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弁証法における矛盾

shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感を感じていた。

形式論理における矛盾は現実に存在することはあり得ない。それは、存在を否定する形でその定義がされているからだ。ある命題の肯定と否定というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えばその真理領域が反転している。同時に現れるような真理領域になっていない。もし、これが同時に現れるようなら、形式論理ではそれは矛盾とは呼ばない。

弁証法では、この矛盾が現実に存在することを主張する。形式論理に反したこの主張は、合理的思考を放棄したものとして若いころの僕には感じられたものだった。つまり、弁証法というのは、理屈っぽい言い方で相手を丸め込もうとするような詭弁に過ぎないというのが最初の印象だった。それが変わったのが、三浦つとむさんの弁証法の解説を読んでからだった。



弁証法における「矛盾」と形式論理における「矛盾」は同じ音声・文字を使った言葉ではあるけれど、その概念はまったく違うと言っていいほどの大きな違いのあるものだと今では理解している。単に音声と文字が同じだけで、それを同じものだと勘違いすると、弁証法的な矛盾に大きな違和感を感じるだろうと思う。そういう意味では、僕は弁証法的な矛盾は、矛盾と呼ばないほうがいいのではないかとも感じている。それは「対立」といったほうがぴったりくるような気がする。特徴を表すには「弁証法的対立」と言った方がいいだろうか。

形式論理的な矛盾とは、ある命題Aが肯定と同時に否定されるときに矛盾だと言われる。これは、まったく同じ内容を持つ命題Aの肯定と否定ではなければならない。形が似てはいるけれど、違う命題Bを持ってきて、AとBという二つの命題を両立させようとするなら、ある条件のもとではそれは両立する可能性がある。それは形式論理的にはまったく矛盾ではない。弁証法における矛盾というのは、見かけ上結論として提出されている命題が、肯定と否定の形をしているので矛盾のように見えてしまうが、形式論理としては仮言命題の形をしたものと理解しなければならないと思う。つまり、

 形式論理における矛盾   命題C(肯定) かつ 命題Cでない(否定)
 弁証法における矛盾    命題A(前件) ならば 命題C(肯定) かつ
              命題B(前件) ならば 命題Cでない(否定)

ということになる。これは見かけ上、どちらも命題Cの肯定と否定を主張しているように見える。だが、形式論理的な矛盾は、前提抜きに、あるいはすべての前提のもとでのCの成立と否定が同時には起こらないことを語っている。それに対して弁証法における命題Cの肯定と否定は、ある条件のもとでの主張であり、条件が違えばそれは違う結論になる可能性はいくらでもあるのだから、形式論理的には必ずしも矛盾してはいないことになる。

具体的な例で両方の矛盾の違いを考えてみよう。まずは「矛盾」という漢字の表現の元になった肯定と否定の命題を考える。ここでは矛(ほこ)と盾(たて)について次のような主張がされている。

  矛 … どんな盾でも貫いてしまう
  盾 … どんな矛でも貫けない。防いでしまう。

もしこのような矛と盾が存在すると、矛に関する次の肯定命題と否定命題が同時に成立することになる。

  肯定命題 … すべての盾を貫くことが出来る(貫くことが出来ない盾は存在しない)
  否定命題 … すべての盾を貫くことは出来ない(貫くことが出来ない盾が存在する)

この矛と盾は矛盾した存在になる。このような時、形式論理では、このような矛と盾は現実には存在できないと結論する。両方の主張を同時に満足させるような「対象」は現実世界にはないのである。真理領域にまったく共通部分がないのが形式論理的な矛盾になる。

これに対し、弁証法的な矛盾は、三浦つとむさんが『弁証法はどういう科学か』で提出している例を見てみると、例えば親子関係での「父である」という矛盾の例については次のように考えられる。3代に渡る父と子の家族がいたとき、中間に位置する2代目の男に関しては、

   (前件)1代目との関係においては (結論)「子である」
   (前件)3代目との関係においては (結論)「父である」すなわち「子ではない」

結論において、「子である」という肯定判断と「子ではない」という否定判断が得られる。これは一見形式論理的な矛盾のように見えるが、前件が違うということを考えると、この結論を対立させる必要はない。どちらも仮言命題としては正当なものであり、形式論理的な矛盾は起こしていない。つまり、このような「子である」「子ではない」という主張は十分両立しうるのである。これを矛盾と呼ぶかどうかが、矛盾の定義によっていると考えられる。僕は矛盾と呼ばないほうがいいと思っているのだが、今までの伝統的な使い方からすると、いまさらそれを変えることは難しいのだろうと思う。

ベルトコンベアを使って、前進しながら前進しないという矛盾を作り出す場合については次のように考えられる。これは、前件としては相対的な位置関係というものが条件の違いになって結論として「前進している」という肯定判断と「前進していない」という否定判断が得られると考えられる。

  (前件)前方へ向かう運動をしている人間とベルトコンベアとの位置関係においては (結論)「前進している」
  (前件)その運動を外から眺めている人間においては (結論)人間が前進している分ベルトコンベアが後ろに引き戻しているので相対的な位置は変わらないことから「前進していない」

という二つの仮言命題が得られる。結論の対立は、現実における対立ではなく、条件の違いによる結論の違いに過ぎない。形式論理的な矛盾ではないのである。弁証法的な矛盾と言われるものは、すべてこのように仮言命題の形に直せるものになると僕は思う。なぜなら、弁証法における矛盾と呼ばれるものは、現実世界における対立を表現するものだから、それが形式論理的な矛盾と同じものになってしまうと、現実に存在するはずがないからだ。現実に存在する、矛盾のように見える対立はすべて弁証法的なものなのである。

ただ、上の例で引いた弁証法的な矛盾は内容的にはそこから何ら発展的な思考が展開できるようなものではないので、つまらないものだと言える。これは、三浦さんの本が入門書的な形のものなので、いきなり難しい分析を必要とする矛盾の例を出すことが出来なかったので、初学者のための分かりやすい例として、ある意味ではつまらない矛盾の例が語られているのだと思う。

実際には、ある先入観の元での一面的な見方による結論しか持っていないときに、現実がどうもその見方に反するような現象を見せているという経験を持ったときにこそ、弁証法的な矛盾は大きな威力を発揮する。それは、それまでの認識が一面的だったことを教えてくれるからだ。人間というのは、その見方がたとえ一面的なものであったとしても、それが常識であり・あまりにも自明だという感じが強すぎると、それと違う見方をすることが出来ない。違う視点を教える発想法として弁証法を役立てるということが、弁証法にとってはもっとも有効性を発揮することになるだろう。

例えば、運動というものを考えたとき、われわれが直接知覚出来るのは運動している姿ではなく実は瞬間の静止した姿だけだ。だから、これが常識となり一面的な見方として定着する。そうすると運動は静止になり、静止は変化しないということが結論として得られる。だが、運動している物体は位置が変化するのだから、ここに「変化する」とともに「変化しない」という矛盾が見られるような気がしてくる。これが、形式論理的な矛盾であれば、世界の中に運動が存在しないというゼノンの主張が正しいことになるが、これは弁証法的な矛盾であり、違う視点を教えているものだと受け止めれば、それを形式論理的に矛盾しないように取り扱うことが出来る。

  (前件)運動を位置情報という観点から見れば (結論)その位置で静止していると見る(つまり、空間のある位置に存在する)
  (前件)運動を変化しているという運動量的な観点から見れば (結論)静止はない(つまり空間のある位置に存在するということが言えない)

最初の見方に対応する数学は、代数方程式的な均衡を表現するような、静止を計算する数学になる。もう一つの見方に対応する数学は、極限の計算を含む微分積分的な、関数の数学になるだろうか。極限というのは、そのどこかの時点で止めてしまえば極限にならない。常に無限の運動をして、ある地点に近づいているという状態が極限だ。それはどこかの位置に存在しているということが言えない。どこにもないのだが、全体として運動を表現していると捉える。だから、

  0.99999999999999999………

という表現が、極限を表す限りでは、これは1に等しいのである。これが1になるというのは、弁証法的な矛盾であり、形式論理的な矛盾ではない。だから、数学においてもこれを正確に1と同じものとみなして計算をしても、その全体系が論理的におかしくなるということがないのである。

弁証法的な捉え方が出来ないと、微分積分学というのは、単なる計算のアルゴリズムになってしまう。一面的な見方があまりにも強固で、現実がどうもそれでは違和感があるというような認識を持った時は、弁証法的に考えて理解することが、その違和感を解消するのに役立つのではないかと思う。(マイナス)×(マイナス)に対して、どうしても(借金)×(借金)というイメージが浮かんでしまうときなど、その一面的な見方を反省するために、(マイナス)の弁証法的な捉え方を考えてみるのもいいかもしれない。

僕は最近派遣労働の問題を強く感じているのだが、これなども、企業にとっては利益になるという見方と、派遣される個人にとっては不利益だという、利益と不利益の弁証法的矛盾が見られるように感じる。この弁証法的矛盾が現実に存在しているというのは、存在するだけの条件が現実にもあるからで、その条件が変わらなければ存在を変えることが出来ない。

派遣労働者個人にとっての不利益が、企業にとっての利益になるのではなく、同じように企業にとっても不利益なのだということが証明されれば、ここでの「矛盾」は解消される。どちらにとっても不利益なのだから、その不利益は回避される方向へと向かうだろう。僕は、派遣労働などという形は、将来的には企業にとっても不利益になると思っているのだが、それは弁証法的な発想で考えることからそう結論されるのではないかとも感じている。弁証法は、このようなときに有効性を発揮するので、つまらない例でそれを見限るのではなく、本当に役に立つ例を見つけることが大事ではないかと思う。優れた仕事をした人の仕事の中には、たいてい見事な弁証法的発想が見つかる。弁証法は、発想法として活用したときが、もっとも有効性を発揮するだろうという板倉聖宣さんの指摘が僕は正しいと思う。弁証法の学習はそのようにして進めるべきだろう。
by ksyuumei | 2007-10-17 10:20 | 論理


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