喪失感というものを、このように切なく、だけど美しく抱きしめる感情を感じることが出来ているだろうか。僕の子どもたちの生きている現代社会の状況を見ていると、すべてがすでに分かりきった裏のあるものとして見えてしまっているような感じがする。そこに純粋さを感じてものを見るのが難しそうな社会になってしまっているような気がする。そうであれば、切ないほどの喪失感を見ることが難しくなっているのではないかと思う。気の毒なことだと思う。 僕は、村上春樹が『ノルウェイの森』で描いた喪失感に深く反応することが出来たけれど、今の若者たちはどうだろうか。彼らも、そこに描かれた喪失感を感じることが出来るなら、この大岡信の「青空」の冒頭にも深く共感するのではないだろうかと思う。 この詩は、冒頭の部分に「一」という番号が振られている。そのすぐ後から「二」が始まっていて、この「二」では、現在の「わたし」の気持ちが表現されている。過去にあれほどの輝きとすばらしさを感じた至福の思いが失われた今は、輝きではなく「冬の風」のような冷たさが襲ってくるのを感じている。もう再び、あの幸せは自分にはこないという思いが強く浮かんでくる。 「はじめからわかってたんだ」という、負け惜しみのような言葉さえ浮かんでくる。「今はもう自負心だけがわたしを支え」という言葉が、その失ったものの大きさを物語る。そして、その後の二行の言葉が、僕にはまたとても印象に残った。次のような言葉だ。 「ひとは理解しあえるだろうか ひとは理解しあえぬだろう」 この思いは、当時の若かった僕にも、常に頭の中にあったものだったからだ。論理的に正しいことは理解できるはずなのに、それが「ひと」という存在になると、論理は理解できそうだけれど、「ひと」は理解出来そうもないという思いを抱いていた。「ひと」は論理によってだけ動いたり生きている存在ではないことを感じていたからだ。そして、自分と同じ思いを抱く人間はどこにもいないのではないかということを思っていた。原理的に「ひと」は理解しあうことが出来ないのではないかと感じていた。 大岡信は、「ひと」の理解に対しては上のように語っていたが、「許す」ということについては次のように語っていた。 「ひとはゆるしあえるだろうか ひとはゆるしあうだろう さりげない微笑のしたで」 これにも僕は深く共感したものだった。「ひと」は理解することは出来なくても、「ゆるしあう」ことは出来るだろうと思った。彼の行動の理由を僕が理解できなくても、彼にはそうするだけの、彼だけが持っている理由があるのだ、ということは理解できる。それが理解出来れば、彼が何をしようとその結果を受け入れることが出来るだろう。それが「ゆるしあう」ということではないかと思った。 「ひと」はそれぞれの自分だけの世界を持っている。その世界の構成を他者が理解するのは不可能だ。その世界は、あまりにも個別的な要素に満ち溢れている。同じ人生をそのままなぞって生きることが出来ない限り、原理的には「ひと」は理解できない。しかし、自分が自分の人生の中で、その世界を構成するものたちのつながりの中でさまざまな思いを育ててきたように、他者の人生も同じようにいろいろなもののつながりの中でその思いが作られてきたのだということが理解できれば、彼の人生も自分の人生と同じだという共通点を理解できて、それが「ゆるしあう」ということの基本を作ってくれる。 大岡信の詩人の直感が捉えた世界を、僕はそのように読んだ。僕は、その後の人生の中で、自分には十分理解できない行動をする人に対して、その人と信頼関係の元にいられるかどうかをまず考えるようになった。そして信頼できる人間であれば、彼がそうするのであればそれなりの理由があるはずだから、自分にはまだ理解が不十分だけれど、まずは彼への信頼感からその行動を支持しようという判断をするようになった。 他者の理解と「ゆるしあい」に対してこの詩による経験がなければ、僕は理解不十分なことに対しては、まずは行動しないことを選んだろうと思う。理解するまで待ってから動き始めるというのが、論理的には正しいと思われるからだ。他者に対する信頼感を基礎にして行動すれば、間違えることもしばしばある。信頼しているからそれが正しいとは限らないからだ。 しかし、この間違いが実は貴重なものだということも分かった。人は間違えなければ、その事を本当に深くは理解できないからだと感じたからだ。信頼しているがゆえに間違えたときに、人は最も深く学ぶことが出来るように感じる。そして、その間違いを克服できたとき、実はその信頼を寄せている人間が、自分を指導する人間であった場合、その人から卒業するきっかけにもなる。自立への第一歩を踏み出すのも、その間違いがきっかけになる。 この詩の最後の部分はまたちょっと引用させてもらおう。次のように語られている。 「たえまなく風が寄せて 焼けた手紙と遠い笑いが運ばれてくる わたしの中でもう一度焦点が合う 記憶のレンズの…… 燃えるものはなにもない! 明日こそわたしは渡るだろう あの吊り橋 ひとりずつしか渡れないあの吊り橋を 思い出のしげみは 二月の雨にくれてやる」 この最後の部分では、過去にいかにすばらしい思い出があろうとも、それにとらわれずに、未来へ向けて一歩踏み出していく強さが感じられる。それは「ひとりずつしか渡れない」という表現にあるような「吊り橋」に象徴されている。人は、自分だけの世界しか持ち得ない。そこにいくには、「ひとりずつしか渡れない吊り橋」を渡るしかない。過去の思い出に縛られていれば、その「吊り橋」をわたることは出来ない。だから「思い出のしげみは 二月の雨にくれてやる」ということになるのではないかと思う。 青春の日のつらい思い出が、甘く切ない夢として語られていることにまず惹かれるこの詩が、最後は力強く未来へ向かって踏み出す応援歌のように聞こえることに僕は感動した。甘く切ないだけなら、単なる自己満足に終わってしまいそうだが、最後の部分には、負け惜しみではない強い決意が語られるように感じられたところが、この詩が最も気に入ったものであるということの理由だった。
by ksyuumei
| 2008-02-10 10:44
| 雑文
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