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『論理哲学論考』が構想したもの3 「事実」と「事態」(現実性と可能性)

ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界を考えるということは、我々がどのくらい正しく現実を捉えられるのかということを求めることを意味するだろう。現実を出発点にするというのは、あくまでも現実の世界がどうなっているかに我々の関心があるのだという意識ではないかと思う。

この、現実の世界を出発点にするというのは、一般論としては納得がいくものだ。空想的な出発点を置いても、それが現実に有効かどうかは分からない。現実が出発点だというのは、現実に有効性を持ち、それが現実の我々の指針になるという点で重要なことだ。しかし、一般論としてはよく分かることではあるが、実際に現実を出発点にして思考の展開を探っていくというのは、具体的にどうしたらいいかというのは難しい。

現実には、目の前に見ている事柄が「事実」であるのか、それとも空想的な観念の中だけに存在する「可能性」であるのかを決定するのは難しい。いや、それは「可能性」すらも否定される「非存在」であるかもしれない。



視覚的という条件をつければ、太陽が地球の周りを回るというのは、人間にとって「事実」として記述されていた。しかし、今では地球が太陽の周りを回るというのが「事実」だということが知られている。だがこの「事実」は、人間が直感することは出来ない。人間にとっての「事実」とは、現象的に「そう見える」という形で記述されることが多い。まだ知られていない、はっきりとは分かっていない「事実」はたくさんあるのではないかと思われる。そのような全体像のはっきりしないものを出発点とすることに、考察の問題が生じることはないのだろうか。

ウィトゲンシュタインの考察の進め方は、まずは手持ちの「事実」から出発して、その「事実」をどう操作して「解体」していくかということを考えているようだ。そして、「解体」して得られた「対象」というものをまた操作して、そこから新たに可能性の世界としての「論理空間」を作り、その操作の過程が思考の全体像を予想させるという展開をしているように思われる。

ウィトゲンシュタインは、「事実」にしても、可能性の考察の対象として設定している「事態」というものにしても、その全体をいっぺんに把握するというふうには考えていないようだ。まずは把握できる世界として、知られている「事実」を寄せ集め、その「事実」から「対象」を取り出し、「対象」を可能性という視点で展開して「事態」をつくり、その全体を「論理空間」と呼ぶという流れになるだろうか。

この流れにおいては、すべての「事実」を把握したり、すべての「事態」を作り出したりということを前提にはしていないようだ。「事実」は、その時点で把握できるものが前提にされているだけで、まだ知られていないものまで含むような実無限の把握を前提にしたものにはなっていないようだ。知られているもののみを出発点にするという発想が「独我論」というものにつながっているのではないだろうか。世界は、私の「事実」を出発点とする私の世界以外ではありえないという考えではないかと思う。

また、世界の中に集められた「事実」から「対象」を取り出すのも、その論理形式をつかんだものという限定がされ、取り出した対象を、可能性を考察するために結合するという操作も、どのように結合されるかが記述され、その操作に従った範囲でのみ「論理空間」が構成されるという点では、「論理空間」もすでにその全体像がいっぺんにつかまれているのではなく、操作の結果として得られたものがそれに属するという可能無限の範囲での把握がされているように感じる。

「論理空間」での結合という操作は、現実の「事実」から解体された「対象」の像としての言語が使われると考えられている。現実の「対象」そのものが結合されるのではない。もし、現実の「対象」そのものの結合をするとなれば、それは具体的な現実経験になり、可能性ではなく現実性になり、「事実」となってしまう。「事態」というのは、あくまでも可能性にとどまり、「事実」になっていないものを指すので、「事態」は、現実の「対象」の代替物である、像としての言語の結合にとどまるというのが野矢さんの解説だ。

この像としての言語を結合させるときに、「名」という概念が用いられて考察されている。「名」というのは、「対象」という現実の像として、代替物としての言語に当たるものとして、「対象」の代替物のすべては「名」というもので一括して表している。これは、名詞的な「実体」としての「対象」だけではなく、「属性」に当たる動詞・形容詞なども区別せずに「名」と呼ばれている。野矢さんによれば、空間的な関係を表す言葉「~の上にある」というようなものも「名」と呼ばれて同等に扱われているということだ。

これは、像としての結合が問題になる限りでは、それら品詞の区別が必要ないと考えたのではないかと思う。むしろ「名」として同等に扱うことにより、結合という面がいっそう際立って取り出せるようになるのではないかとも考えられる。

目の前に「赤いリンゴがある」と言う「事実」が語られたとき、「赤い」と「リンゴ」という対象は、それぞれ形容詞であり名詞であるが、これらは「事実」として現れる時は不可分のものとして登場する。リンゴと関係なく「赤い」だけがどこかに取り出されることはない。「事実」においては対象は結合されている姿で現れる。

この「赤い」や「リンゴ」が単独で取り出されるのは、言語という像になったときだけである。そして、この言語という像が結合されて、例えば他の対象である「バナナ」と結合されると「赤いバナナ」という「事態」が作られる。これは、像の結合として作られた時点では可能性のみを表す「事態」であって、現実とのつながりはない。しかし、現実に「赤いバナナ」が発見された時は、この「事態」は「事実」であったことが確認されて現実性を持つことになる。

このとき、「赤いバナナ」は、可能性を語る「事態」になりうるが、「リンゴバナナ」あるいは、助詞を付け加えて「リンゴはバナナ」という結合は、言語の意味として確定しない意味不明なものになるので、「事態」という可能性を語る命題にならない。これが「リンゴ」あるいは「バナナ」の論理形式を予想させるもので、代替物としての像である言語が意味のある表現になっているということが論理形式として重要になる。野矢さんは、言葉の意味としての面を「名」の論理形式と呼んでいた。「対象」という実体の論理形式は、「名」という言語の論理形式と構造が同じものとみなすことが出来る。こうすることによって現実の実体的な「対象」を考察することが、「名」という言語の中での考察に変わり、これを言語論的転回と呼んでいるのかなとも思った。

「名」という概念は、可能性を語る「論理空間」の考察においては重要になるものだが、以前に考えたように、論理操作としての否定「ない」は、「対象」として「事実」から解体することが出来ない。「事実」は、「ある」という面を捉えて表現することしか出来ない。「ない」という判断は、人間の頭の中にしか存在しない。論理の操作の結果として得られる命題になる。「ない」という否定は「名」ではないのだ。これは感覚的には非常に分かりにくい。

「名」ではないということは、「対象」がないということであり、「事実」ではないということになる。否定的に判断されるような対象は、現実にそこに見ているような気もするのだが、現実に見ているのは肯定判断であり、否定判断そのものは実は見ていないのだと考えるしかない。それは、可能性が現実化されていないということから、可能性の否定として「論理空間」にのみ存在する「事態」と考えなければならないのではないかと思う。

否定判断の「ない」が「名」ではないということと同じくらい重要なことに、肯定判断の「ある」もしくは存在という「対象」(性質)の「名」である「ある」という言葉は、「対象」の中でも特異の位置を占めるものではないだろうか。

例えば「赤い」という「対象」であれば、その「対象」(属性)を持つ実体もあれば、持たない実体もある。肯定判断も否定判断も出来る。しかし、「事実」として現れている現実から「対象」を取り出したとき、それが「ある」と判断されないことがあるだろうか。実際に「事実」として記述されているものが「ない」ということは出来ない。「事実」として記述されているということが、それが「ある」ということを表してしまっている。

これは、勘違いして「ない」ものを「ある」と判断しているときがあるかもしれない。しかしその時は、「事実」だと思ったものが「事実」ではないとわかるわけだから、「事実」ではないものは、現実のものではないということで「ない」という判断も出来る。だが、「事実」だとして提出されている限りでは、それは「ない」とは言えないのだ。「事実」だということが間違いだということがはっきりしない限りでは、「事実」は「ある」としか言えない。

「ある」という「名」で示される属性は、「対象」であればどれもが持っている属性ということになる。「ある」の論理形式は、すべての「対象」について、その命題を作ることが出来るというものになっている。「ある」ということは、「事実」を解体して取り出される「対象」というよりは、世界の全体像の前提として横たわる特別なものという位置を占めているのではないかと思う。「ある」という属性を持たない「対象」は、そもそも「対象」ではないということになるのではないだろうか。

数学においては、「ない」という判断につながる0(ゼロ)やマイナスの数が、計算という操作の対象になる。この存在は、「事実」や「事態」との関係からいうとどうなるのだろうか。これらは、「ない」という判断がその概念の基礎にあるので、「事実」として「対象」を切り出せるようなものは現実世界には見つからない。しかし、数学の世界では厳然として存在しているように見える。

数学の世界は現実ではないと言ってしまえばそれまでなのだが、0やマイナスの数をノートに書くという行為は現実のものになる。0やマイナスの数を、実体的な表現として考察の対象にするというのは、「事実」や「事態」という範囲のどこに位置付けたらいいのだろうか。数学は、0やマイナスの数を、フィクショナルに実体化して、それがあたかも「事実」の中の「対象」であるかのように扱うというところに特徴があるのではないだろうか。

数学は現実の世界そのものではない。しかし擬似的に世界を構築し、その中で現実化されたフィクションを考察するという思考の運動をしているのではないだろうか。これは、フィクショナルなものであるから、現実のものと違って完全化することができる。現実には把握が出来ない無限も、フィクショナルな世界として設定されることによって数学の中で取り扱うことが出来るのではないかとも感じる。

  0.9999999999………

という表現は、小数点の数字として9が無限に続くことを表している。これを現実の世界で捉えて考えてしまえば、これが1に等しくなるということは判断としては得られない。どんなに9をたくさん書き連ねてもそれはちょうど1にはならないからだ。

しかし、上の「………」は、ただ点が書かれているのではなく、実は無限に9が続くことを表している。それは現実にはそれを書くことが出来ないので、フィクショナルに想像の世界でそう思うしかない。このとき、そのフィクショナルな世界では、この無限の極限というものが想定されている。そしてその極限においては、これは正確に1と一致すると判断するのが数学の世界、数学的現実とでも呼ぶ世界になる。現実世界の「事実」と「事態」が、世界と論理空間の中でどう現れるかということと、数学の中での「事実」と「事態」に当たるものがどう現れるかということを考えるのは、数学の深い理解のために役立つような発想ではないかと感じた。考えてみたいものだ。
by ksyuumei | 2007-10-13 10:57 | 論理


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