シカゴブルースさんから「マイナス概念の形成」というトラックバックをもらった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で語っている、「マイナスというものがそもそも想像上の対象である」ことと、それを現実の中に探しても、それが「存在しない」ので、直感的な把握が難しいのだという主張への反対の見解を語っている。
シカゴ・ブルースさんは、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」ということの判断から、僕が「マイナス」という言葉の意味から上のような結論を引き出したことを、現実の経験を媒介にしない、何か先験的な判断のようなものという受け取り方で、「先験主義(ア・プリオリズム)的な解釈」と呼んでいるように思われる。しかし、先験的な判断は、「主義」にまで徹底されてしまうと間違えるだろうが、個々の場合においては、経験するまでもなく確かだと判断できることもある。それが論理的判断であり、論理的判断をすることは、決して先験主義という「主義」ではない。 また、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」というものも、無条件にそれを肯定することは出来ない。もし、このことを無条件に肯定してしまえば、それこそ間違った「先見的判断」として「先験主義」に陥ってしまうのではないかと思われる。「ことば」はそれがまったく新しい実体に対する命名であった場合は、もちろん現実がまず第一にあって、そこから概念が引き出され、それに命名されるという順番になるだろう。しかし、「ことば」の洪水の中で育っている現代の我々においては、まず「ことば」の意味が先行して後に概念が形成され、その概念に合致する現実を発見するという逆のコースも存在する。 「神」という概念は、大昔は、人知を超える現象に対して、それがなぜ起こるかという説明をしたいという人間の欲求から、神という概念が形成されたという歴史が想像できる。つまり、現実の現象がまずあって、その現象を説明するために概念が出来上がったという順番が正しいだろうと思う。だが、その言葉が生まれた後に生きている人々は、まずは言葉の意味としての「神」の概念があり、その神の概念の現れを現実に発見することで信仰を深めていくということになるのではないだろうか。それこそ、「神」の意志の現れを現実に体験して、そこから「神」の概念を創っていく人は、現代人には皆無ではないかと思われる。 言葉が形成される過渡期に生きてきた人間の認識と、すでに言葉が十分行き渡った社会に生きている人間の認識とでは、その概念形成の構造が違ってきているのではないかと思う。そうであれば、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」ということも、その条件によって判断が違ってくるのではないかと思われる。常に成り立つ法則性あるいは原理ではない。現代社会を「言語ゲーム」として捉えるウィトゲンシュタインの思想は、この原理が、もはや現代社会では変わってしまったという捉え方ではないかとも思われる。 さて、論理における先見的判断の特徴は、例えば三段論法における、述語の内容に関係なく成立する形式論理の問題がある。aやxを個々の対象として考え、Pをその対象に対する言明と考えると、Pの内容に関係なく、次の推論が成立する。 すべてのaはPである。 あるxはaの一つである。 ゆえに、xはPである。 これは、Pで語られていることに関係なく、ということは、Pという経験をすることなく、対象xがPであるという結論を導くことが出来る。その意味で先験的な判断である。しかし、この判断が成り立たないようなら、人間は論理的な判断をすることができなくなり、合理的な思考というものが出来なくなる。これは、三段論法という場面で限定された先見的判断なので、他の条件のときにも先見的判断が正しいと主張するような先見「主義」ではないので、間違いを免れていると思われる。 また「丸い三角」というような、形容矛盾の対象を想像するときも、それが現実には存在しないということを、経験によって確かめるのではなく、我々は言葉の定義から論理的に判断して結論する。「丸い三角」という対象は、その定義に形式論理的な矛盾が含まれているので、そんなものは現実には存在しないと結論できるのである。 「丸い」というのは、数学で言えば「円」のことであり、定点から定距離にある点の集合を指す。「三角」というのは、3つの直線で囲まれた閉じた図形のことであり、2つの直線が交わることによって出来る角が3つあることから「三角」と呼ばれる。定点から等距離にあるということと、それが直線であるということは両立しない形式論理的矛盾になる。だから、そんなものは、言葉の意味から推論して、現実には「存在しない」と結論付けることが出来る。 マイナスの数が現実には存在しない想像上の産物であるというのも、その定義・言葉の意味から引き出される論理的な結論だ。だからこそ経験に関わらず、「存在しない」という主張が出来る。もっとも、経験を根拠にしていたら、「存在する」という証明は出来るが、「存在しない」という主張は出来ないのだから、この主張は常に論理的なものに限られるだろう。 マイナスというのは、普通の数をプラスと捉え返したときに、その属性が正反対になるようなものとして想像されたことから設定されたものだ。そして、普通の数は、それが1対1対応を基礎にして自然数として把握されたという生成の過程から考えれば、存在するという属性を持っていることが重要なことになる。存在しているからこそ1対1に対応づけることが出来る。もし、何も存在しないときにそれでも1対1に対応付けようとしたら、そのような経験が成立しないことに、人間は途方にくれてしまうのではないだろうか。 シカゴ・ブルースさんは、「3-5」という引き算の場面を想像して、これが2つ「不足」しているという事実が存在しているのだから、という理由からマイナスの数の存在を引き出そうとしているように見えるが、これは、「不足」という事実(すなわち状態)の存在を示すものではあるが、それがマイナスの概念を属性として持っている実体の存在を示すものではない。実際には、3つしか存在しない対象に対して、5を取り去るという引き算は出来ないのである。 この引き算は、実際には出来ないにもかかわらず、不足という概念をマイナスの数として想像上でフィクショナルに実体化することによってその状態を保持する表現を得たということになるのだと思う。マイナスの数が現実に存在しないと僕が語るとき、それは、マイナスを示すような状況が現実に存在しないという意味ではない。状況や状態というものは、その解釈によって捉え方が違ってくるので、マイナスが適用できるような解釈をすれば、状態というものは十分存在しうる。しかし、状態ではなく、それを実体の属性として確認できるような存在は、マイナスの場合はないのだというのが僕の主張だ。 シカゴ・ブルースさんが提出する「負の数のタイル」にしても、それはどんなに努力して発見しようとしても、現実には見つからない。頭の中で想像するだけしか出来ない。実際に存在するタイルは、黒い色を塗っていようと、1つの黒タイルは、1つというプラスの数で捉えられる現実存在にしかならない。それは決してマイナス1という属性をもっている「負の数のタイル」が現実に存在しているのではないのだ。 なぜなら、普通の白いタイル(プラスの数を表す)と、この黒いタイルをいっしょにして、足し算を示すような合成の操作をしても、それによって二つのタイルが「消滅」することはないからだ。現実には、消滅したことにして取り除くことによって0(ゼロ)を示すことになる。それは、すべてそのように解釈して扱うことによって、正負の数の加法の原理を実感させようとする教育的な配慮に過ぎない。実際には、合成したとたんに存在そのものが0(ゼロ)になるような、プラスの数を消滅させるような属性を持った「負の数のタイル」は存在しない。それは想像上の産物なのだ。 我々は、余剰と不足があったとき、余剰のほうをプラスにし、不足のほうをマイナスにする。その逆を想像することは出来ない。これは、プラスの数に本質的に、存在するという属性が伴っているからである。それでは、不足そのものはこの世に存在するのであろうか。不足という概念は存在するが、不足という対象は存在しない。不足は、まさにそこに「ない」ということを語るものであるから、不足が存在するといえば、形容矛盾になり、形式論理的な矛盾になってしまうからだ。 昔見た映画で、題名もストーリーも忘れてしまったのだが、印象的なシーンを覚えているものがある。それは、一つ目の巨人の目をつぶして退治する英雄が現れる映画だった。ギリシア神話を題材にでもしていたのだろうか。その英雄は、一つ目の巨人と戦う前に、自らの名前を「Nobody」と語っていた。そこで、一つ目の巨人が目をやられたときに、誰にやられたのかと、一つ目の兄弟から聞かれたときに、 Nobody did. と答えたのを覚えている。これは非常に印象的だった。たしかに、「Nobody」という固有名詞をもったものがやったのだから、このような答えになるのだが、この答えは一般的には「誰もやっていない」という意味になってしまう。つまり、「Nobody」という対象は、ことばの意味の中に、それが存在しないということを含んでいるのである。 「Nobody」というのを、固有名詞と考えれば、それを持っている存在があることが前提される。しかし、この言葉を一般的に概念として捉えれば、それは、言葉の意味の中にそれが存在しないということを含んでいる。これは、「Nothing」というような言葉についても言えるだろう。 There is nothing. という言葉は、「Nothing」というものの存在を主張しているのではない。そこには「何もない」ということを語っているのだ。「無」は存在しないのだ。「無」が存在すると主張することは形式論理的な間違いなのだ。それでは、0(ゼロ)は数学においてなぜ存在するのか。それは、フィクショナルに実体として設定するからだ。このフィクショナルな実体は、計算の体系を完結させるのに役立つ。筆算における体系を完全なものにしてくれる。0なしには、筆算は成立しない。筆算が行われていたインドで0が発見され、そろばんが発達した日本では、数としての0の概念は生まれなかったというのは象徴的だ。 そろばんにおいては、0は状態として目に見えるものとして存在させられる。だから、それを実体としてフィクショナルに設定する必要がなかった。0は、何もないということで認識していればよかったのである。だが、筆算においては、ないということでは位取りの原理が確実なものにならない。ないということを示すフィクショナルな実体がなければならないのだ。 このフィクショナルな実体が、言葉の概念を発展させて、現実には存在しない0が存在するような錯覚を起こさせる。例えば、車を持っていない人が、車が0台あると表現することで、ないという状態を実体的に表現することが出来る。これは、現実をそのまま表現したのではなく、現実の解釈に0の概念を適用しただけのことだ。0台の車が存在しているのではない。車は1台もないのである。マイナスの数が現実には存在しないのだという僕の主張も、これと同じような意味で語っていることなのだ。
by ksyuumei
| 2007-10-03 09:53
| 論理
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