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数学的法則性とその現実への適用

数学教育で難しいものに、アルゴリズムが確立されているものを論理的に正しいということをよく納得して理解するということがある。それは、アルゴリズムが確立されているので、手順さえ覚えれば必ず正解を導くことが出来る。それが正解であるということを理解していなくても、アルゴリズムさえ間違えなければ正解を求めることが出来る。

理解し、納得していなくてもとにかく正解が出せるからいいじゃないかという立場もあるだろう。数学を道具として利用する立場なら、そのアルゴリズムが正しいことが保証されていればそれを信用して、他の側面に思考を集中させるということがあるだろう。しかし、このような立場でも、そのアルゴリズムが正しいという信頼感は、単に信じているだけでは危ういのではないかと思う。せめて基礎的なアルゴリズムだけでも、それが正しいことをよく納得して受け入れなければ、かなり複雑になった難しいアルゴリズムの正しさを単純に信じることは出来ないのではないかと思う。特に、それを道具として他の側面で複雑で難しいことを考えようというなら、基礎的なアルゴリズムの正しさはよく理解しておいたほうがいいだろう。

基礎的なアルゴリズムとしての筆算の加減乗除の理解に関しては、故遠山啓先生が発見した水道方式による教育が効果的だ。特に、教具としてのタイルは、その法則性の現実への適用としては、抽象性と具体性を適度に併せ持った「シェーマ」としての働きを有効に持っている。筆算のアルゴリズムは数学的・抽象的な論理法則であるが、それを理解するには具体的な現実への適用において常に成り立つという納得をする過程が必要だ。それがタイルを使うと効果的になされる。




タイルは、分数や小数の計算のアルゴリズムの理解においても威力を発揮する。これらは、アルゴリズムとして手順を覚えてしまえば、形としては常に正しいことをしているように見えるが、その構造の理解をしてアルゴリズムを実践するのと、単に手順の記憶で機械的にやっているのでは、その人間の認識(理解)に大きな違いが出てくるだろう。手順を覚えているだけでは本当の法則性の理解とは言えない。

基本的な筆算のアルゴリズムに関しては、このようにかなりうまい工夫が見つかっているのだが、これが負(マイナス:―)の数の計算になると手順の記憶以上の理解をしようとするとかなり難しくなる。特に(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという法則性の理解は難しい。これは数学においては論理法則であって、加減乗除の計算、より基本的には加法と乗法が定義されている集合においては、その基本定義から論理的に導かれる法則になる。(減法と除法は、それぞれ加法と乗法によって定義されるので基本的にはこの二つが定義される必要がある。)

加法と乗法が定義されている集合Zにおいて、その要素をa、bなどという小文字で表すことにする。そのとき、単位元eと逆元xを次のような条件を満たすものとして定義する。

 加法の単位元  a+e=e+a=a
 (これは通常0:ゼロと書かれる)
 乗法の単位元  ae=ea=a
 (これは通常1と書かれる)

 加法の逆元   a+x=x+a=e(=0)
 (これは通常(―a)と書かれる)
 乗法の逆元   ax=xa=e(=1)
 (これは通常1/aと書かれる)

この加法と乗法に関して、次の結合法則・分配法則が成立することを前提とする。

 加法の結合法則  (a+b)+c=a+(b+c)
 乗法の結合法則  (ab)c=a(bc)
 分配法則     a(b+c)=ab+ac
          (a+b)c=ac+bc

これらの前提を置いて、マイナスの数を加法の逆元だと定義したとき、論理法則として(マイナス)×(マイナス)=(プラス)というマイナスの掛け算の法則が導かれる。それは次のような論理展開から導かれる。

1 0 = a0 +(- a0)…加法の逆元の定義から
   = a(0 + 0) +(- a0)…単位元0の定義から、0+0=0
   = (a0 + a0)+ (- a0)…分配法則の適用
   = a0 + (a0 +(- a0))…結合法則の適用
   = a0 + 0 …加法の逆元の定義から
   = a0 …加法の単位元0の定義から
  逆も同様に0=0a

2 a0 = a ( b + (-b) ) …加法の逆元の定義から
  = ab + a(-b) …分配法則より
= 0 …上記1の結果より
  (これにより、ab と a(-b) は、互いに加法の逆元であることが分かる)

3 0(-b) = ( a + (-a) )(-b) 加法の逆元の定義より
= a(-b) + (-a)(-b) 分配法則より
= 0 上記1の結果より
  (これにより、 a(-b) と (-a)(-b) は、互いに加法の逆元であることが分かる)

4 逆元の一意性
  xとyが、互いにaの加法の逆元であるとすると
  a+x=x+a=0…4-1
  a+y=y+a=0…4-2
  x=x+0…加法の単位元の定義より
   =x+(a+y)…上記4―2より
   =(x+a)+y…結合法則より
   =0+y…上記4-1より
   =y…加法の単位元の定義より

逆元の一意性から、互いに a(-b) の逆元となっているabと(-a)(-b)は同じものになる。すなわち

   (-a)(-b)=ab

となり、(マイナス)×(マイナス)は(プラス)になるという法則性が証明される。この法則性が論理的に証明されるということは、加法と乗法の基礎的な構造を持っている集合では、この法則を現実に確かめることなく、論理的考察だけでその正しさが保証されるということである。自然科学における実験のように、その真理性を証明する必要はないということだ。だから、手順を覚えさえすれば正しい結果が導かれるということになる。

このことを論理的に納得しようと思えば、上のような考察を展開すればいいのだが、これは論理に慣れていない人には、かなりくどいように感じるのではないだろうか。直感的という意味では非常に分かりにくい。これはそもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だからではないかと思う。

直感できないので、ノーミソの目である論理で理解するように努めるということになるのだろう。この論理が、誰にでも分かるようなものであれば数学教育は苦労しないのだが、残念なことにそのような教育法はまだ発見されていない。水道方式におけるタイルのような、直感と抽象をつなぐシェーマのようなものが発見されれば、この法則性も理解しやすくなるのではないかと思う。

マイナスでない、普通の数であれば、現実に存在するものを手がかりにして直感的に把握できる。掛け算も普通の数であれば、タイルを長方形に並べて、縦と横の掛け算でタイルの総数を求めるという理解のしかたが出来る。1当たり量というものを導入することで、掛け算の法則性を直感的に把握して筆算のアルゴリズムを理解する助けとすることが出来る。

実際には存在しない負の数の場合は、存在しているタイルを目の前にして説明することが難しい。あえてこの方法を応用するなら、存在はしないが想像の中で見ている「負のタイル」というものを導入して考えることになるだろう。これは目の前に提示することが出来ない。提示できてしまったらそれは「正のタイル」になってしまうからだ。目には見えないが、頭の中(ノーミソの目で見る)に想像として存在するものとしてこれを捉える。

そのような発想で負の数の掛け算を説明しているものにシカゴ・ブルースさんの「マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)」というエントリーがあった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、正負の数が同数だけある状態の0(ゼロ)というものを設定して考えている。

0(ゼロ)というのは、通常は何もないという状態をあらわすものとして考えられている。しかし、その概念は、負の数を導入する前のもので、正の数だけの世界の話になる。負の数を導入すると、0(ゼロ)というのは、常に負の数の想像を伴って頭の中に存在するものになる。これが、論理法則としての負の数の掛け算を、現実に適用した場合のふさわしいモデルとなる。

数学的な論理法則というのは、論理だけでその正しさが証明できるのだが、初学者の段階ではその論理をたどるのがかなり難しくなる。だから直感的に理解できるような、現実の適用が正しくなるようなモデルを利用することが、教育においては重要になってくるのではないかと思う。水道方式におけるタイルは、そのモデルとしてもっとも成功したものではないかと思う。シカゴ・ブルースさんが提出する負の数の掛け算のモデルとしての想像上の「負のタイル」というのも面白いモデルではないかと思う。

数学における法則性は、論理的な法則性なので、その理解のために現実の中にモデルを探して適用するということがあるのだが、実は法則性というのは原理的にはすべて論理法則として展開されるのではないだろうか。ある前提を置いたときに、その前提の下では正しいとされる論理を展開して求められるのが、ほとんどすべての法則性ではないのだろうか。

法則性は論理によって求められるが、その理解のためには、現実のモデルが有効であるというのは、人間の世界理解の仕方を反映しているのではないだろうか。人間は、世界をただ受動的に受け止めているのではなく、まだ見ていない部分をも想像して考えるという世界理解の仕方をしているのではないだろうか。それが法則性の認識につながり、そしてそれは論理を使ってなされるのではないかと思う。

それでは論理の正しさは何によって保証されているのだろうか。これはたぶん哲学的な問いになるのだろうが、パラドックスの考察とウィトゲンシュタインがそれを考えるヒントを与えてくれるのではないかと思う。論理が正しいというのはあまりにも当たり前のように感じるのでそれを考えることが難しい。果たしてそれは証明できるものなのだろうか。
by ksyuumei | 2007-09-24 11:44 | 論理


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