法則は、抽象化された実体に対してのみ成立する

法則性の認識(理解)を考えていたら、これは運動の認識(理解)とよく似ているのではないかということが頭に浮かんできた。運動というのは、変化という属性を本質としている。どのような形であれ、物質的存在に何らかの変化が認められれば、それは運動していると言われる。

代表的なものは位置の変化を表す力学的な運動だろう。位置が変化せずとも、時間とともに何らかの変化をする物質は、外見は動いていないように見えても運動していると解釈することが出来る。このように、運動は平凡な出来事で、身の回りのあらゆるところに見出すことが出来る。しかし、運動そのものを提示することは出来ない。

我々が目にすることが出来るのは、一瞬の静止画の状態だけだ。この静止画の状態を取り出して運動を表現することは出来ない。時間を隔てた二つの静止画を取り出して、それが経過する姿を想像して、この二つから運動を頭の中に作り出すことは出来るものの、現実にそれが運動だと呼べるものを一つだけ取り出すということは出来ない。いくつかの静止画をまとめて取り出すことは出来るものの、それはどれだけたくさん集めても運動そのものにはならない。



運動は表現の段階では静止画になってしまう。これが運動の持つ弁証法性(矛盾)というものではないかと思う。板倉聖宣さんが言うように、運動を論理で表現しようとすると、それは静止画の表現になってしまうので、矛盾を含んだ表現にならざるを得なくなってくるのだろう。

運動を、静止画である論理で表現するには、数学でイプシロン―デルタの論理と呼ばれる工夫がいるのだろうと思う。極限の表現は、「限りなく近づく」という運動状態を、静止画である論理を使って表現するものだ。このとき、その状態の断片を、どこで取り出してきても、常に近づいているように作り出せるということを示すのが、任意の正の数イプシロンというものを使った工夫だ。この「任意性」の中に、静止表現でありながら運動を表現するという工夫が見られる。

運動というものは、現実の中にそれをそのまま取り出すことの出来ない対象になっている。それと同じように、法則性というものも、現実にそれをそのまま表しているような対象というのは存在しない。運動の認識(理解)が、頭の中の連想のようなもので、現実の静止画をつなぎ合わせたようなものになっているように、法則性の認識も、現実の具体的な対象ではなく、頭の中の「法則」として抽象されたものとしてのみ認識(理解)されているのではないだろうか。

現実には法則性は存在しない。それは、法則性を認識した人間の頭の中に存在するものだ。では、現実の事実を指して、ここにある種の法則があると語るとき、それはどのような意味でそう語っていることになるのだろうか。それは、法則性の適用をして現実を解釈しているように感じる。現実の中のある部分を指して、これが法則性だと言っているのではなく、まず法則性の認識があって、その法則性を適用するとどのようにその現実が解釈できるかを語っているのではないかと思う。

だから、何かが起こった後の事実の解釈としての法則性の適用は、それが解釈である限りでは、正しいとも間違っているとも判断しがたいものになるのではないかと思う。解釈であるなら、それはどのようにでも同等に解釈できるということがある。現実に存在している対象の、どの部分を重視するかで解釈が違ってくる。

例えば、交通事故が起こった時の原因を解釈する場合などを考えると、「スピードの出しすぎ」だというようなものが浮かんでくる。これは、法則性としては、「一定以上のスピードが出ていた場合は、それを制御することが出来る能力の範囲を越えてしまって、制御できなくなる」というようなものを適用すると、事故を避けきれなくなってしまったと解釈できる。この解釈は、法則性の適用であり、そこに法則性が現れたということを意味するのではない。

なぜなら、この法則性とは違う法則性で事故の原因を解釈することも出来るからである。例えば、「人間は疲労が限界以上に達すれば判断能力が鈍り的確な判断ができなくなる」という法則もある。また、疲労ではなく飲酒を原因とする法則もあるだろう。心の中の心配事などが原因だとする法則性もある。法則性は、その前提条件の違いによって多様なものが見出せる。

実際に何かが起こった後の事実の解釈においては、法則性の適用という解釈はどれもが同等に確からしい、決め手のないものになる場合がある。仮説実験授業研究会の新居信正さんは「屁理屈と膏薬はどこにでもつく」というような格言をよく語っていたが、解釈というのは、後でどうにでも理屈がつけられるということだ。

現実の解釈における法則性は、それが解釈である限りでは、その法則性が正しいかどうかはまったく保証がない。というよりも、むしろ、現実の解釈をある種の法則性にしたがって行う時は、その解釈をする人間は、その法則性の正しさを前提として解釈しているとも思える。解釈においては、法則性が正しいのは自明の前提であって、それが正しいかどうかの検証の必要性を感じていない。

では、法則性が正しいかどうかの保証を与えるのはどのような思考の展開だろうか。それは、事実を後から解釈するのではなく、まだ起きていない事実を予測するときに法則性を適用し、その適用の結果得られた結論が、実際に後で事実として起こったときに、その法則性が正しかったと結論できることになる。

目の前の事実は、あくまでも個別的な事実であって、それを観察したからといってそこから法則性は得られない。帰納的推論は論理的な正しさを保証しないということだ。それは常にそうであるとは限らない。たまたまその時はそうであったということに過ぎないのかもしれない。

現象論的段階における観測・観察は、法則性のヒントにはなるが、それは法則性そのものの現われではない。法則性の認識(理解)は、現実からいったん離れて、論理的に対象を設定しなおして、設定しなおした実体の間にどのような論理的関係が生じるかを見るのが法則性の認識(理解)になるのではないだろうか。

この法則性の認識の段階が「実体論的段階」と呼ばれるものではないかと僕は思っている。そして、この段階における法則性は、純粋に論理的なものになってしまうのだと思う。だから、この法則性が、現実にうまく適用できるかということは、また現象論的段階の解釈によって検証しなければならない。

この解釈は、すでに知られた事実に対しては、ほとんどうまく適用できるものになり、一部適用が出来ないものに対しては、その対象が例外的なものであることが示されればいいだろう。だが、これだけで済ましてしまえば、それは科学として保証された法則性にはならない。科学は、既知の事実に対する解釈だけでなく、未知の対象に対してもその法則性の適用が正しいことが証明されなくてはならない。つまり、正しく未来が予測できてはじめて、科学法則としての資格を獲得する。

経済学理論は、ほとんど数学の一分野だといわれるくらいに対象を抽象化している。これは、現実の複雑な多様な属性を持った存在そのままでは、論理によって展開するようなことが難しいからだろう。対象が単純化できなければ、複雑な場合分けによって論理を考えなければならないが、現実の多様性をより多く反映させようとすれば、経済学というのはまったく複雑なものになってしまうのだろう。

だから、現実の経済現象ではあり得ないような前提をいくつか設定して、経済学で理論展開する対象は抽象的なものになっていくのだろうと思う。常に合理的判断をして行動する人間など現実にはあり得ないが、そのような設定をした方が論理的な展開としては、場合分けを少なく出来る。合理的な判断なら、よく考えれば誰もが同じ判断に達するが、もし不合理な判断もするのが人間だと考えて、不合理な判断も理論の展開に盛り込もうとすれば、それは論理の分岐が複雑怪奇なものになってしまうだろう。

経済学が、理論としては非現実的な展開をしているといわれても、実体論的段階で、抽象的に設定された実体について論理を展開しようとすれば、それは仕方のないことではないかと僕は感じる。問題は、そうやって見出された法則性が、現実の適用においてどの程度有効性があるかということだろうと思う。現実の持っている本質的な部分までも捨象してしまえば、それの適用はあまり現実への有効性を持たないものになるだろう。

ちょっと前のマル激の議論で面白いと思ったのは、経済学的な合理的判断をする人間は、企業の株価が適正価格を外れたら、それが適正価格に戻るような判断をするという前提があるということだった。そのような前提を持つと、株価が企業価値以上に上がってバブルになった時は、それを下げるような努力をするのが合理的判断をする経済人ということになるのだが、現実には、バブルで儲けようと思っている人間は、バブルがはじける前に売り抜けて、むしろバブルをあおってから儲けた後に売り抜ける方向を考えるという。そして、これが現実の合理的判断になってしまうという。

現実の経済的な判断においては、人間の「儲けたい」という気持ちが判断を左右する大きな要素になっていて、これが普通の経済学では捨象されてしまっているようだ。だから、現実の経済現象は、経済学が語るような法則性に必ずしも従わなくなる。だが、法則性の適用がうまくいかなかったからといって、経済学の法則が間違っていることにはならないだろうと僕は思う。

現在の経済学が捨象してしまっている部分を、捨てずに取り入れられる経済学ができれば、それはより現実への適用の有効性を持つものになるだろう。しかし、それ以前の経済学も、法則性としては十分に完結しているものだと僕は思う。そして、認識の発展においては、実体論的段階の充実という意味で、そのような法則性の追求は大事なことではないかと思う。それが十分になされた後で、本質論的段階と呼ばれる認識に達するのではないかと思う。

非現実的だといわれて、すぐに現実の現象にべったりと張り付いた認識の方向へ行ってしまうのは、実体論抜きの本質論の展開になってしまいかねないのではないかとも感じる。マル激での株のデイ・トレードの話はそれなりに面白かったものの、それは経験と勘で儲けるタイミングをつかむことの出来るものではないかと思った。法則性として認識していなくても、経験をつみ、勘を鋭くさせた人間は、実践的に高い技術を持ちうるのではないかと思った。だが、その高い技術は、必ずしも法則性として認識されていないので、おそらく他者に伝えることが難しいだろう。

法則性の認識は、おそらく教育において大事なものになるだろう。教育において伝えられるものは、基礎的な土台となるような知識と技術だ。経験をつんで勘を鍛えるというような内容のものではない。経験と勘を磨いて獲得するものは、本人の強い意欲と素質に依存している。それは、たとえ形の上では教育を受けたように見えても、高い能力を身につけたのは教育の成果と呼べるかどうかは難しい。それは、本人の努力と素質の賜物だと言った方がいいだろう。教育において保障されるのは、基本的なベースになる部分だけだと僕は思う。

初心者が、ある程度の水準に達する中級程度までの段階に行くには、法則性の認識を基礎にした教育の方法の確立が重要なのではないかと思う。そして、法則性の認識は、抽象化された実体という過程の理解が必要ではないかと感じている。現実べったりの、現実をベタに受け取る経験だけでは決して初心者の段階を越えられないのではないかと思う。初心者を卒業するためのきっかけをどうつかむかを、現象論的段階を越える法則的認識の理解から見つけたいものだと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-23 21:50 | 論理


<< 数学的法則性とその現実への適用 不毛な二項対立 >>