商品の価値に関する法則

マルクスは、『資本論』冒頭の部分で商品の価値(=交換価値)を分析している。そこには

  1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄

という等式が書かれている。これは、板倉聖宣さんが語っていた等号(イコール)の弁証法性で解釈すると分かりやすい。等号というのは、形式論理で言うところの同値律(A=A)を表すのではなく、違うものであるが、ある視点からは同じとみなすことができるという<A=B>を表すものとして受け取るのが正しい。

違うものが同じだという弁証法性を理解することが等号の正しい理解になる。マルクスの等式では、使用価値としてはまったく違う、物質的存在としては違うものである小麦と鉄が、その価値の量(大きさ)においてイコールになるということを表している。ここで同じとみなされているものをマルクスは「価値」と呼んでいるといってもいいだろう。

ここで語られている法則性は、価格という形で現象が観察される商品に対し、「同じ価格の商品は同じ「価値(=交換価値)」を持っている」と言い表せるだろうか。それは、物質としては違うが、価値という尺度では同じものとみなすことができるという法則性になる。




この法則性は、「価値」という言葉が、価格とは独立に定義されている時は法則性として意味を持つ。しかし、同じ価格で表現されている、商品の属性をまさに「価値」と呼ぶというような定義をすると、「同じ価格を持った商品は同じ価値をもっている」という法則性は、同じ意味の言葉を繰り返しただけのトートロジー(同語反復)になってしまう。それは、論理法則ではあるが、現実の具体的存在に関する科学法則ではなくなる。

法則性の理解をするとき、言葉の定義は非常に重要なものになる。その法則性が論理法則になってしまうと、それは三段階論として理解することが出来なくなる。論理法則には現象論的段階も実体論的段階もない。形式論理が提出する基本法則から推論という手順を経て生成されるものであれば、それは正しいものと判断される。論理法則においては、本質論的段階しかないと言ってもいいのかもしれない。トートロジーは、もっとも基本的な論理法則なので、推論を経ずともその正しさは保証される。

さて、マルクスは、価格によって表現されるこの商品の価値に対して次のように語っている。


「交換価値は、さしあたり、ある種類の使用価値が、他の種類の使用価値と交換されるところの、量的関係すなわち比率――時および所とともに絶えず変動する関係――として現象する。だから交換価値は、何か偶然的で純粋に相対的なもののように見え、かくして、商品に内的な・内在的な・交換価値なるものは、形容矛盾のように見える。」


交換価値は、他の商品との相対的な関係から決定されるもので、商品の個体に内在するものとして捉えられていないという指摘だ。しかしこのすぐ後で、マルクスは商品に内在する固有の属性として、その商品に注ぎ込まれた抽象的・人間的労働という実体的なものを想定する。この労働の量が、商品の価値を決定するという法則性を提出する。

商品に注ぎ込まれた労働の量が多ければ、商品としての価値・すなわち交換価値が大きくなるという法則性は、「価値」と「労働」という、まったく独立に定義できる二つの概念が結びつく法則性になるので、これはトートロジーにならずに、現実を対象にした科学的な法則としてその法則性を考えることが出来るだろう。抽象的・人間的労働という実体は、抽象化されたものであることを自ら語っている。これは、三段階論で言う実体論的段階の法則を考察することになるのではないだろうか。

高い価値をもった商品を観察すると、それは質の高い労働が多量に注ぎ込まれた結果であることが多いのではないかと思う。簡単にすぐ出来るような商品は安くなるように見える。職人が長い間腕を磨いて作り上げたものは、大量生産できる、簡単な単純労働で作り出したものよりも高い。

しかし、この法則の現象論的段階を考えてみると、この法則に反するように見える現象もあるのではないかと思う。ある種の商品は、信じられないくらい高かったり、信じられないくらい安かったりする。これらは、この法則性には反するように見える。注ぎ込まれた労働の量が少ないのに高い商品になったり、膨大な量の労働が注ぎ込まれているのに、それに見合った価格を持たない商品もある。これらは、例外的な現象として捨象することができるだろうか。これが捨象できなければ、マルクスが語るような法則性を、実体論的段階に進めることが出来なくなる。現象論的段階において、その段階を進めるための捨象ができなければ、その法則性はいつまでも現象論的段階にとどまる。

注ぎ込まれた労働の量以上の価格がつくというもので頭に浮かんでくるのは、ある種のマニアを対象にした商品だ。切符マニアは、その番号に特殊性があれば、それぞれが同じ労働の生産物である切符でも、特定の切符の価値が高くなる。注ぎ込まれた労働の量は同じであるのにそのような現象が見られる。

これは、一般化すると、特定の需要に応えるような商品は、それを手に入れたいと望む気持ちが強い人間にはいくらでも高い価格で売れるということになるだろうか。ダイエット食品などは、原価よりもかなり高い価格で取引される場合があるという。特効薬的な薬も、それを必要としている人間は、価格に関わらず手に入れたいと思うだろう。

これらの特質は、一般的な「価値」を考える際には捨象できるものだと思う。法則性を考察する対象の「価値」とは、特殊な事情にある商品ではなく、社会に普通に流通している、ありふれた商品の価値を問題にする。特定の需要に応えるような商品は、普通にありふれたものではないので、それは例外的なものとして捨てることが出来るだろう。法則性にとっては誤差として処理できる。

もう一つ、注ぎ込まれた労働の量に見合わないほど低い価格で取引される商品については、この法則性はどう解釈したらいいだろうか。例えば、今は衣料品はほとんどが中国製が日本へ入ってきている。それは、中国製のほうが価格が安いからだ。交換価値が、日本で生産したものよりも低くなる。

それでは、この衣料品に注ぎ込まれた労働の量は、日本製のほうが質・量ともに大きいもので、中国製を上回っているのだろうか。かつては日本製のほうが、確かに製品としての価値が高いと判断されただろうが、今では遜色ないくらい、同じレベルの商品が中国からやってきているのではないだろうか。それでも価格が低くなるというのは、この法則性の例外的なものとして解釈することが出来るだろうか。

これは、商品の価値を決定する労働というものが、抽象的・人間的労働だという点に解釈の余地を求めることが出来るのではないかと思う。具体的な労働としてみれば、中国製を作る労働も、日本製を作る労働も、質・量ともにそれほど変わりがなくなっただろうと思う。しかし、これが抽象化された人間労働になると、労働そのもののその社会における価値というものが、注ぎ込まれた労働が作り出す価値に関係してくるのではないだろうか。

つまり、中国と日本では、労働の具体相は同じでも、その労働そのものの価値(これは労働者の価値=価格・値段と言ってもいいかもしれない)が違うと考えられるのではないだろうか。現象的には、中国と日本では、同じ仕事をしていても賃金が違うということだ。日本のほうが労働そのものの値段が高いので、それが注ぎ込まれた商品の値段も高くなると考えられる。

このように解釈すると、労働賃金の低い国で生産したほうが、同じ商品であっても価格を低くすることができるという現象を、この法則がうまく説明できているように感じる。現象論的段階のさまざまな観察を、このように例外的だと思えるようなものの例外性を説明できるなら、実体論的段階で立てられた法則性は、現象論的段階を越えて一段高い法則性の認識になるのではないかと思う。

この他、現象論的段階の観察で、この法則に合わないようなものが見つかれば、その時はまたこのようにその現象が例外として処理できるかどうかを考えることになる。例外として処理できれば、それは捨象できるものになり、実体論的段階の法則性は抽象度を高めてますます確実なものになっていくだろう。そして、その抽象度が最高のレベルに達したとき、「すべて」を対象にした法則性が得られ、それが本質論的段階へ進むのではないかと思う。

商品に注ぎ込まれた労働の量が商品の価値を決定するという法則性は、現象論的段階を超えて確立できるものだと思われる。だが、この労働を、具体的な・実際に行われている労働だと解釈すると現象論的段階に戻ってしまう。この労働は、抽象的・人間的労働という、現実の世界には存在しないけれど、理論を進める上でフィクショナルに設定したものとして実体的な把握の対象になると考えたほうがいいと思う。

ここで言われている「抽象的」という言葉の意味は、時間だけに還元される・量的な側面のみを抽象したという意味ではないかと思う。具体的に、どのような商品を作るかという、具体相を考察に入れるとそれは抽象的労働にならない。具体層は捨象されて、どのくらいの時間を注ぎ込んだかという、時間だけが問題にされる。多くの時間を注ぎ込んでいればそれは価値が高くなるというわけだ。

また、「人間的」という言葉の意味は、個人とかかわりがあるという意味での「人間的」ではないと思う。むしろ、人間は社会を作って生きているので、「社会的」という意味での「人間的」ではないかと思われる。特定の個人の技量を考察に入れた労働ではなく、社会の平均的な労働者がこなすことの出来る労働という意味で、社会が大きく関わってくるのではないかと思う。

だから、実際にはある量の労働を注ぎ込んだにもかかわらず、それが社会的な意味での労働の価値を失っていれば、ひどいときには商品の価値が0(ゼロ)になってしまう、ということも起こるのではないかと思う。そのような現象も、この法則性の例外的な現れとして考察できるのではないかと思う。

この出発点の法則性が、資本主義の重要な法則性である、「失業」「倒産」「恐慌」などというものと、どのように複雑に絡み合って構造が認識できるかということが、資本主義を分析した『資本論』の理解につながるのではないかと思う。

小室直樹さんの資本主義論では、「失業」や「倒産」は、資本主義の健全な法則性として捉えられていた。これを悪いものとして無理やりなくそうとすると、かえって資本主義の健全性を破壊するものとして、法則性を無理やり動かそうとするものになるという指摘があった。マルクスは、共産主義的な発想で、これらをコントロールしてなくそうとしたように見えるが、小室さんは、コントロールすることはできないし、そんなことをするとかえって資本主義の健全性を失うと考えているようだ。いずれにしても、「失業」や「倒産」といったものは、資本主義に必然的に伴うものとして捉えられているようだ。これらが、基本的な法則性とどのように絡み合って、その必然性を語っているのか、三段階論的な観点で理解できるかどうかを考えてみようかと思う。
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by ksyuumei | 2007-09-02 22:54 | 論理


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