不毛な二項対立

仲正昌樹さんの文章には「不毛な二項対立」ということがよく出てくる。これは、お互いに相容れない主張(矛盾した主張)を展開していて、相互の間ではまったく話し合いにならないような状態を指していう。これは、どちらかが間違えていて、正しい結論に落ち着くようなら、まだ「不毛」だとは言われないだろう。間違えていた方は悔しい思いをするかもしれないが、間違いが正されることは結果的には多くの人の利益になる。

しかし、どちらが正しいかが簡単に言えない場合、それはより正しい方・あるいは双方の正しさを取り入れた妥協点を見出すことが建設的な方向になるだろう。このような方向へ行くには、建設的な対話がどうしても必要なのだが、双方が、相手の主張を少しでも認めることは出来ないというかたくなな態度を取っていると、この二項対立は、どちらかが完全に否定されるまで続かなくてはならなくなる。そして、かなり難しい問題ではその決着がつくかどうかさえ分からなくなるので、延々と対立が続くことになり、その状態が「不毛」だと言われるようになる。

この不毛さを克服するのはかなり難しい。なぜなら、自分の主張を下げない人は、自分の主張のほうが正しいのはほとんど自明なことのように感じているので、相手が間違っているということが前提になってしまう。こうなると、相手の主張を冷静に分析して、相手の立場に立ってものを考えるということは出来ない。相手がバカに見えてしまう人間には、不毛な二項対立を克服することが出来ない。




この二項対立を克服するには、宮台真司氏が語るフィージビリティ・スタディというものが必要だろう。あらゆる側面から、考えられうる限りの可能性を検討して、たとえ結論として対立していることでも、条件によっては成立することもありうるということを理解することが大切だ。そして、現在の状況がその条件を成立させていないからこそ、自分はその主張に反対するという考えを提出すれば、不毛な二項対立ではなく、多様な可能性の下の議論が出来るようになるだろう。

そもそも二項対立という概念は形式論理にとっては非常に重要なもので、これがあるからこそ形式論理のすばらしさや有効性が発揮されるといってもいい。二項対立によって矛盾が導かれた場合、それが本当の意味で形式論理的な矛盾であるなら、その前提は否定されなければならない。二項対立によって前提の否定が完全に証明されることになる。

形式論理にとって重要で有効性を持つ二項対立が、実際の議論の場面で不毛なものになってしまうのは、本来は形式論理的な二項対立(矛盾)ではないものを、形式論理的なものだと勘違いするからだろうと思う。三浦つとむさんの言葉でいえば、敵対的矛盾と非敵対的矛盾の混同ということになるだろうか。

敵対的矛盾というのは、克服され否定されなければならない矛盾で、形式論理的な矛盾といえる。それに対して非敵対的矛盾というのは、視点(前提)の違いから導かれた、文章表現として対立してしまうような二つの結論の間に存在する矛盾だ。これは、結論としての文章だけを取り上げて、それが「同時」に成り立つと考えてしまうと形式論理的な矛盾になる。しかし、実際は、視点(前提)の違いを持っているので、それが「同時」に成立することはない。だから、決して形式論理的な矛盾ではないのだ。

結論だけを戦わせている二項対立は不毛なものになる。消費税を「値上げする」のが正しいのか「値上げしない」方が正しいのかと、その結論だけを戦わせていれば、その結論から導かれる双方の立場の対立を反映した、結論の出ない二項対立が生じる。消費税の負担を感じる側からは、その値上げの結果としての生活の苦しさが反対の理由になるだろう。また、消費税の値上げが必要だという、国家財政を担当する立場からは、値上げをしなければ、さまざまな税の支出が出来なくなるという理由が提出されるだろう。

この双方の主張は、それぞれに合理的でもっともな主張であり、双方の立場に立つ限りでは「正当性」を持つ。しかし、その正当性は、立場が違えば捨象されてしまうもので、結論をぶつけ合っている間は妥協点が見出せない。このとき、あらゆる角度からものを見ることで、正当性を持つ判断をいくつも提出し、その選択肢の中から、双方の利益をもっとも高め、損害を最も少なくするものを選ぶという議論に進むならば、その時は不毛な二項対立ではなく建設的な議論になることだろう。

このような建設的な議論というのは、論理的に考えればこのとおりなのだが、実際の議論の場面ではこのような方向は双方にとって評判が悪い。二項対立をしている当事者たちは、お互いに相手の主張が間違っていると思っているので、少しでも相手の立場を認めるような姿勢を見せると、それは自らの敗北を意味すると感じてしまうようだ。それは、主張の正しさを仮説的に受け取って検証するために、とりあえず相手の立場に立つのだが、相手の立場に立った瞬間に、相手の主張を受け入れたもののように解釈されてしまう。

例えば、学校行事の入学式・卒業式における国家斉唱・国旗掲揚の問題などは、それに賛成する立場と反対する立場とでは、まったく妥協点を見出せない二項対立になっている。これが本当に形式論理的な二項対立なら、どちらか間違っているほうが否定されて正しいほうが残るということでいいのだが、問題はそう単純ではないだろうと僕は思う。双方に正しさと間違いがあるために、そのような単純な決着は見られないと思うのだ。

愛国心の重要性の主張を全面的に否定することは出来ない。また、個人の思想・信条・良心の自由を否定することも出来ない。どちらも、ある条件からは正当性のある主張を展開していると考えられる。だからこそ対立が起こるわけだ。そしてこれが不毛なものになっているのは、双方がどちらの主張も、少しでも認めるわけにはいかないという、あらゆる可能性を検討するという立場に立てないからだ。

だから、いろいろな可能性を検討して、双方の主張が正しいかどうかを、実験的に検証しようという提案は、なかなか双方から賛成を得るのは難しい。正しいことが自明だと思っている事柄を実験するとなると、その実験そのものに対する拒否感が生まれるだろう。もし、自分が正しいと思っていることが、実験で否定されたりすれば、そのときはその現実を受け止めきれなくてパニックを起こしてしまうかもしれない。

日の丸・君が代問題に関していえば、行事におけるその実施は、愛国心を育てるものだという主張が、賛成者にはあるだろうと思う。僕は、これが正しいかどうかに大いなる疑問を抱いているので、この正しさを証明するような実験をして、正しくないという結論が出れば、他の方法での愛国心教育を考えるという建設的な議論ができるのではないかと思っている。

愛国心そのものは否定することの出来ないものだと思う。それがなければ国家の存立そのものが危うくなる。国家を形成する以上、愛国心はあって当然であり、それを持たなくてもいいのだという議論は、国家を否定しない限り出来ないことだろう。学校行事における日の丸・君が代に反対する人々も、愛国心そのものを否定しているのではなく、そのような形で押し付けてくる愛国心教育に反対しているのだと思う。

そうであれば、そのような愛国心教育に効果がないことが証明されれば、双方にとって妥協点を探ることが出来るのではないかと思う。そのためには実験をすることがいいのではないかと思うのだが、これはなかなかデリケートな問題を含んでいて難しいかなとは感じる。心の問題で実験をしてもいいのかという、倫理的な問題もあるだろう。また、愛国心というある意味では崇高な意識を、自然科学の実験のように気楽に扱ってもいいのかという感情的な問題もあるだろう。

それでも、これは実験的に確かめなければ、効果があるかどうかというのを客観的に評価が出来ないだろう。一番単純な実験は、日の丸・君が代の実施を徹底させた学校と、それを個人の意志の自由に任せた学校とで、愛国心の現れに顕著な差が出てくるかどうかという実験をすることだ。しかしこれは抵抗感が大きいだろう。このような時は、仕方がないので、過去の事実から実験に相当するものを探して、未知なる事実に対する予想として愛国心が育つかどうかという事柄を見ることになる。

このような方向で、日の丸・君が代の実施という教育が、本当の意味で、多くの人が期待しているような愛国心を育てることに寄与するかどうかを、客観的に評価することが出来れば、それを押し付ける側と、あくまでも徹底的に抵抗する側との、不毛な二項対立は新たな局面を見出せるのではないかと思う。しかし、このような発想は、双方にとって賛成してもらうのはきっと難しいだろうなと思う。それくらい、自分の立場を離れてものを考えるというのは難しいことだ。

立場からくる主張としては、南京事件における虐殺された人の数としてのいわゆる「30万人説」がある。これは僕は中国共産党の立場からくる間違った主張だと思っている。これは、「ばかげた主張」だと僕は表現したが、ばかげているのは主張のほうであって、中国共産党ではない。むしろ中国共産党は、この主張をするだけの合理的な理由を持っていると思われるので、その意味ではまったく「バカ」という形容はふさわしくない。むしろ頭の良さを発揮していると解釈したほうがいいだろう。

中国共産党にとっては、「30万人説」はあくまでもプロパガンダであって、プロパガンダとしての有効性がある間は、そう主張したほうが利益になる。それは、犠牲者のすべてが虐殺されたのだという感情的な主張に結びつくが、これは大衆的な扇動としては大きな効果を持つ。凶悪事件の報道などがあると、大多数の人々は、犯人に対する憎しみを掻き立てられる。犯人が何かで追い込まれていたり、犯行に至る何か必然的なものがあったかもしれないという発想は持ちにくい。しかし、それなしには本当は真相は分からないはずなのだが、憎しみの感情に駆られた大衆は、「吊るせ」というような感情的反応で対応するだろう。

「30万人説」は、冷静な判断としてはまったくばかげたものだが、プロパガンダとしては大きな効果をもつ。しかも、国際社会でも、このようなイメージが固定してしまえば、外交的にはいつも日本が「悪」だというイメージを植え付けることが出来る。中国共産党にとっては、二重三重の利益が見込める主張になる。だから、頭がよければ、効果が期待できる間はこのような主張をするほうが合理的だといえるだろう。

逆に言うと、この主張にもはや利益が見込めなくなれば、中国の指導者の頭のよさから言えば、他の効果が期待できるならばすぐに「30万人説」を修正するのではないかと思う。日本が、中国とアメリカの外交において重要な位置を占めることに成功すれば、いつまでも日本を「悪」にしたり、敵を作って国内のナショナリズムをまとめるという対象として日本を選ぶ必要がないということになり、この「30万人説」を劇的に撤回するという時代がくるかもしれない。「30万人説」はもともと根拠のない主張で、虐殺という概念はいくらでも恣意的に考えることが出来るからだ。

中国は、南京事件において、不毛な二項対立の主張をしているのではなく、その二項対立が利用できるからこそ主張しているように見える。このような議論の仕方をすれば、たぶん不毛な二項対立というものを克服するのも容易だろう。不毛な二項対立の主張を本気で信じるのではなく・つまりベタに受け取るのではなく、それが利用できる時は利用するというドライな判断が、倫理的な反発はあるかもしれないが、二項対立を克服する道に近いのではないかと思う。不毛な二項対立は、本当の意味での矛盾ではないという理解が重要なのではないかと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-20 10:20 | 論理


<< 法則は、抽象化された実体に対し... 「正当性」の判断 >>