「正当性」の判断

「正当性」という言葉は、辞書的には「社会通念上また法律上、正しく道理にかなっていること」と説明されている。本質は「道理にかなっている」ということで、論理的に正しいということが要請される。難しいのは「社会通念上」あるいは「法律上」ということだろう。これは、社会通念や法律そのものが「正当性」を欠くという場合も考えられるからだ。「正統性」を欠いた前提から導かれた結論は、たとえ論理的に正しくともその結論に「正当性」があるという保証が出来ない。

「正当性」というのは現実にはそれが肯定的に語られていても、常に揺らいでしまう可能性を持っている。しかし我々は、社会的に決定される事柄に関しては、それが「正当性」を持つことで承認を与える根拠とすることが多い。この「正当性」というものが常に揺らぐことのある存在であるなら、どのようにして「正当」であることの妥当性を高めることが出来るだろうか。

論理的に正しいこと・すなわち合理的であることが必ずしも「正当性」を保証しないとしたら、それ以上の重要な観点というものを見つけなければならない。そうでなければ、民主的な決定に際して、我々が選択するものが間違いである場合が多くなるだろう。いまは自民党の総裁選が争われているが、福田氏か麻生氏か、どちらかを選ぶ際に、その語ることに「正当性」があるかどうかを判断基準にすることは普通に考えられることだろう。だが、「正当性」の判断そのものが揺らいでいては、この選択も間違える可能性が高い。



「正当性」というものを、正しいかどうかという側面・すなわち真理であるかどうかという点で見てみると、科学はその「正当性」の判断に客観性があるものだ。つまり、誰が考えても科学的に正しい事柄は、必ず正しい(真理だ)という結論に達する。どんなに観念的にそれに反対したくても、科学として確立された事柄に反するような思考の展開は出来ない。

科学においては強固な「正当性」の判断が出来るが、科学でないものに対しては、そのような100%確実な判断は出来ない。科学と科学でないものの違いを考えて、「正当性」に関してより正しい判断に達するための方策がないかどうかを考えてみようかと思う。

具体的な例でまず考えてみると、「消費税の値上げ」というような主張に正当性があるかどうかを考えてみよう。まずは合理性という観点からは、何らかの原因があって、これを仮言命題の前提とすると「消費税の値上げ」が導かれるということがあれば、それは合理的な判断といえる。よく言われるのは、財政の破綻ということだ。国家の財政においては、収入よりも支出のほうが多くなっているので、収入を増やさなければ借金が膨らんでいつかは破産するという破綻が訪れる。この破綻を逃れるには、収入を増やす道として「消費税の値上げ」が結論されるというものだ。

この合理性だけで「消費税の値上げ」が正当だと判断してくれれば、国家権力にとっては、非常に従順ないい国民だということになるだろう。しかし、ここでその前提をもう少し具体的に検討したいとなると、この合理性だけでは正当だという判断が出来なくなる。国家の財政において、収入が少なくて支出が多いという状況は、現実の状況には違いないだろうが、この支出の項目に、それを出さなければならないという「正当性」があるかどうかを検討し始めると、その「正当性」が確立されないと、そこから論理的に導かれた「消費税の値上げ」の正当性は生まれない。その結論が論理的な合理性を持っていると同時に、「正当性」のつながりもなければならない。

支出の部分で、利権を肥やして私益をむさぼっている人間がいれば、その私益を支えるために「消費税の値上げ」が利用されるということになる。そうすると、その私益を確保するためには合理的な判断となるだろうが、その私益は公益には反することになるため、多くの人にとっては「正当性」が失われる。「消費税の値上げ」は、そのような公的なお金の使い方に正当性があるということの証明とセットで主張されなければならない。

科学においては、前提に関する「正当性」の問題は、抽象化(捨象)による単純化でうまくなされる。現実の対象は、存在する物質が複雑に絡み合っていて、相互の影響による状況の違いが見られる。万有引力の法則から落下の法則が導かれても、現実には空気中を浮かび上がっていくヘリウムガスの風船などがある。現実の状況にはそれぞれ個性があるので、その個性を考察の中に取り入れていたら、場合分けという論理的な処理が膨大なものになってしまう。これを単純化して、力学の場合でいえば、それが真空中ではどのように現れるかという、邪魔をするものをすべて排除(捨象)してしまって、場合分けをしなくてもすむように工夫してから論理を展開する。

科学はこのような単純化をするので、誰が考えても同じ結論に達するような客観性を持つ。だが、この客観性は、狭い範囲の条件にかなうものだけを集めているようにも見える。これを克服するのは、科学が設定した抽象的情況が、対象の本質を抽出したものだということの妥当性だ。現実存在は、科学が設定する抽象的対象そのものではないが、現実存在の持っている個性は、本質的ではない部分は末梢的なものとして捨象され、誤差あるいは例外的なものとして処理される。だからこそ科学は、それを理解する人間からはすべて支持されるという「正当性」を持つ。

科学でない対象に対しても、このように、科学が持つ「正当性」に近いものを解釈して判断するということが出来るだろうか。科学でない対象は、個性的な条件というものを完全には捨象することができない。どこまでも現実の個性というものが付きまとう。その中で、より本質的なものを拾い出して、末梢的だという判断ができるものを見出せるだろうか。もしそのような判断ができれば、本質的なものを優先して、末梢的なものを捨てるという処理で、科学に近い形の客観性を手に入れることが出来る。

以前に山崎養世さんがマル激にゲストで出たとき、国債による借金というものを、一度は税金を使って処理しなければならないということを主張していた。それは、税金を使うことが「正当」だという主張ではなかった。税金を使う対象として、完全に公共性を持っていることにその金が使われているという前提で話したものではなかった。

それは、ある意味ではいろいろな利権に利用されて膨らんだ借金であるから、本来はその利権を肥やした人間の責任で回復させなければならない借金だ。だが、それが誰であるかを特定することはきわめて難しく、法的な処置をすることも難しい。そのようなことをしている間にも、利子は払わなければならないし、借金は大きくなっていくだけだ。

現在の状況という個性的な要素に関しては、借金をなくすのに税金を使うことの是非は細かいことを言えばいろいろ異論もあるだろうが、まずはそれを早く処理することが「本質的に」重要だということになれば、税金をつぎ込んで処理をしなければならないという主張だった。このことによって責任を逃れる人間が出てくるだろうが、「しょうがない」という判断だったようだ。

これは一つの見識として僕は理解できる。科学の前提になるようなことがらほど、その捨象をすんなりとは受け取れないものの、そのような合理性があるということは理解できる。金融機関が破綻しかけたときに、税金を投入してそれを救ったのも同じような論理からではないかと思う。本来ならば、破綻するような経営をした人間の責任を問わなければならないのだが、まずは破綻を防ぐほうが時間的に優先されたという判断がそこにはあったのだろう。それは「正当性」の主張としては理解できる。その判断が正しかったかどうかは分からないが。

科学と違って、現実の個性的な問題は、何が捨象されるべきかということの判断が難しい。だが、判断しなければならないということがあるならば、あえて何かを捨象して結論を出さなければならないだろう。それはいくつかの異論が生じるものになる可能性が多い。そして、異論があればその選択をどうにかしなければならなくなるだろう。この選択においては、より正しい判断をするであろう専門家にゆだねるという方法と、みんなで責任を分け合うという民主的な決定手続きとがある。専門家が、非専門家よりもはるかに正しい判断をするということが明らかな場合は、その判断を専門家にゆだねるべきだろう。しかし、複雑な利害が絡んで、どの決定が正しいかが容易には言えないような対象に関しては民主的な決定にゆだねたほうがいいと思う。そして、その判断が間違いだった場合は、その決定に関与した人間がすべて責任を負うべきだろうと思う。

「正当性」の問題というのは、何らかの意味で社会的なものではないかと感じる。それは、まったく個人的な判断においては「正当性」ということは問題にする必要がなくなるのではないかと思う。個人の自由がかなりの範囲で認められる現代においては、その自由の範囲内での判断は、「正当性」のあるなしに関わらず、個人的な恣意的判断でもかまわない場合があるだろうと思う。

芸術に関する評価というものが、社会的に賛同をもらいたいというものであれば、その評価の「正当性」(何をよりすぐれた芸術だと評価するかという判断)が問題になるだろう。しかし、その芸術を個人が楽しむ対象とする場合は、それをいいとおもう気持ちは、他人がどう思おうと、自分がいいと思えば高い評価をすることはかまわないだろう。他者とそれを共有したいと思ったときに、その評価の「正当性」が問題になる。

もっとも、自分がいいと思った芸術作品は、誰か他の人にもいいものだと認めてもらいたいという気持ちが生まれるだろうから、多くの場合はそれは社会的なものになり、そうであればその評価の「正当性」が必ず問題になるとも言えるかもしれないが。結果的には、そのようになったとしても、可能性としては、個人が楽しむ範囲においてはあまり「正当性」は問題にならないだろう。「タデ食う虫も好き好き」ということになる。

現実の「正当性」の判断は、いつでも対立する判断が生まれる可能性がある。これを、どちらが正しいか決定するのはきわめて難しい。複雑な判断であれば、それはどちらが正しいかは五分五分で、ある意味では「分からない」と言った方がいいだろう。このとき、その判断を少しでも正しいほうへ向かわせる「センス」のようなものがあれば、それを磨きたいものだと思う。

僕は、宮台真司氏の、この判断のセンスというものにいつも驚きを感じている。その現状認識の鋭さにいつも敬服する。おそらく宮台氏が語る本質が、その対象に関して本当に重要な要素になっているだろうということをいつも感じる。そこから判断される「正当性」は、複雑な現実を正しく把握して、何が本質的で何が末梢的であるかを正しく判断しているように感じる。妥当な抽象(捨象)がされているようにいつも感じる。

このようなセンスは、知識や論理能力によって育てられるものだろうが、どのようにすれば高められるのかというのを教育の問題として考えたいものだ。一つ感じるのは、宮台氏にはドグマ的な前提というものが見られないところだ。いま懸案になっているテロ特措法の延長問題なども、ドグマ的なものを持っている人間は、その「正当性」を検討しようとする場合に、そのドグマに反するものを最初から排除してしまうだろう。

最初から「絶対に認められない」とか、「絶対に延長させなければならない」というような結論を持って考察すれば、それは考察の前に捨象されてしまう要素を必ず含んでしまう。その要素が実は、現実には本質的で重要である可能性があるだろう。このような問題の考察のとき、宮台氏は、あらゆる可能性を検討するというフィージビリティ・スタディというものの考え方をする。論理でいうところの場合分けを徹底して行うわけだ。自分の感性からすれば反対したいようなことでも考えてみるという「センス」が、宮台氏の鋭い見方につながっているのではないかと思う。このような姿勢は、一貫しない曖昧なものと受け取られる危険もあるが、正しい判断のためには必要なセンスではないかと思う。それを磨く方法を得たいものだと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-09-19 10:17 | 論理


<< 不毛な二項対立 慣性の「原理」 >>