権力は悪か?

僕は以前には左翼だと思われていたので、権力に対しては悪だと決め付けているのではないかと思われていたふしがある。いわゆる左翼にはそういうイメージがあるのだろう。しかし、僕は左翼的なものとのかかわりはあるが、それと深くコミットしたことはない。組合は左翼といえば左翼だが、僕はその活動からはいつも一歩引いて眺めるような人間だった。

左翼的な活動は、社会主義国家がそうであったように、全体主義の匂いを感じるのである種の生理的な嫌悪感があったからだ。その活動を正しいと思っている人間は、他人がどう感じようとその活動を押し付けるのが正しいというような雰囲気を感じていた。状況によっては、その判断が必ずしも正しいと思えないようなことであっても、個人のそのような判断を認めず、組織が決定したことには無条件に従うことを求めてくるのは、体制的な組織よりもずっと強い押し付けがあって、全体主義的な傾向が強いと思ったものだ。これは、正義を実現しているという自信からくるもので、その自信が、論証抜きの形而上学になっているところが、一歩引いて眺めたくなる要因だった。

この左翼にとって「権力は悪だ」という命題はほとんど自明だともいえるものではないかと思う。これは、左翼にとって権力は常に弾圧するものとして登場してくるからだ。左翼を大切にして仲良くしてくれる権力というのは形容矛盾になってしまうだろう。左翼という立場にいれば、権力は常に損害を与える存在であり、損害を与える相手を「悪」と呼ぶなら、権力は常に悪であることは確かだろう。




左翼にとって権力は悪だということは例外のない常に正しい判断になる。これはある種の法則性のように見えるのだが、三段階論で考察できるような法則性ではないように僕は感じる。「悪」という概念には客観性がないと思うからだ。左翼にとってという一つの視点・立場から見れば常に悪かもしれないが、その視点をずらして他の視点から権力を眺めると、その「悪」という判断が必ずしも成り立たなくなる。

例えば警察権力というものを考えると、左翼でない人間にとっては警察というのは、犯罪に巻き込まれたときに助けてくれる存在として現れるのが普通だ。決して日常的に弾圧する存在として現れたりはしない。これをもっと深く考察すれば、その本質は「悪」なのだという判断があるかもしれないが、現象論的には必ずしも「悪」ではないという現象はいくらでも見つけることが出来る。

この現象を例外として処理することは難しいだろう。むしろ損害を与える「悪」として権力が対峙するという方が例外的なものになるのではないだろうか。左翼にとっては一般的だった、弾圧するものとしての権力は、一般民衆にとっては必ずしも弾圧する主体ではない。

そもそも「悪」という判断は、その判断をする主体のほうに判断の要因があるもので、対象にそのような属性があるのではない。権力が「悪」という属性を持っているのではなく、権力に対峙する立場や状況が、それをどう受け止めるかという判断をする主体に、「悪」であるかどうかということを感じさせるものだ。だから、当然個体が違えば、その判断が違ったものになる可能性がある。立場が違えば視点が違うので、「悪である」という判断と「悪でない」という矛盾した判断が、二つとも成立するという弁証法的な性質を見つけることが出来る。同じ個体がこの二つの判断をすれば形式論理的な矛盾になるが、違う個体の判断であれば、これは形式論理的には矛盾せず両立する。

「悪」という判断は客観的なものではなく、主観的なものであるから、客観的法則性の発展段階を語る三段階論の考察の対象にはならない。それは主観としては、どう感じようとその人の自由だということになる。思想・信条の自由の部類に入るものだろう。

左翼的立場というのは、運動という観点では非常に重要なものだと思う。運動というのは、損害を受けているという当事者が立ち上がって主張しない限り、当事者でない人・すなわち直接的な損害を受けていない人は、わざわざその損害の回復を訴えるということはしないだろう。左翼的立場は、ある種の損害が社会の中に存在するということを知らない人々に、それがあることを知らせるという運動を起こすという点で重要なものだと思う。

だが、これは客観的真理を語る立場ではないということを自覚しなければならないだろう。それは、あくまでも自分がよって立つ立場からの主張であって、誰もがそれに賛成するような客観的な真理を語るものではない。左翼的立場は、一般通念に対するカウンターとしての意味はあるが、それがそのまま真理だと思い込めば、それは形而上学的になるだろう。

萱野稔人さんは、「権力は悪だ」という立場からの判断をする前に、権力そのものがどんなものであるかという客観的な対象としての属性を考えることがまず必要ではないか、とマル激で語っていたように記憶している。萱野さんも左翼だと言われているそうだが、これは左翼としては画期的な発言ではないかと思う。自分たちの立場をとりあえず括弧の中に入れて、より普遍的な判断のほうをまず求めようという姿勢だ。

このような姿勢を少しでも見せようとすると、かつての左翼陣営では「敗北主義」などと呼ばれたのではないかと思う。しかし、今の時代は、かつて左翼全盛だった時代ほど、人々の立場は単純な二項対立に還元されるものではなくなった。自分たちの立場を押し付けるだけでは、運動の支持そのものがもはや伸びなくなってきているともいえるのではないかと思う。同じ立場に立つものは共感するけれども、そうでない人間にとってはまったく無関係なものとして運動が見えてきてしまうだろう。

このような時代は、単純でわかりやすい主張がポピュリズムを獲得すると、運動などまるで無関係に人々はそちらのほうへ流れる。小泉劇場と呼ばれた一連の政治的な現象はそのようなものを表しているだろう。左翼的な運動が衰退したのは、多様性を帯びてきた社会のさまざまな立場を受け止めることが出来ず、旧態依然的な全体主義で運動を強引に推し進めようとしたことを変えられなかったことにあるのではないかと思う。

「権力は悪だ」という命題は、客観的判断にならないので三段階論的な発展をしない。これは、現象論的段階を徹底させて、「権力は悪ではない」という現象をたくさん集めて深く検討することで、これを先入観として判断するという形而上学を免れることが出来るだろう。三段階論は、その法則性が発展をしないということも教えてくれるのではないかと思う。三段階論が発展の方向を示唆するような法則性は、あくまでも客観的な法則性で、対象そのものの属性として考察することの出来るものでなければならないだろう。自分の感性による判断から導かれる法則性は、現象論的段階で否定され、実体論的段階への発展はないに違いない。

「権力は腐敗する」という命題もよく聞くものだ。これは「腐敗する」という判断が、主観に依存する判断になるかどうかで、客観的法則性として成立するかどうかが決まってくる。腐敗すると感じたから腐敗する、という判断をしていればそれは客観的法則性にならない。腐敗するという状態が、誰が判断しても同じ・つまり肯定判断も否定判断も、個人の感性に寄らずに判断できるような定義が出来れば客観性を獲得する。

今の自民党政権を見ていると、閣僚の不祥事があまりにも続くので、その腐敗ぶりは自明のように見えるのだが、この「腐敗」は客観的に定義できるものになるだろうか。お金の問題にしろ、選挙違反の問題にしろ、共通するのはある種の不正を働いたということだ。この不正は、個人的に自分がそう感じたから不正だというよりも、やはり客観的に不正であることに誰もが賛成するということが言えそうだ。

この不正は、公と私の混同というものになるのではないだろうか。権力を行使する立場にいるものは、現代民主主義社会では公の立場に立つ者たちだ。かつての封建主義社会であれば、そんなものを考えることなく、恣意的に権力を振るうことが出来ただろうが、現代民主主義社会ではそういうわけにはいかない。

公の立場と私の立場とを区別する基準を立て、私の立場の利益のために公の立場を利用するということが不正ということの定義になれば、公と私の立場の区別いかんが客観的に出来るかどうかが、不正という判断の客観性を支えることになるだろう。そして、この客観性が成立するようなら、「権力は腐敗する」という命題が、法則性として成立するかどうかが三段階論的に考察できることになる。

権力は、そのシステムの中に、腐敗を育てるような実体を含んでいれば、この命題を実体論的に考察することも出来る。とりあえずは、現象論的に見ると、どんなに優れているように見える人物でも、権力の座に長くいると必ず腐敗が見られるように現象を整理できるのではないかと思う。スターリンや毛沢東も、革命の初期にはその優秀性が誰にも認められていたのではないだろうか。しかし、晩年にはその腐敗ぶりが語られていたようにも感じる。

板倉さんが語っていたことだと思うが、社会主義国の腐敗の象徴のように言われたルーマニアのチャウシェスクという人も、権力の座についた最初はおそらく有能な人だったのだろうと思う。その有能な人が腐敗していくのは、有能ゆえに権力に座について、その権力が周りの人間の追従を招くというふうに、板倉さんは解釈したように記憶している。本人がよほど厳しく自分を律しておかなければ、周りが、権力の座にいる人間にいろいろな利益を持っていくように働きかけてしまうということだ。この利益が、公の立場を離れたものになれば腐敗が始まる。

封建主義の時代である江戸時代には高い役職にいる人間が賄賂を取ることは普通のことで、むしろ役得は正規の収入の一つのように考えられていたという話を聞いたことがある。権力が上の立場にあると、下の立場の人間が、自分の利益のために権力者に利益を提供するというのは、システム的に必然的に発生してしまう要素があるのかもしれない。この場合、実体としてその運動をまわしているものは何になるだろうか。

教育の世界でも、出世あるいは何らかの利益のために、権力のある側に付け届けをするという習慣はかなりあったようだ。このような習慣は、個人が主観的にそれが大事だと思って行動しているだけなのか、それとも個人ではばかばかしいと思いながらも、そうせざるを得ない何かの力によって行われているのか。何かの力がそうさせているなら、その何かが実体として立てられるものになるだろう。

「権力が悪だ」というのは客観的法則性としては成立しないように見えるが、「権力は腐敗する」というのは、客観的法則性として成立するように見える。「権力が悪だ」といって非難するのは、理論的にはあまり意味がないように見える。しかし、「権力が腐敗する」といって、腐敗の具体的実態を批判し、どうすればその腐敗が防げるかを考えるのは理論的に意味があるような感じがする。理論的ということを考える際には、三段階論的に展開できるかどうかを考えることがいいのではないかと思う。

今週のマル激では、マイケル・ムーアの「シッコ」という映画をめぐって、そのプロパガンダ性が議論されていた。この映画は、プロパガンダとしては意味があるだろうが、ドキュメンタリーというある意味での芸術性を考えると、それは低い評価にならざるを得ないという議論だった。これは、「権力は悪だ」といって非難することで、気分をすっきりさせるという溜飲を下げるという効果を評価するかということでもある。ドキュメンタリーとして評価するなら、「権力の腐敗」という普遍性の面を見させるような工夫が必要だということでもあるのかなと感じた。
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by ksyuumei | 2007-09-05 10:13 | 論理


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