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小室直樹氏が語る資本主義の法則性

小室直樹氏が『資本主義原論』(東洋経済新報社)という本で、資本主義に関する法則性を語っている。これは、今まで考えてきた三段階論的な意味での法則性とややニュアンスが違うのを感じる。この違いをちょっと考えてみたいと思う。

小室氏は、見出しとしてもそのものズバリの「経済には法則がある」という第一章の文章で、「市場には法則がある」ということでこの法則性を語っている。今まで考えてきた法則性は、具体的な現実存在の属性として観察できるものを出発点として、現象論的段階から実体論的段階を経て本質論的段階に発展していくというものを見てきた。法則性としては、具体的に対象がどうなるかということを語るものだった。

しかしここで小室氏が語る法則性は、具体的な存在がどうなるかということを語るものではない。むしろ具体性が捨象されて、法則性そのものが「存在する」か「存在しない」かということを語るものになっている。対象に関する法則性ではなく、法則性そのものに対する言及になっていて、「メタ法則性」とでも言いたくなるような一段高い視点からの法則性の捉え方になっている。




このメタ的な視点というのは、具体的な法則性を考察する際の前提として確認されるものになるだろう。法則性が存在するからこそそれを考察することに意味が出てくるわけだ。もし法則性が存在しないのなら、存在しない法則性について、それが成立するかどうかなどと考えるのは、矛盾を出発点にして展開する形式論理と同じことになる。そのような前提のもとでは、形式論理はどんな命題であっても証明可能なものになる。存在しない法則性について語ることになれば、どのように荒唐無稽な結論であろうとも、論理的に引き出すことが出来てしまう。

小室氏が語る法則性の存在は、理論展開の基本に据えなければならないものだが、存在すると判断するためにはどのようなことが必要だろうか。これが意外と難しいのではないかと感じる。例えば、法則性が持つ「必然性」という性質に対して、それと対立する「偶然性」という性質があれば、そこには法則性がないと判断できるかといえば、そこには「確率法則」という法則性を見つけられるとも考えられる。

確実にこのようなことが起こる、ということは一つの法則性として容易に捉えられるが、そのようなものはなく、絶対的に偶然であるということも「絶対的」という点では一つの法則性として捉えられる。10本のくじの中に当たりが3本あるとき、これが、誰かに絶対に当たるという法則性はない。しかし、どの人にも等しく3/10という確率で当たるという法則性はある。偶然性というのは必然性と対立する概念ではあるが、そこから「法則性がない」という判断は出来ない。

偶然性の中にも法則性があるとすれば、法則性はあらゆるところに見つけることが出来て、ことさらそれを主張するほどのことではないのではないかとも思える。しかし、法則性が存在しない対象というものもよく考えれば見つかる。だから、法則性の考察をするには、その対象の特徴をつかんで、法則性が存在する対象のみを考察の対象にしなければならない。

小室氏が判断の基準にしているのは、その対象が、人間の意志の自由によって恣意的に操作できるものになっているかどうかということだ。恣意的に自由にできるものであれば、そこには法則性はないと判断する。しかし法則性が存在すれば、それは人間が自由にどうにでもできるというわけにはいかない。どれほどある方向に行って欲しいと望んでも、どの方向に行くかが法則性によって決定される時は、人間の願いは裏切られる。恣意的に自由にできるかどうかに、法則性の存在の判断の基準を置いていると考えられる。

この基準で「市場」というものを見ると、それはどれほどこのようになって欲しいと人間が働きかけても、その願いを裏切って市場が展開するということが、現象論的にいくらでも観察することができる。「市場」は人間の自由になる対象ではない。だからそこには法則性があるのだという判断をするというのが小室氏が語る法則性だ。

人間の意志の自由にならないものとしては、意志から独立に存在すると考えられている客観的な物質的存在というものがある。これを対象にするのは自然科学と呼ばれるもので、この対象に法則性があると考えられるのは、それが人間にとって、恣意的に自由に操作できないということから判断される。恣意的ではなく、ある法則性に従って操作しなければ役立てることが出来ない。恣意的な自由ではなく、ヘーゲル的な意味での自由の獲得に法則性というものが関わってくる。

自然科学の対象は、意志から独立していることが現象からはっきりしているので法則性の認識も持ちやすい。しかし、人間の行為が関わってくる対象では、人間の恣意的な意志が現象を左右するような感じも受ける。意志から完全に独立しているわけではない社会的な現象が、なぜ人間の意志の自由にならずに法則性の存在が主張されるのか。そこに「疎外」という考え方の重要性を小室氏は指摘する。

対象に対する実践的な影響が、完全に個人的なものであれば、それは恣意的な自由の下に操作できるものになる。例えば、ある芸術作品に感動するかどうかは、まったく恣意的に自分の心の従うままに、感動したと思えれば感動するし、そうでなければ感動しないというふうに、どちらを選ぶのも自由だ。個人という個体の振舞いに関しては、どのように振舞うか結果を見なければ分からない。その意味で個人の振舞いに関しては法則性を立てることが出来ない。常に同じ振舞いをする習慣を持っている人間であっても、その習慣を破る意志を持って、実際に習慣に反する行為を行う自由をもっている。だから、習慣という、法則性に似たような現象も、個人の行為というものにおいては法則性として認識することが出来ない。それは予測が確定しないという意味で法則性にならないのだ。

個人的行為に関しては恣意性を入れる余地がある。しかし、この個人が大量に集まったときに、その集団的な現れ方は、個人の恣意的な自由では集団的な動きを思い通りには出来ないことがある。ここに「疎外」というものを見る視点が存在し、「疎外」として個人の意志とは独立して動くように見える社会現象は、意志の自由にならないという点で法則性が認識される。

小室氏が語る「市場には法則がある」というときの「市場」は、多くの人が集う集団的なもので、個人の振舞いには法則性を見つけられないものの、集団として個人の自由にならない面を持っていることから、その側面に法則性を見つけることが出来る。一定量の集団が法則性を持つということは一つの「確率法則」として捉えることも出来るだろう。それぞれの個人が恣意的に振舞っていても、それが一定量の集団になると、集団としてはある法則的な動きをするという認識だ。

小室氏に寄れば、日本の経済官僚は「市場には法則がある」ということを理解していないために、さまざまな政治的な規制をして、市場をコントロールすることが出来ると考えているように見えるらしい。しかし、このコントロールは、法則性を理解して、それに従ったものではないので、たいていは願いを裏切られる。

法則性の認識を高めるには、現象論的段階の情報をたくさん集めて、まずはそこを徹底させなければならないのだが、規制をかけて市場をコントロールしようとすれば、ある条件の下での市場の情報しか得られない。これは、市場一般の法則性を求める現象論としては不十分である。実体論的段階に発展するような現象論的段階を通ることは出来ないであろう。

市場の現象論的段階を通り抜けるには、ある程度の自由を認めて、市場の現象を出来るだけ多様な側面から集める必要があるだろう。市場の法則性を確立するには、市場に集う個人が自由にふるまうということも重要になる。資本主義が自由主義と呼ばれる所以もこのようなところにあるのだろう。また、日本経済が社会主義的だと言われてきたのも、市場をコントロールできると考えて、国家権力がそれを規制してきたからではないかと思われる。

日本経済は、高度経済成長を見せて一時期成功した時代があった。これは、ある種のコントロールがたまたま法則性に一致して利益をもたらしたと解釈したほうがいいのではないかと感じる。その後の衰退を見ると、たまたま法則性を捉えた日本経済のコントロールは、条件が変わってしまったために、法則性に反した方向へ行っているようにも見える。これを深く分析すれば、もしかしたら経済法則の一つが解明できるかもしれない。

実践的な有効性というのは、経験と勘でかなりうまくいく場合がある。それは、法則性の認識がまだ弱い時は、たまたま自分が取った方向が法則性と一致していたということで成功をもたらすことになるのだろう。個別的な行動においては、それが成功するかどうかは偶然性に左右されることが多い。

うまくいったときというのは、それがなぜうまくいったかということを完全に説明することは難しい。どの要素が最も重要かという解釈はどのようにも出来てしまう。うまくいっている時は、その法則性は迷信のようなものでも信じられてしまうだろう。たまたま家を出るとき右足から出たときにいつもヒットが出ていたという野球選手は、右足から家を出るとヒットが出るという法則性を信じてそうするかもしれない。これは、実体としては何の関係もないものを結び付けているので、おそらく間違った法則性だが、成功しているときはその法則性が信じられる。

しかし、その法則性で失敗をしたときには、法則性の認識としては一つ進歩していく。なぜ失敗したのかという考察のほうが、法則性をもたらす要素に対して正しい評価が出来るようになる。小室氏が「失敗学」というものを重要なものとして指摘するのは、法則性の認識は、成功した経験よりも失敗した経験のほうから深いものが生まれるという理解からそう主張しているのではないかと思う。

小室氏は、市場の法則性として「淘汰」というものを語っているが、それに伴って「失業」や「倒産」の必然性についても語っている。「失業」や「倒産」は、結果的には個人にとって悲惨なものをもたらすので、それがないように工夫しようという発想が生まれる。しかし、「淘汰」というものを法則性として捉えると、「失業」や「倒産」によって淘汰の法則性を変えようとすれば、市場の法則性に反した行為になる恐れがある。

「失業」や「倒産」は、その結果として起こる悲惨さを防ぐような工夫が必要なのであって、それが起こることそのものをコントロールしようとすれば、市場そのものの健全さが失われる。これは、法則性というものを認識していなければ出来ない判断だろう。短絡的な理解では、「失業」や「倒産」は、資本主義の下では「しょうがない」という判断のように聞こえる。失業者や倒産した企業は見捨てられるような言い方に聞こえるかもしれない。しかし、それはある程度想定済みで、その結果に対してセーフティネットを構築するということで市場に対していなければならないのではないかと思う。「失業」や「倒産」は悲惨だから、そのものをなくしてしまおうと考えるのは、法則性そのものの判断からは間違いなのではないかとも感じる。

悲惨だからないほうがいいと考えるのは、法則性の判断と言うよりも、恣意的な願いからくるものだと言える。法則性が存在する対象においては、このような願いという主観を優先させた判断は間違いに結びつくのではないかと思う。悲惨であっても、その存在が法則性から導かれるものは、存在は「しょうがない」ものとして受け止めなければならない。そして、対処すべきは、その悲惨さが現れたときに、結果的にどうするかということだ。それが生じないようにする工夫は、法則性に裏切られて、さらに大きな悲惨をもたらすことになるのではないかと思う。法則性が存在する対象が、結果的にもたらす悲惨さというものを、法則性という観点から考えてみたいものだと思う。
by ksyuumei | 2007-09-06 09:54 | 論理


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