国家概念抽象の過程 5

萱野稔人さんは『国家とは何か』の中で、マックス・ウェーバーの次の言葉を引いて論理を展開している。


「国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」


この言葉は、「国家とは」という主題の対象を、「人間共同体である」という述部が受けるという形になっている。つまり、国家という対象の内容は、人間共同体というものであるということを語っている。この命題を論理的にどう受け取るかということは、けっこう難しいのではないかと感じる。上の命題を単純化して書けば

  国家とは 人間共同体である。

という、主語と述語だけの文章になる。この文章は、どのように読み取るかによってその内容が違ってくるのではないかと思う。読み取り方には次のような種類のものがあるのではないかと思う。



1 国家=人間共同体(両者は本質が重なる、同じものと見ることが出来る)
2 国家の属性の一つが「人間共同体」という側面である。
3 国家は、人間共同体と呼ばれるものの中の一つである(国家という対象は人間共同体という集合の中に含まれる)

国家という抽象度の高いもので考えるとちょっと分かりにくいので、りんごという実体についての表現を上の1から3の視点で考えてみると次のようになるだろうか。

1 りんごとは 「バラ科の落葉高木。また、その果実。葉は卵円形。4、5月ごろ、葉とともに白または淡紅色の5弁花を開き、のち球状の赤色などの実を結ぶ。甘酸っぱく白い食用部は、花托の発達したもの。ヨーロッパ中部から南東部の原産。日本には明治時代に欧米から紅玉・デリシャスなどの品種が導入され、青森・長野などで栽培。古くは、在来の和林檎などをさした」ものである。
2 りんごとは 「赤い」ものである。
3 りんごとは 「果物」である。

1のように、りんごと等号で結ばれるものを述部にする時は、かなり長い説明が必要になる。それは、りんごという特定の対象を限定するための説明が必要だからだ。りんご以外の対象がその説明の中に入ってきてしまえば、それは等号で結ぶことが出来なくなる。等号で結ぶためには、その説明がりんごだけに該当するということを説得的に証明しなければならない。

その意味では、1のように等号で結ばれる説明をしたい時は、原理的には

1 りんとごは 「りんご」のことである。

というようなトートロジーによる以外に論理的には方法がないのではないかと思う。同じ言葉を使わない、トートロジーではない言い方で等号的な表現をするには、そこで語られている属性以外は捨象されて、たとえ異なる面が見えようとも無視するということで論理的な正当性を保っているのではないかと思われる。

2は、りんごには「赤い」という属性があることを語っている内容で、これはりんごを観察することによって得られる。これは、その属性があることが肯定的に判断されればよいのであって、他に赤くないりんごがあっても、りんごと呼ばれる対象に赤いものがあればこの命題は正しい命題として理解される。この属性判断の時は、対象がりんごであるということがあらかじめ分かっていることが必要だ。りんごそのものがどんなものであるか分からない時は、この命題の真偽を決定することが出来ないので、そのような時はこの解釈の内容は、明確な意味を持たないと論理的には言えるだろう。

3のような判断の場合も、りんごが果物の一種であることを判定するには、りんごというものがあらかじめ知られていることに加えて、果物というものについても知っていなければならない。両者について知っているので、このような肯定判断が正しいことを主張できる。もし、りんごや果物についてそれが何であるかが分からなければ、この命題の意味もやはり論理的には意味を持たないものと理解するしかないだろうと思う。

さて、萱野さんが語るウェーバーの国家の定義については、どのような内容で受け取ればいいだろうか。萱野さんの文脈では、国家というものがどういうものであるかというのがそもそも問題にされている。国家というのは、はっきりとこういうものだというふうに共通理解されているのではなく、さまざまの側面を考えていきながら、その概念を構成していこうとしている。つまり、国家というものはまだ明確にどんなものであるかがつかまれていない。

その国家という対象に対して、それがある属性を持っているとか、何かの集合に含まれるという判断は出来ないだろう。りんごのように実体的につかまれている存在は、それを言葉で説明するのは難しいが、ある物質的存在を見て、それがりんごであるかどうかが判定できるなら、りんごを概念的につかんでいることは確かだ。だから、りんごという実体を見て、その属性を判断したり、より大きい種類という集合としての果物を考えることが出来る。この場合、果物という概念は抽象的なもので、実体としての果物そのものが名付けられてどこかにあるのではなく、種類としての把握の仕方が果物という概念を生み出すと考えられる。

国家は、実体に対してそう名付けられたものではなく、ある種の全体像という抽象的対象を呼んだものである。これは、実体そのものではないので、観測の結果として属性を判断するというよりも、まずは抽象概念として設定して、その抽象概念から、ある意味では天下り的に属性が導かれるという形に論理的にはなるのではないかと思われる。

従って、ウェーバーの言葉の理解としては、国家という、まだ概念が明確になっていないものを「人間共同体」とイコールのものとして、他の属性を捨象することで概念を作り上げようとしていると受け取ることが正しいのではないかと思う。ただ、「人間共同体」というだけでは、国家としての限定が出来ないので、どのような人間共同体かという説明が必要だ。それを国家に限定するために、「正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する」という説明を付け加えなければならないのだろう。この属性を持つからこそ、それが国家として限定されるというふうに論理的に受け取らなければならないのではないか。この属性は、現実の国家の観察から得られたものではなく、抽象的にそう設定して、概念としての国家をこのように定めるという宣言ではないかと思う。

理論展開の出発点となる言葉の定義においては、このような抽象概念の設定というものが必然的に伴うのではないかと思う。国家というものを論理的に考えて、何らかの理論展開をしようと思ったら、このようにまずは抽象概念をどうするかを宣言して、それに従って論理を展開していくことが必要ではないかと思われる。現実に存在する「国家らしきもの」を見て、そこに何らかの属性を発見して理論を修正していくような方法では、最初の時点での設定に何らかの「矛盾」が入り込んでいても、複雑化した展開になってしまえばそれに気づかなくなる。

そのようなことを考えさせる言葉としては、萱野さんの次の指摘が重要だと思われる。


「最後に、ウェーバーが国家を、暴力の独占を要求する「人間共同体」として定義している点についても注意が必要だろう。というのもそこから「国家とは人間共同体における政治機構である」というテーゼを導き出すことは出来ないからだ。」


政治というのは、宮台真司氏に寄れば「集合的意思決定、すなわち集団成員の全体を拘束する決定を導く機能のことです」(「社会学入門 連載第一回:「社会」とは何か」)ということになる。この「政治」の定義についても、国家の定義と同様に、概念的に明確化されていない、曖昧さの残る対象に対して、限定的に抽象して理論の出発点におくという問題が見られるが、とりあえず、このようなものとして「政治」を捉えれば、「人間共同体における政治機構」ということが、ウェーバーの定義からは論理的に導かれないということが萱野さんが主張することだ。

これはある意味では当然のことであって、ウェーバーの定義は、政治については何も語っていないのだから、論理的にそれが導かれないというのは当然のことであるように思う。しかし、表面的には政治が語られていなくても、どこか深いところでつながりあっていて政治とのつながりが見つかるかもしれない。特に、暴力による効果として命令を押し付けることができるということが導かれると、それが集合の意思決定に影響を与えるという政治的な側面を見せるかもしれない。

だが、国家が「人間共同体」であるからといって、その人間共同体の成員に対するという意味での「人間共同体における」という表現は、ウェーバーの定義からは必ずしも導かれることはない。なぜなら、暴力による脅しという政治的な影響は、同じ共同体の成員だけではなく、征服し支配した相手に対しても成り立つという指摘がなされているからだ。萱野さんは次のように書いている。


「これに対して、ウェーバーの定義からは、ある人間共同体が他の人間たちに対して暴力行使の独占を要求するという事態が導き出される。つまり、ある集団が他の人々に対して「我々が行使する暴力以外はすべて不当なものである」と要求するという事態を、その定義は決して排除しない。このとき、暴力の独占を要求する人間共同体(集団)と、それを要求される人々との関係は、必ずしも共同体的である必然性はない。例えば、ウェーバーの定義からすれば、ある人間共同体が別の共同体の人々を征服して、彼らに対し暴力行使の独占を実効的に要求する場合でも、国家は成立する。」


「人間共同体における」という限定は、肯定的にも否定的にも、どちらでもウェーバーの定義からは成立する。つまり、肯定的な判断は、ウェーバーの定義からは論理的に導くことは出来ないのだ。それは、定義とは独立した、別の前提から導かれることになる。しかし、このテーゼは正しいと信じられているようだ。それは、現実の国民国家という存在が、まさに共同体における政治機構として機能しているからだ。

現実の国民国家は、国家一般の姿ではなく、歴史的経過を通じて形成された特殊な存在である。しかし、我々にとっては日常のごくありふれた存在であるがゆえに、それが普遍性を持つ一般的な存在のように映る。この特殊性を無批判に一般性と考えると間違えるだろう。それが本当に一般性を持つものかどうか、深い吟味が必要だと思われる。

この特殊性を一般性と思い込むことは、一見アプリオリな前提を置いているように見えて、アプリオリズム的な間違いにも見えるが、これはやはり特殊性と普遍性の混同という誤謬として捉えたほうがいいだろうとおもう。アプリオリズムというのは、肯定も否定も出来ない前提のどちらかを、無批判に前提してしまうものをさしたほうがいいのではないかと思う。具体的な特殊性と普遍性は、肯定できるか否定できるかの判断ができそうに思う。そういうものは、アプリオリズムとして考えないほうがいいのではないかと僕は感じる。
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by ksyuumei | 2007-08-01 10:54 | 論理


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