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思考と言語の関係

ウィトゲンシュタインは、思考の限界を確定するために、言語の有意味性の限界を確定しようとした。言語表現において、それに有意味性を与えるという行為が、人間が思考をしているということを示していると捉えていたのではないかと思う。このあたりは、言語表現の基礎には人間の思考があり、ひいては認識がなければならないという三浦つとむさんの言語過程説にも近いものを感じる。

だが、ウィトゲンシュタインが語るのは、言語の基礎にある認識一般ではなく、あくまでも思考の展開と関係のある認識だけだ。現実化していない可能性を表現するという面における言語の機能を思考の展開と結び付けて、可能性を表現することこそが思考の現れであると考える。もし認識一般を取り上げるなら、可能性を扱う像の操作だけではなく、対象を受動的に反映するという像の性質についても言及しなければならないだろう。しかし、ウィトゲンシュタインには言語のその側面での議論はないようだ。

思考の限界と言語の限界を厳密に一致させようとすれば、それが1対1に対応するという構造を示さなければならないだろう。認識と言語の関係を考えると、認識は表現の基礎になっているものだから、それを表現する言語との関係でいえば、認識の領域のほうが言語の表現の領域よりも広いだろう。言語にならない、言語に出来ない認識というものが存在することが予想される。



言語過程説によれば、我々が言語表現をするときに、<対象-認識-言語>という過程的構造が常に見出されると考える。この過程を欠いた、単に音声だけあるいは文字列だけの存在は言語とは考えない。猿に勝手に打たせたようなタイプライターの文字や、九官鳥が語る音声言語の真似は過程的構造を欠いているので言語表現とは捉えない。

この過程的構造において、対象の世界はそれを認識する認識の世界よりも広い。人間は多くの視点を同時に持つことが出来ないので、すべての視点で対象を眺めることが出来ない。当然、認識できない側面が存在する。それと同じように、認識したことをすべて言語に表現することは出来ない。言葉で言い表せないような思いというのが存在する。この過程的構造は、それぞれが表す世界が1対1に対応するものではない、すなわち一致するものではないことを示している。

  対象の世界=認識の世界=言語の世界

ではないのだ。だが、この認識の世界を、認識の一つの機能である思考に限定すれば

  思考の世界=言語の世界

となると主張するのがウィトゲンシュタインではないかという気がする。そう考えなければ、言語の有意味性という観点で限界を求めることで、思考の限界にも線を引くなどということは出来ないのではないかと思う。言語による有意味な表現が出来ない世界では、思考による対象の捉え方も出来ないと考えているのではないかと思う。

野矢さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、ウィトゲンシュタインは、思考の展開を像の操作というもので置き換えて対応させている。思考の限界を思考することは出来ないが、言語の有意味性を思考することは出来るので、それによって思考の限界を見出そうという発想のように見える。

細かい文法的な側面は捨象して、対象を表す単純な「名」と呼ばれる言語的な要素を結びつけることで言語表現が行われると考える。「猫」「寝ている」「黒い」などという表現を、事実の単純性を表す「名」だとすれば、「猫-寝ている」「猫-黒い」などという表現が、象としての「名」を結びつけたものだと考えられる。そして、この結びつきを作ることが思考の展開と1対1に対応して、言語の象としての操作と思考の展開が一致すると考える。

この結びつきが、言語として意味があるかどうかを判断するものが「名」の論理形式だと語られている。「名」の論理形式を知るものが、「対象」の論理形式をも知ることが出来、それによって思考の展開ができると考えるわけだ。

野矢さんの解説では、部屋の中の家具を紙などでミニサイズにして表したものを使って、引越し後の家具の配置を考えたりするのも思考の展開の例として考えている。この時は、直接言語を使って思考していないように見えるが、像として表された家具としての紙切れを「言語」と呼んでいけない理由はないのではないかと野矢さんは言っている。言語一般を考察する言語学的な観点からいえば、紙切れを「言語」と呼ぶのは抵抗があるだろうが、思考のための「像」という性質を持っているものを、比喩的に「言語」と呼ぶのは許されるのではないかということだ。紙切れには名前がついていないが、もし必要ならAとかBとか名前をつけることも出来るからだ。

言語の像としての側面を、思考の展開というものと対応させると、言語の限界が思考の限界と一致するという構造を考えることが出来る。それは、思考の展開の時には常に言語が見出させるということをも意味する。言語なしには思考の展開がありえないという考え方だ。言語なしの認識(思い)というのは想像できる。自分の感動をちょうど表現する言葉が見つからなくてもどかしい思いをしたという経験はたくさんあるのではないだろうか。しかし、思考においては、言語なしに思考するということがなかなか想像できない。

家具の配置を考えるという思考活動においても、本質的には家具として考えている紙切れが、言語の代用物として働いていて、それは比喩的にも本質的にも「言語」と呼んでかまわないのではないかという気もする。思考活動において言語が必ず必要になるということであれば、ソシュールの次のような言葉も違う意味を持って現れてくる。


「心理的にいうと、我々の思想は、語によるその表現を無視する時は、無定形の不分明な塊に過ぎない。記号の助けがなくては、我々は二つの観念を明瞭に、いつも同じに区別できそうもないことは、哲学者も言語学者も常に一致して認めてきた。思想は、それだけ取ってみると、星雲のようなものであって、その中では必然的に区切られているものは一つもない。予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない。」
(『ソシュールを読む』丸山圭三郎・著より孫引き)


「無定形の不分明な塊」というのは、受動的に何か感じるという形で対象を捉えてはいるが、思考の対象には出来ていないということを意味するのではないだろうか。言語という像がなければ、その対象は思考の対象には出来ないということではないだろうか。何かがどうも違うという「感じ」がしても、それを記号(言語)で区別することが出来なければ、その違いはいつまでも「感じ」のままにとどまるのではないだろうか。言語という像を使うことによって、その違いが明確にされ、初めて思考の対象として現れてくるということなのではないかと思う。

言語という記号が存在しないのではないかと思われる認識としては、匂いや色の特殊な対象に関する認識が考えられる。普通に知られている匂いや色なら名前がついているが、初めて接する匂いや色には名前がない。もしそのような匂いや色を、同じものをもう一度かいだり見たりしたとき、名前がないものを同じだと認識できるかどうか。あるいは、その名前のない匂いや色を、思考の対象にして何らかの性質を考えることが出来るものかどうか。

思考において言語は必ず伴われるものであり、言語なしの思考というものは考えられないものなのかどうか。ウィトゲンシュタインの主張では、それは肯定的に答えられているようにも感じる。言語こそが思考という論理の展開を可能にする道具なのだという感じがする。

このように考えると、ウィトゲンシュタインは、人間の思考というものを論理的な側面から見ることによって言語との結びつきを見出したというふうに見える。それに対してソシュールは、言語規範の働きという言語論的な観点から人間の思考を探っていくことによって、人間の認識や、認識したものを論理的に展開するということにおける言語の不可欠性を見出したのではないかという気がする。

ウィトゲンシュタインもソシュールも、言語を、人間から独立して「対象」として捉えられるものとして考えていないのではないかという気もしてきた。言語は、あくまでも人間の思考活動と結び付けて理解するものというのが、ウィトゲンシュタインとソシュールの基本的な発想なのではないだろうか。

これは唯物論の原則からは少し外れているような気もする。だから、ソシュールの言語論などが唯物論的に批判されることにもなっているのではないだろうか。だが、論理という側面から考えると、ウィトゲンシュタインとソシュールの主張はたいへん魅力的な捉え方だ。

人間が論理を展開するとき、対象の間にすでに客観的に論理的な関係が出来上がっていて、人間はそれを受動的に受け取ることが思考の展開だとすると、思考の展開はそれほど重要なことのような感じがしてこない。よく観察すればそのうち分かってくるということにしかならないような気がする。だが、論理はただ観察するだけではなく、対象の中に像としての可能性という踏み外しのリスクを持ちながら、その対象に大胆に問い掛けていくということから認識を深めていく、つまり思考を展開していくのだと捉えると、その営みがとてもスリルのあるわくわくしたものに感じてくる。

対象を言葉で切り取ることによって、その対象が本当はどういうものであったのかが分かるということは、予想と仮説によって科学が打ち立てられるという板倉さんの仮説実験の論理にも通じる考え方のようにも思う。対象の客観的性質を観察するだけという受動的な姿勢では、無限に多様な存在のすべてを観察することは出来ないのだから、科学といえどもいつまでも仮説のままにとどまる。すべてを観察したわけではないので、まだ確かめられていない部分がどうしても残る。だから、それでは100%確実な真理にはならない。

しかし、仮説実験の論理では、「未知なる対象」という言葉によって対象を切り取ることで、100%確実な真理だと言い切ってしまう。そこに科学法則があったのは、究極的な意味での客観的な「事実」ではないのだ。それは客観的には確かめようがない。だが、「未知なる対象」という言葉で対象を切り取ると、そこに科学法則という思考の結果が導かれる。これを論理的に正当なものとするのは、言語によって現実の論理空間が構成され、言語の限界と思考の限界(論理の限界)が一致するということから得られるのではないかと思う。

果たして、言語なしの思考はどこかに見出せるのだろうか。ソシュールの再評価というのも、言語を客観的な人間とは独立した対象と見るのではなく、人間の思考と切り離せない存在として、その機能的側面を見ていくことから見出せるのではないかと感じる。それがたとえ唯物論的ではなくても、一つの真理を語っているという理解が出来るのではないかと今は感じている。
by ksyuumei | 2007-12-08 11:12 | 言語


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