『論理哲学論考』が構想したもの4 ラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解決している。数理論理学的には、この方が「解決」という感じがする。

しかし、ウィトゲンシュタインの方法は、野矢さんの解説を読む限りでは「解消」と言ったほうがぴったりくるような感じがする。ラッセルのパラドックスは、論理を、パラドックスが生じるように解釈したことに原因があるのであって、そのように解釈しなければ、パラドックスではなくなってしまうというのがウィトゲンシュタインの発想のように感じる。

このような発想は、『論理哲学論考』の全体を貫いている基本的な発想のようにも見える。『論理哲学論考』では、哲学問題を思考の限界を越えたことにまで解答を見出そうとするものだと指摘することで、そもそもそれが問題にもなり得ないという事を示そうとしている。人間は、解答が得られるような問題にのみ思考を展開させるべきだというのが基本的な発想のように見える。



ラッセルのパラドックスは、「自己言及」というものに深く関わってくる。この種の有名なパラドックスには、「クレタ人の嘘」というものがある。「クレタ人は嘘つきだ」という言明がそのパラドックスになるのだが、このときの「嘘つき」は、語ることのすべてが嘘だというふうに解釈しておく。論理的な考察をするためには、真か偽かがはっきりしていなくてはならないので、臨機応変に嘘や真を語っては考察が出来ないからだ。

クレタ人でない人間が「クレタ人は嘘つきだ」と語っても、これは少しも問題はない。その言明が正しいか間違っているかの判定は難しいだろうが、それを現実に問い掛けて判断するということは可能だ。つまりこの言明はパラドックスにはならない。しかし、この言明を語ったのがクレタ人自身だとしたら、自分で語ったことが自分にまで適用されるという「自己言及」が起こってくる。そうすると、この言明は、現実のクレタ人が嘘つきかどうかに関係なく、いずれの場合であっても矛盾を引き起こすというパラドックスになってしまう。

1 クレタ人が嘘つきだった場合
  「クレタ人は嘘つきだ」と語ったのがクレタ人だったら、これは嘘(偽)になり、「クレタ人は嘘つきではない」ということが正しくなる。クレタ人は、嘘つきだったら嘘つきではないことになってしまう。これは矛盾だ。

2 クレタ人が嘘つきではなかった場合
  「クレタ人は嘘つきだ」という言明は、クレタ人が語ったときに嘘ではなくなるので、クレタ人は嘘つきでないときに嘘つきだということになる。これも矛盾した結論になる。

上記のいずれの場合にも矛盾が生じるということは、現実のクレタ人が嘘つきであるかどうかに関係なく、この「自己言及」は矛盾を引き起こす。このような命題を論理学ではパラドックスと呼んでいる。ラッセルのパラドックスも基本的には「自己言及」によって引き起こされるパラドックスだ。

ラッセルのパラドックスでは、述語が自分自身に妥当するかどうかということを問題にして言明を立てる。例えば、「曖昧だ」という述語は、何が曖昧なのかその範囲が厳密には決まっていないので「曖昧だ」と判断される。すなわち

   「曖昧だ」は曖昧だ。

という判断がされる。しかし「厳密だ」という述語も、その範囲が厳密に定義されているわけではないので、

   「厳密だ」は曖昧だ。すなわち、「厳密だ」は厳密でない。

という判断がされる。「曖昧だ」は自己妥当的で、「厳密だ」は自己妥当的でないということになる。ラッセルは、自己妥当的な述語を、自分自身に述語づけられるというような表現を使っているようだ。さて、「自己妥当的だ」という性質は、あらゆる述語について調べることが出来る。しかし、これを自分自身について調べようとする「自己言及」を考えると、「クレタ人の嘘」のようなパラドックスが生じる。

「自己妥当的でない」は、果たして「自己妥当的」かどうかという問題を考えてみる。これが「自己妥当的だ」とすると、

  「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。

という言明は矛盾した命題の両方を主張することになってしまう。そこで

  「自己妥当的でない」は自己妥当的でない。

としてみると、今度は、その意味から考えて「自己妥当的でない」という言葉が妥当しないのだから、「自己妥当的だ」ということになってしまう。この場合も、

  「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。

という結論になってしまう。このように自己言及することで生じてしまうパラドックスを避けるには、自己言及に制限を設ければいいという発想はすぐ生まれてくる。これは実際に論理として正当性を持たせるには細かいところにまで配慮をしなければならないという難しさはあるものの、基本的な発想は分かりやすい。自己言及しない限りでは何ら矛盾は生じないのであるから、自己言及さえ避ければいいということになる。

これに対し、ウィトゲンシュタインの解決法は、自己言及のように見えるものが実は自己言及ではないのだと解釈することによっているようだ。このあたりを正確に理解することはかなり難しいと思われるが何とか努力してみよう。ウィトゲンシュタインの解釈は、現実世界をまず「事実」として捉え、「対象」は事実からのみ解体されて求められるという発想からきているようだ。

ウィトゲンシュタインは、この「対象」の中に、実体的な名詞に当たるものだけでなく、属性としての動詞や形容詞も含めて考えている。そして、「対象」の像となる言語表現をすべて「名」として統一している。この「名」は、論理形式として、その結合の仕方が決まっている。意味のある結合の仕方がされているとき、その「名」による表現が、現実に成立していることが見られれば、その「事態」(可能性として語られた命題)は「事実」となり、論理的に真であると言われることになる。

この「事態」の命題が、現実に成立しているかどうかわからない時は、命題の真偽は決定しない。それは可能性のままにとどまる。また、それが成立していないことが明確である時は、その「事態」は「事実」ではないということになり、「事態」を表す命題は偽であると判断される。命題の真偽は、あくまでも現実世界の「事実」によって決まる。

「曖昧だ」や「厳密だ」という述語は、それが現実に成立している「事実」であるかどうかを見ることが出来る。「事実」から解体される「対象」であり「名」であるということになる。また、この言葉自身の自己言及である

   「曖昧だ」は曖昧だ。
   「厳密だ」は厳密でない。

という命題も、現実世界の「事実」として真偽が確かめられる。そして、「自己妥当的だ」という述語は、それが自分自身以外の述語を考える限りでは、現実世界の「事実」からその言明の真偽を判断することが出来る。

   「曖昧だ」は自己妥当的だ。
   「厳密だ」は自己妥当的でない。

しかし、「自己妥当的だ」という述語に対して、それが自己妥当的かどうかを判断するような「事実」は現実世界にはない、と解釈できるのではないだろうか。「自己妥当的だ」という述語(=名)に関しては、自己に対する言及はその論理形式としては排除されていると考えられるのではないかと思う。つまり、

   「自己妥当的だ」は自己妥当的だ。

あるいは

   「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。

という言明は、そもそも意味を持たない命題として「事態」の中に入ってこないのではないか。だから、その真偽を考察することも出来ないのではないか。無意味な命題は、そもそも真偽の決定も出来ないのであるから、矛盾を生じるようなパラドックスにもなりえない、というのがウィトゲンシュタインの結論なのではないだろうか。

   「自己妥当的だ」は自己妥当的だ。

あるいは

   「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。

という命題が無意味だと受け取るのはかなり難しい感じがするが、その真偽が現実世界の「事実」を元にして決定出来ないという根拠から「意味がない」と解釈するのは納得できる部分もある。あくまでも現実世界を出発点にしたウィトゲンシュタインにとっては、現実から離れない限りではラッセルのパラドックスは生じないとした結論は妥当なものであるような気がする。

現実に自己言及が出来る表現であればそこにはパラドックスは生じない。現実に自己言及が出来るかどうかわからないが、とにかく何でも結合の対象にして文法的な意味さえ解釈できるなら、そのことで自己言及を作ってみると、現実がどうであろうとおかしな主張が出来上がるときがある。これは、現実と無関係に言語だけで結合が出来るとしたところに問題がありそうだ。言語の論理形式も現実から獲得されるものだと考えれば、現実を記述する限りでは自己言及のパラドックスは生じないのだといえるかもしれない。現実から出発するということが、『論理哲学論考』における本質的に重要なものではないだろうか。
[PR]
by ksyuumei | 2007-10-14 11:16 | 論理


<< 『論理哲学論考』が構想したもの... 『論理哲学論考』が構想したもの... >>