南京大虐殺否定論として語られている言説に対して、今まで僕はあまり関心を引かれなかった。それは事実をめぐる否定論のように感じたからだ。事実というのは、石ころの存在すら主張するのは難しいと哲学で言われるように、それは100%確かだというのは難しい。常に反対を語りうるという、水掛け論の可能性をもっているのが事実をめぐる主張だ。
「あった」か「なかった」かという事実そのものをめぐる肯定論・否定論は形式論理的に見てもあまり面白いものではないと感じる。いくつかの条件を恣意的に選んでしまえば、「あった」という判断を捨象することができて(「あった」という判断に結びつくような事実はすべて誤差として排除する)、「なかった」という結論に結びつけることができるような論理展開ができる。他の前提を選びなおせば、逆に「なかった」という判断に結びつくような条件を捨てて、「あった」という判断を論理的に導くことが出来る。 南京大虐殺と呼ばれる事象に関して、事実として「あった」ことが確認できるのは、おそらく価値判断抜きに客観的に確定できることに限られるだろう。記録された南京市の人口だとか、南京攻略戦という戦闘終了後に埋葬された人の記録から得られる数字のようなものだ。これらの客観的数字は、事実としての信頼性を検討することが出来る。だが、これは「虐殺」そのものを語るものではないから、ここから「虐殺」を語るなら、「虐殺」というものの捉え方を語らなければならない。 南京大虐殺と呼ばれる現象は、事実をめぐる論争として捉えるのではなく、「虐殺」という概念の問題として捉えないと、肯定論も否定論も「論」としては成立しないのではないかと僕は思う。南京市の人口が何人であったかをいかに精密に推定しても、それが「虐殺」の証明になることはない。埋葬数に対しても同様だ。問題は、「虐殺」をどう捉えているかという概念の問題になる。 中国が主張する「30万人説」がばかげているのは、これを主張するなら、戦闘において死んだ人間のほとんどが「虐殺」されたという判断をするような「虐殺」の概念を持って判断しなければならないからだ。これは、感情的には理解できないことではない。殺されたという事実からは、その殺された人間にかかわりのある人にとっては、どんな理由であろうと殺されたことは理不尽であり、それを「虐殺」と呼びたい感情は生まれるだろう。 しかし、この感情的判断を肯定してしまえば、「虐殺」という言葉を使う意味がなくなってしまう。それは「殺された」という言葉と同じ意味になってしまうので、わざわざ「虐殺」という言葉を使う必要はない。もし使うならば、それは感情に強く訴えるというプロパガンダ的な効果があるので、それを狙って使うということになるだけだろう。 戦争においては「殺される」ということは一般的な普通のことであり、たとえその現象があったとしても、それは責任を追及されることではなくなる。「虐殺」という言葉の定義を、「殺された」というものと同じものにしてしまえば、「虐殺」という言葉で相手の責任を追及することはできなくなるだろう。それは、戦争においては「しょうがない」ことなのだと言われるようになるだろうと思う。 戦争において、「殺された」ということで一般的に語られる現象を分類し、「しょうがない」と判断されるある種の正当性と、「虐殺」だと非難される不当性とをどう区別するかということを検討しなければならないだろう。この検討によって得られた「虐殺」の概念から、南京大虐殺と呼ばれる事象を、そう解釈してもいいかどうか(「虐殺」と呼んでもいいかどうか)が考えられることになるだろう。南京大虐殺の問題は、それが事実として「あった」か「なかった」かということを考えるのではなく、事実として南京事件というものはあっただろうが、それを「虐殺」として解釈できるかどうかの問題だと捉えたほうが形式論理的にはすっきりする。 小室直樹氏は、『封印の昭和史』(徳間書店)の中で、「かくて捏造したのが「南京大虐殺」です」と語っている。これは、南京大虐殺の完全な否定論となっている。だが、ここで小室氏が主張しているのは、南京大虐殺という事実などなかったということではない。南京で多くの人が戦闘によって死んだのは事実だろうが、それを「虐殺」と解釈することは出来ないという主張だ。「虐殺」と解釈することが出来ない現象を「虐殺」と呼んだので、それは「捏造」だという指摘をしている。 小室氏がここで「虐殺」だという解釈の根拠にしているのは「違法性」ということだ。「虐殺」を感情的に捉えれば、「むごい殺され方をした」というふうにも考えることが出来る。劣化ウラン弾を使った戦闘や、バンカーバスターなどの兵器、そしてもちろん核爆弾を使った結果としての殺され方は非常にむごいもので、それを「虐殺」の定義に使えば、戦争において「虐殺」というものはそこいら中にあふれているありふれたものになる。 むごい殺され方というものを「虐殺」の定義に使って感情を表現することも、文学的な文脈においてはあるかもしれない。しかし、それはあくまでも文学的な文脈という解釈に限られる。それを根拠に法的な責任追及をするということは出来ないだろう。感情的な非難をする根拠にはなりうるが、その賠償をせよというような責任追及は出来ない。道義的責任の追及は出来るかもしれないが、法的責任の追及は出来ない。 法的責任の追求という解釈をするなら、違法性というものを問題にしなければならない。小室氏が、「虐殺」という言葉の定義に違法性という要素を盛り込んだのは、賠償責任の有無を検討するということに結び付けて「虐殺」を考えたからではないかと思う。この考察においては、道義的責任は関心の外に置かれるという意味で捨象されている。道義的責任の範囲までも「虐殺」に含めるなら、法的責任の確定は出来ないとしなければならない、という形式論理がここにはあるように思われる。 小室氏が、南京大虐殺を問題にする際に考えているのは、裁判等で追及される法的責任の範囲での「虐殺」に限定しているのだと考えられる。この限定に賛成できなければ、他の「虐殺」の定義をする必要があるが、その際には、法的責任の追求という問題は、その定義では出来ないのだというのが小室氏の論理設定だろうと思う。賠償責任の追及などをするのなら、そのときの「虐殺」の概念は、あくまでも違法性というものを基礎にした「虐殺」でなければならない、というのが基本的な考えだろう。そして、このような「概念」で考察すると、「南京大虐殺はなかった」、「それは終戦後に作った新たな法概念によって捏造された違法性だった」というのが小室氏の主張なのだと思う。 南京において市民がむごい殺され方をしたという事実が指摘されたとき、「むごい」という概念が「虐殺」の概念であれば、そこでは「虐殺」が行われ、それが大量であれば「大虐殺」と呼ばれることになる。しかし、これの法的責任が、実は日本軍にはなく、むしろ蒋介石の中国軍にあったのだと解釈できれば、南京大虐殺の責任は蒋介石に対してすべきだということになる。 小室氏によれば、戦争における最高責任者は、降伏を申し入れる権限を持っているということだ。降伏というのは、単に勝ち負けを判断するということだけではなく、降伏して捕虜となる権利を認めさせるということが大きいという。国際法によって、捕虜に対してはその取扱いが規定されているので、捕虜として認められれば、簡単に処刑されることはなくなるし、保護されるという権利を手にすることが出来る。 敗色濃厚な戦闘のとき、降伏をするということは、味方の犠牲を防ぎ、捕虜として扱ってもらうために必要な行為だった。南京における中国軍は、この降伏行為がなかったようだ。そのため、捕らえた中国兵が捕虜であるのかどうかが、法的に決定出来なくなったという。スパイや便衣兵として処刑された者は、法的な意味で捕虜でなかったことが言えれば、その処刑の違法性は追及できなくなる。戦争行為の上では「しょうがない」ことになる。 また、市民が戦闘に巻き込まれるとき、その市民の保護は駐留する軍隊に存在するという。敵軍を、市街戦に入る前に撃退できれば一番いいのだろうが、それが出来ない時は、市街戦が起こる前に市民を避難させたり、敗色濃厚であれば、戦う前に降伏をして市民の犠牲を防ぐという責任を持っていると考えられるそうだ。これは実際には難しいことなのだろうが、法的な建前としてはそうなっているようだ。そうであるなら、法律という形式論理の適用からいえば、市民の犠牲は、南京に駐留していた中国軍にこそあるということになるのではないかと思う。 南京大虐殺という現象が、道義的な責任追及だけでなく、法的な責任追及と結びついたのは、東京裁判におけるA級戦犯の追求に関係していたからだと小室氏は語る。A級戦犯を戦争犯罪で裁くには、それまでの法律では不足していたようだ。そこで、ナチスのユダヤ人虐殺を裁いた法律と同じように「人道に対する罪」が適用されたらしい。これは、今までの法律では規定されていないような、それまではまったくなかったようなむごい行為(ナチスのユダヤ人虐殺など)を、事後的に裁くために提出された法律の概念だ。 法律というのは、設定された後に、それに違反したものを裁くためのものだ。法律が設定される前の行為については、その法律でさばくことは出来ない。そうでなければ、形式論理が破綻してしまうからだ。法律は、形式論理に従って判断されるので、誰が考えても同じ結果が出るからこそ、それに従うことの信頼性が出てくる。法律が設定される以前にまでその適用範囲が広げられてしまえば、どの法律が、どの行為にそのように拡大解釈されるかが恣意的になり、法律の信頼性を失う。 しかし、ユダヤ人虐殺のような前代未聞の犯罪行為に対しては、例外中の例外として、法律が設定される以前の行為にまで法律が適用された。それが「人道に対する罪」というものだ。これは、前代未聞の「人道に反する行為」に対して適用されなければ、例外性の濫用になる。A級戦犯を裁く東京裁判においては、この「人道に対する罪」としての南京大虐殺が、例外を許すようなひどい行為であったことが証明されなければならなかっただろう。 小室氏は、今までの法律(国際法)だけであれば、南京大虐殺と呼ばれる事件は、法的責任を追及できるような要素がないと主張している。例外的な、「人道に反する行為」として非難できる「虐殺」なのであるとしたのが「捏造」であると解釈しているものと思われる。 小室氏の、南京大虐殺が「捏造」であるとする解釈には、日本の軍隊にはジェノサイド(ある人種・民族を、計画的に絶滅させようとすること)という観念がなかったということを根拠にするものがある。ユダヤ人虐殺の基礎にはジェノサイドの考えがあるが、それをもっていない日本軍は、「人道に対する罪」を行うと考える根拠がないというのだ。 逆にいえば、南京大虐殺という解釈が正しいのであれば、日本軍はジェノサイド行為をするほどむごいことを平気でやるような軍隊なのだということになる。南京大虐殺を肯定するということは、日本軍が一般的に、そういうひどい体質を持った軍隊だったと考えることを意味する。僕なども、かつては日本軍というのは、非合理的でいじめが蔓延している、およそ組織としてこれ以上ないくらい悪いものだというイメージを持っていた。 しかし、小室氏によれば、非合理的ではあっても、軍規に厳しい、統制の取れた組織だったという。だからこそそれまでの戦争であれだけの強さを保つことが出来たのだという。日本のモーレツサラリーマンからの連想で軍人を考えると、そのまじめさと勤勉さは小室氏の指摘どおりではないかとも感じる。日本軍に対する一般的イメージも、南京大虐殺の肯定・否定の判断に関わっているような気がする。日本軍の一般的イメージの、本物に近い姿というのを求めたいものだと思う。
by ksyuumei
| 2007-07-09 10:15
| 歴史
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