我々は同じものを見ているのか?

『科学理論はいかにして生まれるか』(N.R.ハンソン・著、講談社)という本の冒頭に、二人の観察者が同一の対象を見ているのかどうかという議論が語られている。細胞を観察する微生物学者の例はちょっと難しい。それは「細胞」というものの厳密な定義を僕がよく知らないからだ。だから、二人の生物学者が、一方は観察した対象を「細胞である」と判断し、もう一方が「細胞でない」と判断した場合、自分はどちらに見えるかということを判断することが難しい。この場合は、定義の曖昧さから、二人の見たものが同じであるかどうかという判断も曖昧になる。

もう一つの例の、ケプラーとティコ・ブラーエの例はもう少し考えやすいだろう。この二人が「明けゆく東の空に同一のものを見ているだろうか」という問いを著者は提出している。これは、細胞の場合と違い、天体という対象は、目に見える実体を「個体」(他のものと区別できる存在)として指し示すことが出来るので、細胞よりも単純な対象として捉えることが出来る。だから、同じであるか違うものであるかを考えやすいだろうと思う。

ケプラーとティコの場合は、視点を違えると「同じである」とも「同じでない」とも、両方とも主張できてしまう。つまり弁証法的な矛盾が生じる。それを写真的な映像という視点で眺めてみれば、二人の目が捉えた映像を比べてみれば「同じである」と結論できるだろう。視覚に異常がなければ、二人の見たものの映像はぴったり重なると考えられる。だからこの二つは「同じもの」だという判断が生まれる。




しかし、人間はカメラという機械と同じではない。ただ外界を受動的に反映するだけの存在ではない。人間が何かを見たとき、その見るという行為そのものにも何らかの思考の過程が存在する。この思考の過程は、その人間がどのような基礎を持って対象を見ているかで違ってくる。

ケプラーは地動説を基礎にして天体を眺め、ティコは天動説を基礎にして天体を眺めているという。この両者は、映像としては同じものを眺めているにもかかわらず、そこから得られる「意味」が全く違うものとして認識される。この意味が違う「事実」は、「事実」として違うものだと考えるのがウィトゲンシュタイン的な哲学的考察ではないかと思われる。

我々は他者とまったく同じ存在にはなれない。物理的な位置が重なるということはあり得ない。また、生まれや育ちもまったく同じというわけにはいかない。だから、厳密に考えれば(哲学的に考察すれば)、二人の違う人間が同じものを見るということはあり得ないことになるだろう。すべての人間は違うものを見ると結論せざるを得ない。すべての事実は「主観的」なものになる。「客観的」なものは成立しなくなる。

だが、社会の中では多くの人が合意する共通の知識というものがある。それがあるからこそ人間は社会を構成し、他者と意志を交換し合うことが出来る。だが、厳密に考えればそれはあり得ないのだから、この意思の流通は錯覚だということになるのだろうか。僕は、そう言い切ってしまうことにためらいを感じる。

人間は、厳密に考えれば他者と同じものを見ることが出来ない。つまり本質的には「同じ」という概念は徹底させることが出来ないわけだ。だが、それを徹底させなくとも、ある程度のところで共通理解さえ出来れば実践的には問題がないというレベルが存在しているのではないかと思う。その合意できる範囲を我々は「客観的」であると捉え、二人の人間が同じものを見ていると判断しているのではないだろうか。

二人の人間が違うものを見ているということは、その二人の持つ基礎知識に大きな違いがあるときにそのように感じることがある。野球で盗塁という技術があるが、これは足が速ければ必ず成功するというものでもない。最も重要なものは、投手が本塁へ投げようとするときに、いかに早いスタートが切れるかということである。このスタートが遅ければ、いかに足が速くとも盗塁は失敗する。

投手の手からボールが離れて本塁へ向かっているのを見れば、誰でもそれが牽制球ではないことが分かる。しかし、ボールが投手の手を離れる前に、それが本塁へ向けて投げられているのか、1塁へ向けて投げられるのかを判断するのは、投手の同じ投球モーションを見ていても、その意味が違ってくる。投手の癖をよく知っている走者は、それを知らない者よりも、目にしているものが違うのだといえる。

外国人に日本語を教えていると、意味の難しい日本語にぶつかって困ったという話をよく聞く。先日は「別に」という言葉の意味がわからないという質問を受けた。これは、仕事をしている同僚などが、何となく普段と違う様子をしているときがあり、「何かあったの?」というような質問をしたときに「別に」という答えが返ってくることがあるそうだ。

もし、何かあったのなら、その事を説明すればいいし、何もなかったのなら、「ない」と否定的に答えればいいのだが、そのどちらの答でもない「別に」という答えが、日本語を習い始めた人には特に難しいようだ。

例えばちょっと調子が悪かったときに風邪などを引いていれば、「今風邪気味なんだ」と言えばそれですむ。理由がはっきりしていて、しかもそれを言うことに何も問題がなければ、「別に」という言葉を発する必要はない。また、ちょっと調子悪いように見えたとしても、実際には何も問題がないことが明らかなら、「何も問題ない」と明確に答えればすむ。

しかし、本当は問題があるにもかかわらず、それをちょっと言いたくないとか、説明するのが難しいという時は、その事についてはもうあまり聞いてほしくないという気持ちが働く。そんなときに、もうそれ以上聞かないでくれとあからさまに言うのは、日本人的感覚から言い難いということがある。そのようなニュアンスで「別に」という言葉が使われるときがある。

だが、「別に」という言葉は、「別になんでもない」という軽い意味で使われるときもある。これは、そのときの状況でその意味を判断する必要があるだろう。日本人ならそのような場面に多く遭遇することで、そのような意味の読み取りがうまくなっていく。だが、日本語を習いたての外国人にとっては、日本語の教科書では「何かありましたか?」という質問には、「はい」か「いいえ」で答えることになっているので、「別に」という答えは予想外で難しいのだろうと思う。

「別に」という言葉に対する知識を持っている日本人なら、その言葉を聞いたときに、もうこれ以上聞いたらいけないとか、それは気にするほどのことではないとか判断できる。同じ音声を聞いているのに、意味の受け取りが違ってくる。これは、同じ映像を見ているのに、その意味が違うということに似ている。

以前に本多勝一さんが「客観的報道」ということを論じたときに、報道そのものがそもそも記者(報告者)の主観を通した報告しか出来ないということを主張していたのを記憶している。厳密に考えれば、「完全」な意味での「客観的報道」はあり得ない。しかし、だからといって、主観の赴くままに報告してもいいのだということにはならない。それではやはり多くの人の同意や共感が得られない。

事実の報道は、それをどの視点から見るかで主観の違いが出てきてしまうが、いったん視点を定めた後は、その視点からは誰もがそのように見えるという見方が出来る。もちろん、この「誰もが」というのは程度の問題で例外的にそう見ない人もいるだろうが、多くの人が同意・共感できる見方というものが見つかる。それが「客観的報道」というものではないかと思う。

二人の人間が同じものを見ているかという問題は、対象が単純で視点が一つに決まってくるようなものならば、同じものを見ているという合意を得ることが容易だろう。ウィトゲンシュタインが「対象」という概念を単純なものに限ったことの背景には、それを多くの人の合意を基礎にした客観的なものにしたいということがあったのではないかと思う。本質的・厳密には、対象の捉え方は個別的で同じものにはならないが、同じ思考の過程を経た人間は、ウィトゲンシュタインが語ることに同意できるということがあれば、それは客観的な哲学的真理として確定させることが出来るのではないかと思う。単なる思い込みではないということになるのではないだろうか。

しかし、複雑な対象に関しては、その視点はいくつも違うものが見つかるだろう。同じものを見ていても、その意味がいくつにも分かれてしまう。このような対象に関しては、何か客観的な事柄を語るということは注意して考えなければならない。多くの異論が存在して論争になっている事柄は、その二人が同じものを見ていないと受け取ったほうがいいのではないかと思う。同じものを見ていないのであるから、そこから得られる判断や結論が違うことがむしろ当然なのだろう。

このような対立する見方が、どちらの見方も、それぞれの視点に立てば正しいと判断できるとき、それでもなおどちらかが正しいのだという論理的な展開が出来るだろうか。その視点の元では正しくても、そもそもその視点に立つこと自体が間違っているというような判断が出来るだろうか。

いわゆる「南京大虐殺」の問題では、僕は、それが「虐殺」であるかどうかという判断をする視点に立つこと自体が間違っているのではないかと思っている。それは、「客観的」に判断できないと思っているのだ。「虐殺」という言葉の定義にはどうしても主観が入らざるを得ないと思っている。

同意してもらえる人たちに同意してもらえばいいのだということであれば、「南京大虐殺」を巡って反対者を論駁することに意味がなくなる。僕は、「虐殺」であるか否かを、論理的に判断し論駁することが出来ないと思っている。そのような視点に立つことは不毛な視点ではないかと思っている。語りえないことを語っているような感じだ。

「南京大虐殺」は「南京事件」として、客観的にいえることはどこまでのことなのか、という視点で捉えなおすことが必要なのではないかと思う。そうでなければ、肯定派・否定派のどちらも決して同じものを見ることが出来ないのではないかと思う。

哲学的な結論としては、二人の人間は決して同じ物を見ることが出来ないといえるだろうと思う。だから、見方が違うのは仕方がないとして、同意するもの・賛成するものの間だけでやっていけばいいのだと考えるか。それとも、あくまでも社会を構成する多くの人の同意を得て、妥協を重ねながら合意を形成する道を選ぶのか。僕は、合意形成のために、論理という道具が使えるのではないかと思っている。たとえ視点が違っても、その視点の違いを論理という道具を使えば理解可能なのではないかと思う。理解したからといってそれに同意できるかどうかは分からないが、少なくとも妥協の道は探れるのではないかと思う。社会を築いていくというのは、この妥協の道を正しく探ることなのではないかと今は感じている。
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by ksyuumei | 2007-12-11 10:12 | 哲学一般


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