論理トレーニング 2 (接続詞の選択)

今までは、野矢茂樹さんの提出する例題を考えてきたが、今度は本格的な練習問題を考えてみよう。例題では、野矢さんの解説にほぼ同意できたのだが、練習問題では気分的に違う答えを選びたくなる感じが沸いてくる。それだけ練習問題のほうが難しいということだろうと思うが、その気分の源泉がどこにあるかを考えてみたいと思う。

いずれも接続詞を選ぶ問題なのだが、まずは次の問題を考えてみたい。


問1-1
「争いごとの解決には「人による解決」と呼ばれるものがある。
    <すなわち/しかも>
それは、当事者の直接の対決を避け、当事者がともにその権威を認める第三者に解決を委ねる方法である。」


この問題の解答は、野矢さんによれば「すなわち」のほうになっている。しかし上の文章において「しかも」を入れたくなるような気分を感じる。これはどうしてだろうか。



「すなわち」は意味的な言い換えをする接続詞である。上の主張では、「人による解決」という言葉を、より詳しく具体的に意味を展開しているものと考えられる。これが具体例を伴うような説明になっていれば「たとえば」を使うことになるだろう。内容が抽象的でありながらより具体的になっているという、解像度の上がった言い方になっているので、「たとえば」と比べれば「すなわち」がふさわしいということはすぐ分かる。

しかし、「しかも」というのは抽象度という点では「すなわち」と同じように働く。「しかも」と「すなわち」の違いは、「しかも」が内容の追加をして、主張を強めるという働きをしているところだ。「すなわち」は別の角度からもう一度同じ事を説明するのだが、「しかも」は前の説明を前提として、さらにその上で付け加えることがあるという主張になる。

問1-1で「しかも」を入れたくなる気分というのは、この会話が行われるであろう場面を想像して、最初の言明をある前提として受け取るような気分が生じてくるからではないかと感じる。争いごとの解決に対して、単に「人による解決」について説明しているだけではなく、解決方法がたくさんある中での一つとして「人による解決」があるのだと語っているような場面を想像してしまう。

だから、他の方法と違ってこの「人による解決」に特徴的なことが実はあるのだ、と会話が続くなら「しかも」と言いたくなってしまう。この気分を野矢さんは、争いごとの解決法として何かうまい方法がないかという問に答えて、問題の会話が続くという場面を想像して、そのような場合は「しかも」と続くこともありうると解説している。つまり、最初の言明が、単に存在を主張しているだけでなく、その方法がよりベターな方法なんだという主張が含まれていると考えるわけだ。

このような場面設定を前提として考えると、それがよりベターだという主張を補強する意味で「しかも」を使う論理的な正当性が生まれる。だが、この問題では問題文だけを見る限りでは、そのような場面設定は想像は出来るが確定するものではない。したがって、この問題文だけの考察では、「すなわち」のほうがふさわしいという解答になる。

この問題は、「しかも」を入れたくなる気分が生じてくるというのは、たとえ文章には書かれていなくても、そのような文脈が存在することが、この種の会話では圧倒的に多いという経験を我々がしているからかもしれない。直接表現されていない文脈が存在するというのが、文章がなくても必然性を持っているかどうかで論理の流れが違ってくるだろう。逆に言えば、誰もがそう思いそうな文脈を利用すれば、表現しなくてもそう思わせるという錯覚をさせることも可能になるだろう。詐欺師の手口などは、そのような暗黙の前提としての文脈を利用するものになっているようにも感じる。面白い対象として考察できるのではないかと思う。

さて次の問題を見てみよう。


問1-2
「庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少なからぬ影響を与える住まいの装置である。
    <それゆえ/たとえば>
居間などに座って何気なく外に視線を投げるとき、そこにあるのが明るい芝生の広がりであるか、こんもりした松の茂みであるかによって住まいの気分はかなり異なるだろう。」


これは野矢さんの解答によれば「たとえば」がふさわしいとなっている。確かに、前半の抽象的な言い方に対して、後半は具体的なイメージを描けるような言い方になっていて、それは具体例を提出する「たとえば」にふさわしい印象を与える。しかし、この問題でも、気分的には「それゆえ」が入ってもいいんじゃないかというものを感じる。

例題に比べて練習問題は、そのように迷わせる要素をもっているだけレベルが高くなっているのではないかと思うのだが、この迷う気分はどこから生じてくるのだろうか。「それゆえ」という接続詞は、その前の主張を前提として、論理的な帰結として次の言明が引き出されるという関係にあるときに使われる。

問1-2では、前半部分で外部である庭が内部の室内の雰囲気に「影響を与える」という主張がなされている。影響を与えるのだから、そこから外の庭の様子によって「気分が異なる」という主張が導かれてもいいような感じがしてくるのだが、これはどうして論理的にはふさわしくないのだろうか。

野矢さんによれば、「それゆえ」を使う時は、そこで主張されている主題が、その主張で積極的に言いたいことであるという前提が入ってくるという。つまり文脈からそのように受け取れるような主張なら「それゆえ」も入る可能性があるということだ。これも、表現されていない文脈を、無意識のうちに暗黙に認めていると「それゆえ」を入れたくなるような気分が湧いてくるのではないだろうか。

だが、論理としてはあくまでも書かれた文章のみから判断しなければならないとすると、問1-2にふさわしい接続詞は「たとえば」ということになるのではないかと思う。この気分という問題は、人間がある種の解釈や判断をするときに、どうしても文脈を考慮しながら判断するという習性を持っているのではないかということをうかがわせる。

その言葉だけから論理を考えれば、論理的にはまったくつながらないような主張をしているのに、案外と多くの人は説得されてしまうという現象がよくある。そのような現象の背後にあるのは、暗黙の前提としての文脈の存在があるのではないかと思われる。

小泉さんの時代には、小泉さんの基本的な政策であるネオリベ的な優勝劣敗主義という前提からは、弱者救済という政策は論理的に引き出せないはずであるのに、当の弱者だと思われる人々が熱狂的に小泉さんを支持したという現象があった。これは、小泉さんの改革者であるというイメージが暗黙の前提の文脈を作っていたようだ。

小泉さんは、それまで利権をむさぼっていた層を攻撃して、その利権を引き剥がすことで改革者のイメージを作ってきた。それまでの利権を持っていたということでは、その一面ではそれらの人々は「強者」であったはずだ。その強者を引き摺り下ろして利権を奪うことの中に、人々は正しい改革者としてのイメージを小泉さんの中に見たのだろう。小泉さんは、今までの不正を正して、強者のおごりをたたくのだという文脈が出来上がったように思う。

だが、実際に小泉さんが叩いたのは、地方へのばら撒きを利権としていた人々で、この種の人々は実際には「弱者利権」というものを持っていた人々だった。弱者であることが利権になるという奇妙な弁証法的な文脈がそこにはあった。より弱者であることが証明されると、その弱者であることに補償が生まれ利権となる。

弱者利権を叩くことは、小泉さんのネオリベ路線と矛盾しないどころか、むしろ高い整合性を持ったものになる。それは改革には違いないが、それが行き過ぎれば弱者は、本当は救済が必要だと思われる真の弱者も十把一からげに棄てられる恐れが出てくる。文脈としてはこちらのほうが正しかったのだが、改革者のイメージが違う文脈を生じさせ、棄てられる弱者からも改革者として拍手喝采を浴びたのが小泉さんだったように僕は感じる。

論理において文脈を正しく読むことは大切なことだが、書かれていない文脈を読みすぎて勘違いする恐れがあることも自覚しておかなければならない。インターネット上の対話でも、「脊髄反射」と呼ばれるような、ある種の言葉に対する過剰反応は、その言葉が表現している一般的な意味以上の文脈を、その言葉自体に結び付けて文脈を深読みしすぎて勘違いするのではないかと感じる。

日本においてそのような論理の勘違いが多く見られるのは、文章の解釈が文学的なものに偏りすぎていることに一つの原因があるのではないだろうか。文学的な鑑賞という面で文章を解釈する場合は、そこにかかれていないことまでも想像力を働かせて「行間」を読むというような表現で言われるような読み方をすることが多いのではないだろうか。

文学として意識して読む時は、そのような読み方がふさわしいだろう。直接表現するのは文学的には野暮ったいことになるだろう。最も洗練された文学は俳句のように、数少ない言葉が選び抜かれてそこに深い気持ちが込められるようなものではないかと思う。その深い気持ちは、それが作られた背景や場面なども文脈の中に入れられて鑑賞される。

文学ではこのような読み方がふさわしい。そこで主題となっているのは、あくまでもどう感じるかという気分だからだ。語られていることが正しいか間違っているかではなく、その表現がどのように味わえるかということが芸術作品としての文学の命になる。不快や不安でさえも、その味わいが深いものであれば文学作品として優れたものになりうる。

それに対して論理が問題にするのはあくまでもそこで主張されていることの真偽のほうだ。書かれていないことまで考慮して考察すれば、正しいという主張は出来なくなる。どんな言明でも、解釈の仕様によってどうにでも取れるということになってしまう。論理にとって重要なのは、書かれていることのみから文脈も解釈するということになるだろう。これを忘れないようにしなければならない。
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by ksyuumei | 2008-02-05 09:43 | 論理


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