法則性の認識の段階を考える

法則性は言葉で表現しただけでは、それがどの段階にあるかは分からない。認識の段階として、どのように理解していれば三段階論におけるどの段階に相当するのかという問題を考えてみようかと思う。題材としては、宮台真司氏の社会学入門講座から拾ってみようかと思う。

まずは、その「連載第一回:「社会」とは何か」の中に書かれている法則性を考えてみようと思う。ここには、


「マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすものだと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。」


という記述が見られる。ここで語られている法則性は、宮台氏自身の認識としての法則性ではなく、マルクス主義が捉えた法則性を語っているのだが、これがどの段階として理解できるかを考えてみようと思う。




まず「恐慌を含めた社会の不透明な暴走」というものの現象論的な現れ方を考えると、その現象を観察できるときにいつでも「市場の無政府性」が観察できるという現象論的データがあった場合、それは現象論的段階の仮説として、その原因は「市場の無政府性」だという法則性を捉えることが出来るだろう。

この帰納的に得られた法則性は、必然性として認識できるのは時間的な過程がつながっているということだけだ。経験として、常にそれが見出されるということのみが現象論的段階では理解できることに過ぎない。ある種の現象を観察したとき、いつでもそれに伴って見出されるものがあった場合、現象論的にはそれが原因だという仮説を立てることが出来る。これは、内的な必然性ではなく、常に見出されるという偶然性が根拠になっているものとして理解されるので「現象論的段階」と呼ばれるのだと思う。

これは、以前にマル激で議論された狂牛病に関する議論で、プリオンというものが本当の原因なのかという問題に通じるようなもののように感じる。プリオンは、狂牛病にかかった牛からは常に見出されるそうだ。だから、現象論的には、プリオンが狂牛病の原因だという仮説を立てることは出来る。しかし、このプリオンという実体が、狂牛病という病気を引き起こす原因を持っているという属性に関してはいまだに証明がされていないようだ。だから、プリオン説というのは、三段階論で言えば、まだ現象論的段階にとどまっているといってもいいのではないかと思われる。

さて、マルクス主義の「市場の無政府性」という法則性は、現象論的段階を越えているだろうか。これは、市場という実体的存在が、コントロールを失った無政府状態にあった場合、恐慌をはじめとする何らかの問題を必ず引き起こすということが、論理的に展開できるかどうかにかかっているような気がする。論理的に展開できるということが、単に時間的な経過として常に観察できるという現象を越えるものになっているのではないだろうか。

市場にある種の秩序があれば、無政府状態とは呼ばれないが、この秩序というのは無制限の自由を認めるのではなく、犯してはならない原則を守るという意味での秩序ではないかと思われる。もし原則を認めず、完全な自由の元に市場参加者が恣意的にふるまうことが許されていれば、そこに何らかの問題が引き起こされるのは論理的に必然性を持っているのではないかと思う。完全な自由の元に選ばれる行為に関しては、それが論理的に矛盾しているかどうかは判定されないと思うからだ。

「市場の無政府性」が完全な自由という意味であれば、論理的にはこの法則性は成立するのではないかと思われる。だから、その意味では現象論的段階を越えて実体論的段階には達しているように思われる。しかし、その理解をしようとする学習者が、論理的な理解に進まずに、現実の現象を見ただけで、「市場の無政府性」がやはり問題だと短絡的に理解するなら、これは法則性が実体論的段階にあったものとして記述されていても、その理解は現象論的段階にとどまるのではないかと思われる。経験主義的に法則性を理解しようとすれば、それはすべて現象論的段階の理解にとどまるのだろうと思う。

この「市場の無政府性」という法則性を、完全な自由な状態の無秩序という理解をすると、もう一つ別の問題も起こってくる。この理解で現象を見直してみると、現象論的には「完全に自由な市場」というのは見つからないからだ。どんなに発達した資本主義国であろうとも、無制限の自由を持っている国家は経験的には存在しない。そうすると、この法則性は、論理の範囲では正当性を主張できるが、まったく現実には見つからないどこか空想的な抽象的な世界の話をしていることになってしまう。

現実の「市場の無政府性」というのは、市場のどの部分が無秩序になっている「無政府性」なのかということを考えて、もう一度現象を見直さなければならなくなってくるのではないかと思う。実体論的段階が現象論的段階に影響を与えて、また新たな現象論的段階の認識を求める必要があるのではないかと思われる。

ここからはあまり詳しいことは分からないのだが、大雑把に言うと、市場における「需要」と「供給」の無政府性というものが、マルクス主義で問題にされたものではないだろうか。資本主義の考えでは、これは自由に任せなければ、合理的に正しい水準に落ち着くという運動が壊れてしまうと考える。マルクス主義では、これこそがコントロールされなければ恐慌やインフレという問題が生じるという法則性が捉えられているのではないだろうか。

新たな現象論に対しては、「需要」と「供給」という実体が設定されて、この実体の属性として論理展開がされることにより実体論的段階へと発展していく。この実体論的段階では、資本主義的な考え方のほうが、産業の発展・物質的な豊かさという点では正しかったことが証明されたのではないかと思う。マルクス主義的な考え方で市場をコントロールした国は、すべて経済的には破綻してしまったという現象が見られるからだ。

さて、この「需要」と「供給」に関しては自由にすることが正しかったという結果が出ているような気もするのだが、ここでも「完全な自由」にはなっていないようにも感じる。ある種の公共財に関しては、自由競争によって発展させるよりも、その需要と供給をコントロールして、過不足がないように社会的に流通させるということが図られているようにも感じる。

市場のすべての部分をコントロールしようとするマルクス主義的な法則性は否定されたが、一部はコントロールされたほうが正しいという法則性は否定されていないようにも思える。そうすると、この視点でまた現象論的なデータを集めるということが行われる。そして、その上でまた新たな実体が導入されて、新たな実体論的段階が展開されることになる。法則的認識は、このように円環的に現象論的段階と実体論的段階を回るのではないだろうか。

人間の生存に関わる福祉的な部分では、自由競争に任せて、敗者は退場すればいい・すなわち死んでしまっても仕方がないという判断は出来ないのではないかと思う。このような部分では、何がコントロールされるべきかという法則性が問題になるだろう。マルクス主義的な発想も、すべてが否定されるのではなく、極論が否定されて一部が正しいものとして取り入れられていくというのが、理論の発展としては正しいのではないかと思う。

現象論の捉え方からある種の実体が導入されて実体論的段階で論理が問題にされる、ということがこの二つの段階で重要ではないかと思う。そして、この考察からは、現象の捉え方の別の視点が発見されて、再び現象論に戻って、新たな視点で現象を見ることによって新たな実体がまた導入されるという、この二つの段階の繰り返しがあると思う。そして、この繰り返しが十分に行われ徹底されて後にようやく、現象と実体をすべて包含するような、高度な抽象のレベルの対象に関する法則性として本質論的段階を迎えるのではないだろうか。

社会の秩序に関する本質論的段階は、今の僕にはまだ分からない。それが宮台氏が説明するシステム理論というものにあるのではないかという気はする。少なくとも、マルクス主義の捉え方は、本質論的段階に達することには失敗したのではないかということは言えるのではないかと思う。それは、マルクス主義を基礎にした社会主義国家の崩壊という現象が、そのような判断に結びつくのではないかと思う。

マルクス主義的な「市場の無政府性」という考え方は、一つの実体論的段階を提唱はしたが、その円環的な論理の発展によって本質論的段階に進むことは出来なかった。これは、実体論を徹底することなしに、現象論的段階の知識が不十分なままに本質論的段階の認識(理解)に一足飛びに行こうとして、形而上学的に、先入観として抱いている法則にしがみついてしまったのではないかとも感じる。

宮台氏のシステム理論に関しては、この社会学入門講座を見ながら、どの点で本質論的段階に達しているのかを考えてみようかと思う。システム理論は、現存する社会だけでなく、可能性として想定されている未知の社会に対しても成立するような法則性のようにも感じる。非常に抽象度が高い記述にそのようなイメージを感じる。もし、そのように対象に対する普遍性があるのならば、本質論的段階であるといえる可能性もあるのではないかと思う。

法則性を問題にしない、個別的な事実に対する判断であれば、現象論的段階にとどまっても害はない、あるいは問題はない場合もあるかもしれない。好き・嫌いという感情的・感性的判断でもかまわないという対象もあるだろう。だが、法則性が関わってくるような対象・問題に関しては、出来れば現象論的段階から実体論的段階へ、そして最後は本質論的段階の認識(理解)が出来るようにしたいものだと思う。

個別的な問題として朝青龍問題に関して言えば、当事者としては利害関係もあったりして、正しい解決を求めるなら本質論的段階の理解が必要だろう。しかし直接利害関係がない僕のような立場では、それほど深く考察することも必要ないだろうと思っている。勝手な放言でも、ある意味ではかまわない。しかし、放言することにもたいした意味はないので、まあ朝青龍が気の毒だなという感想を語る程度だろうか。反対に、朝青龍が嫌いだという人は、朝青龍の行動すべてが批判的に思えてくるだろうと思うが、それも利害関係のない僕には、まあどう思おうとその人の自由だという受け取り方だ。別にそれに反論したいという気も起こらない。

個別的ということでは、歴史的な事実に関しては、これが社会的に大きな意味を持つものであれば、利害関係に関係なく法則性を本質論的段階にまで高めて理解したいと思う。広島・長崎への原爆投下は、個別的な歴史的事実だが、久間発言に見られるようにその正当化をめぐる理論は、社会の法則性と密接な関連を持ったものだと思われる。このような問題に関しては、自分がその正当化の論理を気に入るか気に入らないかとは関係なく、法則性の認識として正しく理解したものだと思う。それは、三段階論という観点を使うと今よりもうまく出来るのではないかという気がしている。
[PR]
by ksyuumei | 2007-08-26 12:03 | 論理


<< 社会が持つ秩序を法則性として認識する 本質論的段階は、何故に「本質」... >>