本質論的段階は、何故に「本質」と呼ばれるのか

三段階論において現象論的段階で言われる「現象」や、実体論的段階で言われる「実体」というもののイメージは、多少の差異はあっても大筋では同じものであることが多いのではないだろうか。「現象」は、表に現れ・目に見えたそのままのものを記述すればいいのだという受け取り方が出来る。また、実体は現実の物質的存在を指すのだと理解できる。これは、理論の発展段階においては、仮説としてフィクショナルな実体という形を取ることもあるが、それを現実の物質的存在として扱うという点では、フィクショナルであっても同じである。

これに対し「本質」と呼ばれるものは、そのイメージがなかなか難しい。つかみ所がなく、人によってはそれを「本質」だと呼ぶことに異論が出てくる場合もあるのではないだろうか。「本質」というのは辞書的には、「物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿」というふうに説明されている。ある事柄を「本質」と呼ぶには、それが「根本的」なものであるという判断が伴うわけだ。それではその判断はどうやってなされるのか。

根本というのは、そのものが寄って立つ基盤であり根っこになっているものだ。それなしには、その事物は事物としての個性を失ってしまう。このような判断は、対象が何であっても簡単にはできないだろう。試みに、何かある対象を思い浮かべてその本質を考えてみても、なかなかぴったりする説明を見つけるのは難しいだろう。



特に対象が複雑になればなるほど、その本質が何であるかを見るのは難しい。国家の本質を暴力装置の機能による運動に見るという、萱野稔人さんの本質論は、それが本質であることを真に認識するのはかなり難しいことであるように思われる。本質論的段階が、確かに本質を語っているのだと認識できるためにはどのようなことが必要だろうか。

三段階論は、法則的認識を語るものであるから、この「本質」も、法則的認識としての本質に達したものと見ることが出来る。これは、現象とは違うものとして、現象の背後に隠れたものとして発見される本質なので、段階を経て発展していくものではないだろうか。もし、現象の背後に隠れていない、現象がそのまま本質を体現しているような単純な対象だったら、何も三段階の発展を経なくても、見たままのものをそのまま本質だと認識すればいいことになる。三段階論で言う「本質」は、現象の背後に隠れているからこそ三段階が必要なのだと思う。

また、この本質は実体論的段階とも違うものだということは、哲学的な意味で「実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの」という定義に対応するような「本質」ではないかと思われる。この「本質」は、個別的な現実存在の属性として認識されるようなものではないということだ。現実存在から抽象された、これまた哲学的な意味で「偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質」と言われるものになるだろう。

武谷三男さんは、ニュートン力学を運動の法則性の本質論的段階として説明している。運動というのは、運動そのものを表現することは出来ない。出来るのは、瞬間の姿の記述であり、現象論的には、ティコ・ブラーエの段階がそうであると指摘されているように、天体の位置情報と時間の情報の記述が、間接的な天体の運動の表現になる。いつどの場所にどの天体が存在していたかの記録だ。

これは、天体が運動しているというそのものの記述ではなく、このデータの集合体が天体の運動を連続的に想像させるときに運動として認識されるものになる。そして現象論的段階では、このデータの間に数学的な法則性が発見されるということになる。これは、偶然そう計算できるのか、必然的にそう計算できるのか分からないが、とにかくブラックボックスとしての関数の発見が出来る段階だ。

この現象論的段階では、ニュートン力学で登場してくる質量・加速度といったものは影をひそめている。位置情報は記述されているものの、それは孤立した数字として登場しているだけで、ちょうどパズルを解くときのように、法則性も偶然見つかるという感じになるだろうか。

これが実体論的段階になると、単なる数字の計算が合うだけでなく、運動の主体としての天体という現実存在が考察の方向性を決めてくる。観測の数字だけなら、何月何日の何時にどこの方向にある天体が観測されたということを考えるだけだが、それが実体として考えられると、周期的に見えるのは、それがある軌道のもとに回転運動をしているからだという考察が生まれてくる。そうすれば、その軌道がどのようになっているかも考察の対象になってくる。実体の導入によって、単なる計算の数字あわせから、その実体が従う法則性として法則性の認識が変わってくる。これが実体論的段階ではないかと思う。

この実体論的段階はまだ本質論的段階とは呼ばれていない。それは、この段階が、現象の背後までも解明していることになっていないからではないだろうか。実体は、いまだに現象を引きずって、現象に密着した法則性の認識になっているのではないだろうか。それは、天体の場合でいえば、天体という個性を持った具体的な対象の属性として、現象した観測の具体的な因果律を導くような法則性になっていて、本来の意味での普遍性に達していないのではないかと思われる。

ニュートン力学において、具体的な天体として捉えられた対象が、物質という普遍的な抽象的対象になり、すべての物質において成立する法則性が捉えられたと考えられるのではないだろうか。この物質は、もはや具体的な現実存在ではないので、「実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの」として捉えられるのではないだろうか。そして、ある物質が天体であるか、あるいはそのほかありふれたものであるかは偶然のことであるが、物質であれば必ず成立する法則性としてニュートン力学が理解されれば、「偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質」を捉えたともいえるのではないかと思う。

さらに、ニュートン力学では<F=mα>という、力が質量と加速度に比例しているという法則性が重要になってくることを考えると、これが現象の背後に隠れた本質を現していると見ることも出来る。加速度というのは、直感的には捉えにくい概念なので、現象として直接見ることが困難だと思う。そういう意味で、この本質は現象の背後に隠れているものではないかと思う。

力を物質に作用させるとその物質は運動を始める、すなわち動き始める。これは、速度0(ゼロ)の静止の状態から、ある速度を持った運動の状態になったのだから、力を与えることで加速度を生じたと理解しなければならないのだが、動いたという現象は、ある速度を持ったという受け取り方をするほうが易しいので、力を加えると速度が生じるというイメージになって、その速度を保つために力を加えつづけるというイメージが生まれてくる。力は、加速度よりも速度と結びついてイメージされやすい。

これを加速度との法則性として捉えたところがニュートン力学のすばらしさだというのを、板倉聖宣さんがよく話していた。この法則性を技術に応用したのが、名南製作所というところが作っていたベニヤ板を作る機械だったといっていた。

ベニヤ板を作る機械では、木を削るのにモーターの動力を金属製のベルトで伝えていたそうだが、機械の始動のときにこのベルトがよく切れたという。これは、始動のときに非常に大きな力がベルトにかかるからだった。それはニュートン力学の法則性によって捉えられる。

機械の始動の時は、ベルトはまだ動いていない速度0の状態から、いきなり速度が大きなトップ状態の運動になる。このときの加速度は非常に大きなものになるので、加速度に比例する力は当然のことながら大きなものになる。この力にベルトの強度が耐えられなければ、ベルトは切れてしまうということになる。

そこで名南製作所では、スピードがいきなりトップ状態になるのではなく、少しずつ加速度が加わるように徐々に速度を上げていくような工夫をしたらしい。それは連続的にスイッチを切り替えるようなメカニズムだったらしい。始動させてすぐにスイッチを切って、惰性で動いている間に次のスイッチで加速度を加えていく。そうすれば、小さい加速度を連続的に加えていくことになり、かかる力は小さなものに出来る。見事なニュートン力学の応用だと思う。

名南製作所では工場の壁に<F=mα>という文字が刻んであるらしい。これがすばらしいアイデアを生み出して会社が発展したからということだった。本質論的段階の法則性は、ニュートン力学の場合で言えば、「すべて」の物質的存在に対して成立するという普遍性を持っているので、その応用の豊かさをもたらしていると考えられる。「すべて」の対象に適用できる法則性ということが、また本質論的段階の特徴の一つではないかとも思われる。

なお、ここで「すべて」という言葉に括弧をつけたのは、この「すべて」はある種の限定された意味での「すべて」を指すだろうと思ったからだ。ニュートン力学でいえば、現象として記述できる「すべて」の物質的存在の運動に対しては成り立つ法則性という理解をしているからだ。ニュートン力学は、位置情報・質量・速度(運動量といってもいいかもしれない)というものが観測可能で、現象として捉えられるという条件のもとで語ることが出来る法則性だと思うからだ。この前提が成り立たなくなった対象においては、もはやニュートン力学は本質論的段階の法則性だとは言えなくなるのではないかと思う。

量子力学的な世界では、位置情報と運動量の両方を同時に決定することは出来ないという。不確定性原理というものが働く世界になる。このような世界では、この両方に基礎を持つニュートン力学では運動の記述が出来ない。ニュートン力学の本質論的側面において、この対象は「すべて」の中から除かなければならない。だから、「すべて」は括弧つきとして考えている。

ニュートン力学は、「すべて」として捉えている対象の範囲を限定した場合、その「すべて」の対象に対して本質論的段階を語る。しかし、この「すべて」の範囲が広がってしまうと、もはや「すべて」に通用する本質論的段階ではなくなる。このとき、ニュートン力学としては同じものであるのに、視点が変わったために、このニュートン力学は「現象論的段階」になってしまったと考えられるのではないだろうか。

極微の世界までも対象にしてしまえば、ニュートン力学が成立するのは、その極微という条件が影響を与えない、それが誤差として捨象できる範囲の現象を扱うものになってしまうのではないかと思われる。世界を捉える視点がより広くなると、本質論もそれに対応してより広く深いものになっていかなければならないのではないかと思う。

萱野さんの国家論や、宮台氏の権力論は、個別具体的な国家や権力だけでなく、「すべて」の国家や権力を対象にしてもなお成立する普遍性を持っているであろうか。それは、現実に存在する国家や権力だけでなく、想定しうるあらゆる国家・権力の姿に応じてもなお成立する法則性を語っているものでなければ本質論的段階とは呼べないのではないかと思う。そういう観点でも、両者の理論を考えてみたいものだと思う。
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by ksyuumei | 2007-08-25 13:10 | 論理


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