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『論理哲学論考』が構想したもの7  対象の単純性について

ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。

「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として登場する。「事実」としての世界の現れがまずあり、それを捉えた人間が、「事実」を分析してその中から構成要素としての「対象」を取り出す。そして、その「対象」を表現する言語を「名」と呼んだ。この「名」が、現実の「対象」の像として働くことになり、これを言語表現としてつなぎ合わせて命題を作り、それが言語的に意味を持つものであるとき、それを「事態」と呼んで可能性を表すものとした。

「名」の結合によって作り出された「事態」を集めた集合は「論理空間」と呼ばれ、これこそが思考の限界を考察するためのベースとなるものになった。このとき論理語については、否定の「ない」や接続詞の「または」「かつ」「ならば」などは「名」ではないという理解の仕方をした。「名」ではないというのは、それと直接結びつく「対象」という実体がないということを意味する。つまり、実体としてこの言葉を体現するようなものは存在しないと考えている。



このような考えは、言語表現の概念について、例えば名詞のすべてが「名」になるわけではないという考察をもたらす。もしその概念が、いくつかの「名」を論理語で結びつけたものになっていれば、それは「名」ではない論理語による結合なのだから、「事態」にはなりえず、従って論理空間の要素ではないことになる。論理語で結び付けられた概念を複合概念と呼べば、複合概念を表す言語表現は「名」ではなく、それが表す内容も現実に存在する「対象」ではないということになる。

これは、直感的に理解するのは少々ややこしい。野矢茂樹さんが出している例は、「夫婦」というような複合概念だ。これは、基本的には「婚姻関係を結んでいる」ということが重要になるのだが、「婚姻関係」という言葉もまた複合概念となるので、ここでは単純に「婚姻届を出した」ということで「婚姻関係を結んだ」ということだと解釈する。事実婚のようなややこしい概念は捨象して考える。この捨象は、単純性のための捨象であって、別に僕が事実婚に反対しているからそれを無視するということではない。

この単純化で「夫婦」という概念を分解してみると次の3つの命題を「かつ」で結んだものだと考えられる。「夫婦」を構成する二人を太郎と花子と呼んでおく。

1  太郎は男である。
2  花子は女である。
3  太郎と花子は婚姻届を出した。

この3つの命題に登場する「太郎」「男」「花子」「女」「婚姻届」「出す」という言語表現が、これ以上分解の出来ない単純性を持っているなら、それは「名」を表すことになり、上の3つの命題は論理空間の「事態」となる。しかし、分解可能なら、その言葉はさらに論理語の結合に分解され単純なものが求められることになる。

この分解は、あくまでも論理的・言語的になされる。太郎という個体が、現実の世界では頭があり手があり足があるというふうに、実体として分解できるとしても、太郎という言語表現が、論理的に分解できないならそれは単純な「対象」を表していると考える。「夫婦」という言葉は、言語としてその意味を分解できるということから、それが単純なものではなく複合的なものであるという判断をしている。

だから、「婚姻関係」などという言葉で命題を作れば、これはまた意味の上から分解されることになるだろう。「婚姻届」という紙切れを指すことばを使ったのは、これならこれ以上の意味的な分解をすることなく、実体としての紙切れを指すということで単純化されるのではないかと考えたからだ。

「対象」に対するこの単純性の要請というのは、現実の世界では何が存在しているのかという考え方と密接に関係してくる。「対象」として捉えられる「太郎」や「花子」は存在しているが、「名」ではない「夫婦」として表現される言葉に対応する「対象」はないので、「夫婦」は現実には存在しないと捉えるしかない。これはおそらくかなりの違和感を感じるだろう。

「夫婦」などという存在は、そこいら中にいるのではないかと考えるのが普通の感覚だ。しかし、そこに本当に存在しているのは、つまり実体として「対象」になっているのは、「太郎」や「花子」であり、「夫婦」という言葉で指し示されているものではないと考えるのだ。「夫婦」というのは、論理語によって構成された、頭の中の概念として存在している。「夫婦」を構成する要素としての実体は存在する。しかし、「夫婦」そのものは、実体としては現実には存在していないと捉えるのが「対象」の単純性ではないかと思える。

これは非常にややこしい。現実には、「夫婦」という言葉で語られる存在がいるように感じるのに、それが複合概念であると判断したときには、本当に存在するのは「夫婦」ではないと考えなければならないことになる。それでは、本当に存在する単純な「対象」と、それを論理語で組み合わせた複合概念とを区別することが出来るのだろうか。

これは絶望的に難しいと野矢さんは語っているが、一つの方法として次のようなものを提出している。その言葉を含む命題が、もし「対象」として考えているものが存在しないということがわかったとき、その命題は命題としての意味を失う、つまり論理空間から排除されるなら、そこで語られているのは「対象」であり、言語表現は「名」であると判断する。例としては

  サンタクロースがプレゼントをくれる。

という命題が挙げられている。この命題における「サンタクロース」という言葉は、それが空想的なイメージの中のものであれば現実には存在しないので「対象」ではないことになる。このとき、上の命題は、「事実」として存在していないのだが、論理的な間違い・つまり偽という判断はされない。もし上の命題が論理的に偽であるなら、その否定

  サンタクロースがプレゼントをくれない。

が真である・つまり正しくなければならないのだが、サンタクロースがそもそもいないのであるから、これも正しくなりようがない。単純性を持っている「対象」として捉えられているものが、もし存在しないのなら、その「対象」で作られる命題は意味を失うのである。

サンタクロースということばで指されているものが、具体的なデパートの前にでも立っているおじさんを指している、つまり本当に存在している「対象」なら、上の命題は、真であるか偽であるかがはっきりする。つまり、現実世界の「事実」であるかどうかが判断できる。

単純性を持つと考えられる「対象」は、それが現実に存在しているなら「対象」として捉えられる。存在していないなら、それは「対象」でもない。「対象」の判断には存在というものが深く関わっている。だが、この存在は、存在を証明するということが出来ない。存在は、論理空間の前提になっているもので、存在を基礎にして論理空間は構成される。しかし、そこで存在を前提される「対象」が本当に存在しているかどうかは論理によっては証明されない。存在は論理の前提であり、ある意味ではア・プリオリに前提されているとしか考えられない。

従って、何が存在していると前提するかによって論理空間が違ってくる。神の存在を前提とする論理空間と、神は空想的なものであり現実には存在しないと前提する論理空間では、論理空間そのものが違うものになる。当然のことながらそこで展開される論理操作も違うものになり、思考の限界も違うものになる。

存在するものは「対象」になり、それを言葉で表現すれば「名」になる。「名」の基礎には存在がある。しかし、この存在は確認のしようがない。これを逆に考えると、複合概念として論理的に分析できる言葉は「名」ではないという判断がまずできる。それは、論理操作によって作られた概念となる。そして、それは「名」ではないから、現実にはそれに直接対応する実体は存在しない。「名」ではないものについては、それが現実には存在しないという判断ができる。存在するという判断は出来ないが、存在しないという判断は出来る。これは「実体として」という意味だ。

「夫婦」という言葉は「名」ではない。それは複合概念として表現される。だから「太郎と花子は夫婦だ」というような命題を考えたとき、それは

1  太郎は男である。
2  花子は女である。
3  太郎と花子は婚姻届を出した。

という3つの命題が「かつ」で結ばれている命題だと解釈できる。この3つの命題のすべてが真であるとき、「太郎と花子は夫婦だ」という命題も真になり、1つでも偽になれば、「太郎と花子は夫婦だ」という命題も偽になる。複合命題においては、命題の真偽はどちらかになり、無意味になって排除されることはない。つまり、論理空間に直接の影響を与えない。

論理空間は、「名」の結合による命題の可能性のすべてを網羅したものになるので、ある「対象」が本当は存在しないもので「名」から排除されれば、当然論理空間の範囲が狭くなる。しかし、それが「名」でないなら、つまり実体として存在するものでなければ、論理空間そのものは変わらない。論理空間の全体像を捉えるということでは、「対象」の単純性というものが重要になってくるものと思われる。

複合概念による表現は、単純な「対象」を表す「名」の結合による表現の論理操作に還元することが出来る。これは、それが「事実」であるかどうかという判断を容易にすることにつながるような気がする。単純なものを表面的に観察すればすむのが「名」の結合による表現ではないかと思う。これはデカルトが考えた分析の方法にも通じるような捉え方ではないかと思う。これ以上ないくらい細かく分解することによって「名」に到達し、現実世界のもっとも単純な存在である「対象」に達するのではないだろうか。

また「名」の結合を論理操作によってたくさんつなぎ合わせてしまうと、今度はその全体像をつかむことがたいへん難しくなる。一つ一つは分かりやすくなっても、全体が膨大な量になるために分かりにくくなる。そんな時、全体像のイメージとして複合概念が役に立つような気もする。だが、複合概念は全体像をつかむには便利だが、それが正しいかどうかを判断するのは難しくなる。このあたりに、思考の限界や間違いに陥るきっかけが潜んでいるような気もする。そのような考察のために、ウィトゲンシュタインは「対象」の単純性というものを考えたのではないだろうか。
by ksyuumei | 2007-10-20 10:35 | 論理


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