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新聞社説に見る久間発言批判 1

新聞社説は、短い報道記事と違って、どこがどのように批判されなければならないかが一応まとまって書かれている。この批判の形式論理的構造を考えてみたいと思う。形式論理において、ある命題Aを否定したい時は、Aを仮定して論理を展開したときに矛盾が導かれることを証明する方法がある。背理法と呼ばれる方法だ。これは、形式論理において矛盾は絶対的な偽である(真理ではない)ということから導かれる。

背理法は間接的な証明法だが、Aの否定命題を直接証明することが出来れば、文字通り、これもAの否定になる。この場合は、いくつかの認められた前提から、論理的な操作だけによってAの否定が導かれるという展開が必要になる。この場合、Aの否定の真理性は、いくつかの認められた前提が正しいということの妥当性によって保証される。

久間氏の「しょうがない」という発言の命題をAとしたとき、それを批判するということは、Aの否定を主張することになる。その批判に正当性・妥当性があるというためには、それが、より確実に真理だと言えるような前提から論理的に導かれているということが必要だ。どのような前提が設定され、どのような論理展開で「しょうがない」という久間氏の発言が批判されているかという視点で新聞社説を見てみようと思う。



このような視点で社説を眺めると、非常に気になるような言説が多いことに気づく。前提が少しも語られていないように見える社説が多いのだ。つまり、無前提に久間氏の発言が批判できると断定しているものが多いように感じる。次のようなものだ。


「久間防衛相が、米国の原爆投下をめぐる発言による混乱の責任をとって辞任した。先の講演で、「あれで戦争が終わった、という頭の整理で今しょうがないなと思っている」などと述べていた。「しょうがない」とは、全く軽率な表現である。」
(読売新聞、7月4日)


ここでは混乱に対する批判はあるものの、「しょうがない」という言説に対する批判はない。せいぜいが「軽率」と言っているだけだ。「しょうがない」という言説が、どうして批判に値するのかという論理はない。これは無前提に、論理展開なしに自明に批判できるものなのか。

ある物質を指差して、その名前を言うような、例えば「これはリンゴだ」というような命題の場合は、実際にその指差している物質を見るという実践によって、その命題の真理を確定することが出来る。自明に真偽が決定すると言ってもいいだろう。しかし、原爆投下が「しょうがない」かどうかは、それほど単純なものではない。それを否定する結論が出るとしても、何も考えずに、見ればすぐに分かるというような単純なものではないだろう。無前提に、論理展開なしに批判できると考えるのは、形式論理に対してあまりにも鈍感なのではないかと感じる。


「原爆投下を容認するかのような発言は、被爆者の痛みを踏みにじり、日本の「核廃絶」の姿勢を揺るがすものだった。辞任は当然である。」
(朝日新聞、7月3日)


この批判では、「原爆投下を容認するかのよう」という指摘が、批判の根拠になっているように一見すると感じる。この前提が批判を導く論理展開をもたらすように見える。しかし、この前提そのものが自明なものかどうかに僕は疑問を感じる。容認するというのは、「よいとして認め許すこと」と辞書的には定義されている。久間氏は、原爆投下を「よいとして認め許す」と言っているのだろうか。

ここで批判の対象になっているのは、「容認した」ことではなく、そのように見えるような誤解を与えたことだと考えられる。つまり、「しょうがない」という命題に対する批判ではなく、この命題を語った結果として誤解を与えたことを批判する根拠が提出されていると考えたほうがいい。命題そのものの批判ではない。だから、この前提も、命題批判の前提ではない。


「原爆を投下することは、取りも直さず大量破壊と無差別殺戮(さつりく)を意味する。今も多くの被爆者が後遺症に苦しんでいる。国際法に反する非人道的行為であり、どのような理屈を持ち出してきても容認できるものではない。」
(琉球新報社、7月4日)


これは、「しょうがない」という命題を否定するような前提を提出しているように見える。しかし、これは論理展開として「どのような理屈を持ち出してきても」と語るところに、現実を語る形式論理として不適格なものを感じる。現実に存在する対象については、「すべて」を語るような全称命題は成り立たないからだ。「どのような理屈を持ち出してきても容認できない」ということを前提にすれば、それは、この前提そのものに、「しょうがない」の命題の否定が含まれていることになり、現実と無関係に、トートロジーとして論理操作だけで「しょうがない」という命題を否定することが出来る。

この前提を設定すれば、反証可能性のない命題・絶対的に正しい命題が導かれる。「国際法に反する」という理由がつけられているようにも見えるが、トートロジーの主張には、このような根拠は一切必要ない。これは、現実との結びつきがあることを装うレトリックに過ぎない。この批判は、論理展開においてトートロジーを語ることにより、それが無前提に主張されているものであることを示している。


「想像を絶する地獄を体験した唯一の被爆国として、日本は世界の先頭に立って核廃絶運動を推進してきた。その国の、国民の安全を守るべき防衛相があたかも原爆を容認するかのような発言をしたことの責任は重い。辞任は当然である。」
(南日本新聞、7月4日)


これも「容認するかのような」という表現が使われていて、「容認」だと断定されていない。これが「容認」という判断ならば、「しょうがない」という判断と直接関係してくる可能性が出てくる。「しょうがない」という命題の批判になりうる可能性もある。しかし、「ような」がついていると、これはやはり誤解を与えたことが悪いという批判になるのではないかと思う。


「辞任は当然だ。唯一の被爆国であり、核廃絶に主導的に取り組むべき国の閣僚が、原爆投下を容認するかのような発言をした責任は重い。」
(高知新聞7月4日)


ここでも語られているのは「ような」ということだ。「しょうがない」ということで語られているような内容、それは久間氏が語るように、受け入れざるを得ない「しょうがない」ことだということは、誰も批判できていないのではないだろうか。

「しょうがない」という命題を直接批判するには、アメリカの行為が間違っていたということを主張しなければならないだろう。それは止むを得ないことではなく、不可避ではないということを言わなければならない。このような根拠で、それが避けられたはずだという主張をしなければならないはずだ。

それに対して、「容認」という言葉で語られる内容は、アメリカの行為が戦争を終結させるために有効だったのであって、それは積極的にいいことだったのだと評価することになるだろう。こう誤解させるところがあったという批判は、確かに成立するかもしれないが、誤解するのは、誤読するほうが悪いという批判も逆に成り立つのではないかとも思う。

批判者は、なぜ「ような」ということの批判しか語れないのだろうか。誤解させた・言い方が悪い・その言葉によって感情を逆なでした、という批判だけに終始している。アメリカの判断が間違いなのだ、「しょうがない」のではなく、避ける方法がいくらでもあったのだという批判がなぜないのだろうか。

その点で論理的に誠実なのは小沢一郎氏だ。読売新聞の社説によれば、「疑問なのは、民主党の小沢代表が、安倍首相との先の党首討論で、原爆を投下したことについて、米国に謝罪を要求するよう迫ったことだ」と語られている。読売新聞が「疑問なのは」と語っているのは、読売も久間氏と同じ「しょうがない」という立場に立っているからだ。

これを「しょうがない」を否定する「しょうがなくはない」のなら、アメリカの判断の間違い、その残虐行為を非難しなければならないというのが形式論理の展開として正当だ。「しょうがない」を批判するのなら、その人間は、みんな小沢氏と同じように、「米国に謝罪を要求するように」迫らなければならない。それなのに、そのことに言及する社説はない。

逆に、イラク戦争の間違いを指摘した久間氏の正論を「久間氏は、日本政府のイラク戦争支持は「公式に言ったわけではない」と語るなど失言を重ねていた」(読売新聞)などと、アメリカを擁護するような文章を載せたりしている。原爆を「しょうがない」ものではなく、アメリカの犯罪として断罪するなら、イラク戦争における間違いを指摘しなければ、論理的な整合性が取れないのではないか。原爆は非難するが、イラク戦争は「しょうがない」と判断するのだろうか。

南日本新聞も「久間氏はこれまでも物議をかもす発言が多かった。1月にはブッシュ米大統領のイラク政策を「誤りだった」と批判し、政府見解との違いを指摘されている」と、久間氏のイラク戦争批判について、それに否定的な評価をしている。これは、アメリカの残虐行為を「しょうがない」と語っていることにならないだろうか。

久間氏は直接「しょうがない」という言葉を語ってしまったために、多くの人の感情を傷つけたので問題にされた。直接「しょうがない」と言わなければ、文脈上は、「しょうがない」と語っているように解釈できても、感情を揺さぶらないからそれは見過ごされるのだろうか。

「しょうがない」を直接批判せず、それが誤解を与えたとか、感情を傷つけたとかいう批判をするのは、実は自分も同じ穴の狢であることをごまかしている欺瞞ではないのだろうか。久間発言に対する報道のあり方を見て僕が違和感を感じるのは、批判している新聞が、実は自らも批判に値することをしているのに、そのことには少しも言及せず、ノー天気に自分の正当性を信じているように見えるからだ。自分だけが安全圏にいて、反撃することの出来ない他者をたたくというのは、差別糾弾主義者のやり方を見ているような感じすらする。これはまた、宮台真司氏が批判するノー天気な左翼的言説というものとも重なる。「しょうがない」という命題に対する直接的な批判を、さらに考えていこうと思う。
by ksyuumei | 2007-07-05 00:49 | 政治


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