「ノーミソの目」で見る

「ノーミソの目」という言葉は、仮説実験授業研究会でユニークな発表をしていた徳島の新居信正さんがよく使っていた言葉だ。僕は、新居さんが語っていた「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉が、自分の体験ともぴったり合ったこともあって、この言葉が特に印象に残っていた。

僕は数学の試験問題を解くときに、答案用紙が真っ黒になるくらいに書き込みをしていた。これは、自分が頭の中で考えたことをほとんどすべて書き込むようにすると、考えたことを客観的に眺めることが出来るような感じがして、書かないで頭の中の思考をめぐらせるだけにしたときよりも多くのことが発見できるような気がしたからだ。その体験を、「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉は、まさに適切に言い表していると思った。

また、計算をしているときも、計算の過程をすべて書き込むようにしていた。しかも、どの数式がどのように変換されたかがすぐに分かるように、計算した数式のすぐ下に変換された結果の式を書き込むようにしていた。このようにすると、うっかり計算を間違えたときもその事にすぐ気が付くようになる。今から振り返ると、誤謬論としても合理的だったように思う。間違いをすべて避けるということは出来ないのだから、間違えたときに、その間違いを容易に発見できて、間違いを避ける手立てを持つということが誤謬論においては重要だろうと思う。



さて、「ノーミソの目で見る」というのは、光学的な光の反射像が網膜に映る像のレベルの話ではなく、その像が何であるかという「意味」の判断のレベルでの話をすることになる。だからこそ、映像としては同じものでありながら「見ているものが違う」ということも起きてくる。新居さんは、教育というものは、この「ノーミソの目」を鍛えて、それでいかに物事を深く広く見られるようにするかということだと語っていたように記憶している。

「ノーミソの目」で見たものは、その意味の受け取り方が違ってくる。だから、これは「見る」ではなく、「解釈する」あるいは「判断する」ではないかという見解もあるだろう。しかし、「ノーミソの目」で見た結果頭に浮かんでくるものは、ほとんど瞬時にそう感じるもので、ある思考の過程を経て「解釈」しているとか、「判断」していると呼ぶにはあまりにも瞬間的なものに映る。まさに「見る」という表現のほうがふさわしいような気がする。

宮台真司氏は、意味というものを説明するのに、野球というスポーツを観察する宇宙人の例をあげていた。宇宙人にとっては野球のルールは未知のものなので、バッターがボールを打った後の行動はその意味が分からない。ある時は1塁のほうへ向かって走り出すが、ある時は走ることをしない。これは、「打つ」という行為の意味が違うので後の行動に違いが出てくるわけだ。

ルールを知っている人間なら、1塁と3塁のラインが延びた方向の内部に入った打球は、フェアの範囲だということで1塁へ向かって走ることを理解する。しかし、その外部に出た打球はファウルになるので1塁へは走らない。これは、ルールから得られる判断なのだが、いちいちその事を考えながらプレーしていたらその打者は必ずアウトになるだろう。打者は、ほとんど打った瞬間にそのようなことを判断して1塁に駆け出すかどうかを決める。

このルールを知らない宇宙人は、どうして走るのか、どうして走らないのか分からずに、ただその都度「走る」「走らない」という現象を観察するだけになる。そのうちルールを了解するようになると、選手の判断と同じものが頭に浮かぶようになり、ただ現象を観察するのではなく、フェアだから走ったとか、ファウルだから走らないというような見方が出来るようになる。こうなると「ノーミソの目」で見ているといえるのではないかと思う。

我々は、目の構造に異常がなければ、光学的な映像のレベルでは「同じものを見る」事が可能ではないかと思う。しかし、「ノーミソの目」で見るレベルを考えると、教育・学習・訓練の違いによって、そこでは「同じものを見ていない」ということになるのではないかと思う。

福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)という本には、DNAのらせん構造の発見において、決定的な証拠とも言える写真を残したロザリンド・フランクリンという女性のことが紹介されている。フランクリンはX線解析を専門にしていた人で、福岡さんは次のように書いている。


「彼女の専門分野はX線結晶学だった。未知物質の結晶にX線を照射する。すると波長の短いX線は物質の分子構造に応じて散乱する。その散乱パターンを感光紙に記録する。一見するとプラネタリウムの天井に星がばら撒かれたような映像となる。これを特別な数学によって解析すると、散乱を引き起こした物質の分子構造についての手がかりを得ることが可能となる。フランクリンがケンブリッジで過ごした20世紀前半は、X線結晶学が立ち上がってくるまさにその黎明期であった。」


X線結晶学の専門知識を持たない人間には、感光紙に記録された映像は「プラネタリウムの天井に星がばら撒かれた」ようなものに見えるだろう。光学的には、誰が見てもそのようなものには見える。しかし、フランクリンのような専門家には、それが「物質の分子構造についての手がかり」に見える。このとき、専門家とそうでない人間とでは、同じものを見ていながら違うものを見ていると言わざるを得ないのではないかと思う。弁証法的な矛盾がそこには見られるのではないか。

人間は意味というものを通じて「見る」ので、個性の違いによって違うものを見てしまう。それでは、どちらの見方が「正しい」というような判断は出来るだろうか。真理性の判断というものが、「見る」ということに関してどのように考えられるだろうか。一つの見解は、どちらの「見る」も正しいと受け取る解釈だ。それは、「見る」事の前提が違うのであるから、仮言命題の前件が違う命題だと解釈することが出来る。そうであれば、ある前提のもとに「見ている」ものであれば、その前提ではそのように見えることが正しいという判断が成立するのではないかと思われる。

素人の立場で見れば、物事を表面的に、光学的な反射の範囲でしか見られなくても、それはそれとして「正しい」と認めるという解釈が一つ成り立つ。しかし、物事をもっと多様な側面から深く見ることが出来る専門家は、光学的な反射以上の意味をそこから読み取る。三浦つとむさんの表現では、「鏡としての物質的存在」から、鏡が表現する意味を読み取るということになるだろうか。

三浦さんは、すべての計器を鏡として受け取っていた。それは、光学的には針が指し示す目盛りが見えているだけだが、その目盛りの意味を知っている人間には、何らかの異常を示す信号として見えたり、そのときの状態を見ているようなものになる。人間という鏡について語った部分では、光学的な映像として映った子どもの姿に、自分の子ども時代を重ねて、記憶にはない自分の幼いころをそこに見るという「ノーミソの目」の働きが語られていた。

見えるものが違うという場合、その見えたものに関する真理性においては、真であるかないかという二者択一においては、見方が深くても浅くても違いはないように感じる。だが、見えるものの広さという点では、より多くの知識と技能を持っているほうが、当然見えるものが多くなるだろう。このことはどのようなものに通じてくるか。

それは、事実として与えられる事柄の多さというものにつながってくるだろう。ウィトゲンシュタイン的な世界の問題でいえば、専門家の世界のほうがはるかに多くの事実を含んでいるといえる。より大きな論理空間を構成することが出来る。素人の世界の真理が、専門家の世界では否定されるということではないが、それが表層的な真理であることが暴露されることはあるだろう。そこにはもっと深い意味があるということになるかもしれない。

今日のニュースでは、佐世保のスポーツセンターでの銃の乱射が報道されていた。多くの人はそれを見て、なんとひどい事件だと思うことだろう。だが、この事件に日本社会の病巣を見る人もいるかもしれない。同じものを見ていても、そこから受け取る意味が違ってくる。

また、テロ特措法の新法に関して、政府与党はこれをなんとしてでも通したいと思っているようだ。参議院の国会会期を延長して、何とか衆議院で再議決にまで持っていき、これを可決しようとしている。僕は、この姿を見て、政府与党はなんとしてでもインド洋での給油活動の継続というものを実現することが至上命題になっているのだなというふうに「見る」。なぜこのことがそれほど大事なのかということはよく分からないが、これほどの無理をしてでも通したいという意志は「見える」。

それが政治的に見て正しい判断なのかどうか、誰かの利害が絡んでいるだけなのかというのは判断が難しいが、単に現象としてそのようなものを受動的に受け取っていたのでは、そこに隠されている「意味」を読み取ろうとするような「ノーミソの目」の働きは出てこないのではないかと思う。

誰でもが見ることが出来る分かりやすいものばかりではなく、直接は現れていないけれど、「ノーミソの目」で見れば何とか見えてくるという見方を示してくれる人が本当の専門家であるように思う。神保哲生・宮台真司の両氏が語るマル激トークオンデマンドというインターネット放送では、このような「目から鱗が落ちる」とでも言える新鮮な見方がいつも提出される。この両者は本物の専門家であるという信頼が出来る。このような本物の専門家を見分ける能力というのは非常に重要なものだと思われる。

板倉聖宣さんは、仮説実験授業の成果の中に、自らが科学上の新発見が出来なくても、誰かが重要な新発見をしたときに、それを正しく評価できる大衆を育てることというのを語っていたことがあった。大衆が、正しく本物の専門家を見分けることが出来るなら、その社会はマスコミの宣伝に踊らされることもなくなるだろう。その意味で、「ノーミソの目」を鍛えるという教育は非常に大切なものになるだろう。見えないものを見るためには、どのような道具が役に立つだろうか。論理という道具はその一つではないかと思う。論理の教育の重要性を考えたいと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-12-15 11:02 | 雑文


<< 因果関係は見えるか? 我々は同じものを見ているのか? >>