人間の意志が関わる行動の法則性

今週配信されたマル激では、小幡績さんというゲストを招いてバブルの現象というものを分析していた。この分析では、人間が意志の自由によって行動を選択する際、自由によって無秩序に選択されるように見える行動の中に、ある種の法則性を解釈する余地があるということが説得的に説明されていた。

バブルでは、適正価格以上に値が上がった株に対して、それを買い求める人が殺到するため、さらに適正価格以上に値が上がるという現象が起こる。それは永久に続くような現象ではなく、いつかはそれが高すぎることに誰もが気づき、突然それが買われなくなる。そうするとバブルがはじけることになり、高値でそれを買った人は大きな損をするということにもなってくるわけだ。

僕は、この現象については、欲に目がくらんだ人が判断を間違えたために、いつかは必ず値が落ちる株に殺到して損をしただけなのではないかと思っていた。率直に言えば、損をした人たちは「頭が悪かった」だけなのではないかと感じていた。しかし、このマル激を聞く限りでは、ことはそう単純な理解ではすまないとも感じた。頭がいい・悪いに関わらず、バブルが起こったときには、儲けようという目的があればそれに乗るというのが法則性として働いているのではないかと思った。



バブルの時代に僕が不思議に思ったのは、物質的・客観的な資産価値以上の株価がついた会社というのは、調べればすぐに分かるのではないかということだった。ライブドアは事件を起こして株価がほとんどゼロになってしまったが、その最高値の時代には本来の資産価値の何倍の値段がついていたかわからないくらいの高値だった。これは、ライブドアの業績などを調べれば、高すぎるというのは専門家でなくても分かりそうな気もした。

その高すぎる株を買うということの危険性は理解するのはたやすいのではないかと思う。しかし、その危険性があってもあえてライブドアの株を買うほうが儲かるという計算が成り立つということが、小幡さんの説明を聞くと説得的に理解することが出来る。キイワードは「リスク・テイク・バブル」という言葉だった。誰もがリスクを取る(テイクする)ならば、リスクがリスクにならずに利益として返ってくるというのだ。

資産価値以上の株を手にするということは、いつかその株が資産価値に見合うようになったら、その差額の分だけ損をするということだ。だから、当然最後までその株を持ちつづけていたら損は免れない。しかし、最後まで持ち続けることをしなければ、十分望んだだけの利益を得るような買い方をすることも出来る。それは、まだ高値が続いている時期をはずさずに、自分が買った値段よりも高い値段で売り抜けて逃げるということで利益を得るという目的を達成するということだ。

資産価値以上に高い株に人々が殺到し、バブルの熱が高まるのは、熱病に浮かされたように異常な状況なのかと思っていたのだが、小幡さんの説明を聞くと、かなり頭のいい人の、儲けを得るという目的のための合理的行動なのだなということが納得できる。頭の悪い行動ではなかったのだ。むしろ頭のいい人は、儲けたいという希望があればバブルに乗るのが当然で、儲けたいと言う希望があるのにバブルに乗らないのは、そのほうが頭が悪いともいえる。

僕は、儲けたいという希望がなかったために、結果として大損をする人々を見て、第三者として、バブルによって損をする人間が出るのは必然的なことなのに、わざわざ損をする人間になるなんて、頭が悪いんじゃないかと感じていたわけだ。だが、儲けたいという願いを持っている人間は、頭のよさと悪さは違う面で現れてくる。

儲けたいという人間で一番頭のいい人間は、バブルがはじける直前まで我慢して売りぬける人間だ。それは最高値で売ることになるので、儲けがもっとも大きい。バブルがはじけた後まで株を持ちつづけた人間は、運が悪いということと頭が悪いということが紙一重で一致するような状況になる。だが、この頭のよさと悪さは、まさに紙一重の差であって、「運」と呼びたくなるもののような感じがする。

小幡さんによれば、バブルに乗って儲けるために株を購入するのは一種のギャンブルだと言う。それは、確実な予測が出来ないのでギャンブルになってしまう。資産価値以上に株価がつくのは情報として知ることは出来る。だから、それがいつかは資産価値に落ち着くまで下がるというのは、法則性として予測が出来る。「いつかは」株価が落ちるというのは、確実に予測できることだ。しかしそれが「いつ」になるかという具体的な計算は出来ない。科学法則は、一般的・抽象的法則性は確実に予測できるが、個別・具体的な予測は出来ない。

それがいつになるかを予測するのはギャンブルになる。運がよければ当たるし、運が悪ければ外れる。それは、どんなに頭がよくても、確率計算が出来るほどの確実性を持たない。この、ギャンブルが絡む法則性は、どうしても個別・具体的な対象の個別性・具体性を捨象することが出来ないので、おそらく科学の法則として打ち立てることは出来ないだろうと思う。つまり、三段階論的な発展をするような法則性は求められないのではないかと思う。

バブルという現象がなぜ起こるかという解釈は、小幡さんの説明を聞くとよく納得できる。バブルが始まれば、客観的な資産価値など関係なく、買値よりも売値のほうが上がると信じられるので、儲けを得ようとする人は買いに出てくる。さらに、バブルを感じたもともとその株を所有する人たちは、もっと値が上がると信じられればあまり売りには出さない。そうすると、買いたいという需要がさらに高まるのでさらに株価は上がることになる。みんなが欲しがる株は、それがどのような実態を持っていようと、欲しがるということで値が上がる。

この現象の法則性は、人々が何を信じているかということに深く関わる。だから、人々が急にその株に価値を感じなくなると、バブルはいっぺんにはじけることになる。その時期を敏感に悟った人が勝者として利益を得ることになる。この、人々が何を信じるかというのは、確率計算をすることの出来ない対象ではないかと感じる。個々の人がどのようなことを信じていても、それが一定量集まれば、統計的に確率計算が出来るようになるのだが、バブルにおける株価の予想に関しては、人々の意志や希望などを計算する基本データを得るのは難しいのではないかと思う。

最後の決断は、自分の経験から得られた勘とギャンブルに賭けるという心がそれにつながるのではないだろうか。ギャンブルは、対象が個別的・具体的なものになるので、やはり科学にはなりえないだろう。それは事前に予測することが難しく、後から解釈するしかない対象になるのではないかと思う。

今週のマル激を聞いて感じたのは、小幡さんが語るような、現実的な実践を具体的に考える際は、科学法則よりも「発想法」のようなものが役に立つのではないかということだ。現実的な実践は、対象が現実の具体的な存在になるので、科学法則をそのまま当てはめることが出来ず、対象を抽象・捨象というステップで一般化して法則性を適用しなければならない。そうすると、本当に具体的な、今何をしようかというような実践においては法則性を使いようがないということが出てくる。対象の具体性をどうしても捨てきれないということが出てくるだろう。

このような時は、法則性を適用したつもりでも、必ずしも期待通りの結果を得ることが難しくなる。そんなとき、実践の方向を少し変えるための「発想法」というものが便利に働くのではないかと思う。ことわざや弁証法というのは、実際に具体的にそのような考え方を適用した経験が、新たな経験の際にも同じような例として適用されて、違う方向からそれを見るということを教えるのではないかと思う。

「押してもだめなら引いてみな」ということわざがあるが、これは、実践的に押してだめだったというとき、他の方法として「引く」ということを試してみたらどうだというような指針を与える発想法として捉えることが出来る。弁証法なども、今はある側面から対象を見て、その解釈の元に実践をしているけれど、一度全然別のほうからそれを見て、その解釈の元で実践をやり直してみたらどうだというような発想を与える。

ことわざが科学法則なら、押してだめなとき、引いたら必ずうまくいくというような法則でなければならない。しかし、ことわざというのはそのような法則ではない。ある時はそれがうまくいくけれど、ある時はうまくいかないということが前提としてあって、具体的な今の状況は、それがうまくいくかどうか分からないので、とりあえずは試行錯誤してみなさいというときに役立てることが出来る。弁証法も、常に成り立つ法則ではない。

小幡さんが語るバブルの解釈も、具体的な結果を解釈するには説得力があり、これからの経験では、うまくいかなかったときの発想の転換に役立つような法則性ではないかと感じた。人間の意志が関わる法則性の中で、小室直樹氏が語るような「疎外」という現象が抽象できるようなものは、科学としての考察の対象になるだろうと思う。つまり、それは個々の人間の意志の多様性はあるものの、全体として集団的意志は法則性を持つ・個々の人間の意志からは独立してその法則性を考察できるものになるだろう。

しかし、「疎外」という形に抽象できない、個々の人間の意志の自由の具体相が捨てられないものについては、それは科学の対象にはならず、一つの発想法として抑えたほうがいいのではないかと思った。それは、現象論から実体論への抽象が出来ない法則性なのではないかと思う。

小幡さんが語っていたことの中で、「バブルは避けられない」ということが印象に残った。バブルは、結果としては最後に売り抜けなかった運の悪い人が大きな損害を受けて終わる。そして、運が悪かった人の多くは、まじめで善良な人が多いようだ。まじめで善良であるがゆえに、権威ある情報をそのまま信じ、バブルがはじける直前にそれに参加してしまうようなことがある。人が損をしても、その分自分が儲けようとする人間は、バブルのはじける時期を敏感に感じ取って逃げ切るのではないかと思う。少しくらい悪人であるほうがバブルで儲けることが出来るだろう。

最も頭がよく悪い人間は、バブルを仕掛けて儲けようとする人間だろう。バブル現象は、それを望む人間が多数いるので、おそらく今後も繰り返し起こるだろうと小幡さんは語っていた。これは、個別・具体的な対象に関する言明ではないので、科学的な法則性として考察できるのではないかと思う。そして、バブルの必然性がもし法則性として成立するなら、バブルをなくすための制度的工夫をしても「しょうがない」ことになるだろう。

必要なのは、バブルが大きくならないようにするための歯止めと、バブルが起きてしまった時は、それはいつかはじけるのではじけた後の救済が重要になるという。バブルが大きくならないための歯止めが可能であれば、被害が生じたとしてもそれを小さいものに抑えることが出来るだろう。そして、運悪くバブルが生じた時は、もっとも善良でまじめな人々が一番の被害者になるという点では、やはり救済が必要だろうと思う。

このような歯止めと救済は個人で出来るものではない。制度を担う、権力をもつ側の人間が行うことになるのではないかと思う。これらの人間には、個別・具体的な対象を越えた、一般的・普遍的な科学的な真理というものの認識が不可欠になる。そうでなければ、社会一般の秩序に関わるような問題の解決が出来なくなるだろう。科学は、個人的な利益を超えたところで、その有効性が発揮される。法則性の認識においても、それが自分の利益につながっている法則性なのか、社会一般の利益なのかという観点が重要になるのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2007-09-09 14:07 | 論理


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