不確定性原理と重ね合わせのたとえ話 1

不確定性原理と重ね合わせというのは、量子力学においてはその発想の中心ともなる重要な概念ではないかと思う。この概念が非常に難しいのは、それが常識的な発想に反して、このようなイメージに従うはずという「はず」が成立しないことだ。このように難しい概念の理解に関しては、常識と抽象の橋渡しをする「比喩」あるいは「たとえ話」を利用するということがある。

これが直感的につかみやすく、しかも適切な捨象を助けるものになっていれば、教育的にはよいシェーマとして働くことになる。不確定性原理と重ねあわせに関しては、なかなかいいたとえが見つからなかったのだが、『量子力学の基本原理』(デヴィッド・Z・アルバート著、日本評論社)という本に面白いたとえ話を見つけた。これは、必ずしも分かりやすいとはいえないものの、非常に面白さを感じたものだ。

著者は、物理学の研究出身なのだが、この著書を書いた時点では現代物理学の哲学的諸問題を専門としていると紹介されている。つまり、量子力学に対して、物理的な意味での解説をしているのではなく、その哲学的な意味を説明しようとしているたとえになっている。ここに面白さを感じた。この哲学的意味を、形式論理を通じて理解することによって、その発想の仕組みというものを発見してみたいと思う。



不確定性原理というのは、運動量と位置情報を同時に正確につかむことが出来ないということで言われる。これは、それほど常識に反したことではない。よく考えれば、量子のような極微の世界の存在に関しては、観測することが情報に影響を与えて、観測後の情報を変えてしまうということは理解できることだ。観測というのは、目で見るには光を当てなければならないし、光を当てないまでも、何らかの作用を対象に及ぼさなければ観測は出来ない。対象に何もせずにいれば、対象の存在は永久に我々に知られることはない。その影響が誤差として無視できれば、誤差の範囲内で正確な情報を得られるが、極微の世界では誤差としての無視が出来ない。だから情報が不確定になるというのは、常識の範囲で理解できることだ。

形式論理で語れば次のような命題になるだろうか。

  <位置情報を正確に知る> かつ <運動量の情報を正確に知る>
         ↓(否定)
  <位置情報が正確には知りえない> または <運動量の情報が正確には知りえない>

常識に反する驚きを感じるのは、重ね合わせという考え方だ。光を光子という粒子で考えたときに、スリットを通ってスクリーンに達する光子の位置を測定するということが出来るそうだ。このとき、スリットの穴が一つだけだった時は、光子の到達する位置は、ピストルの弾丸が到達する位置と同じような予測ができるという。つまり粒子というボールのような存在であることがわかる。

しかし、スリットの穴を二つにした時は、光を粒子と考えるとその結果が非常に奇妙に思えるようなものが出てくる。「例1(二重スリットの思考実験)」というページに図があるのでこれを参考にして考えたいと思う。

光が粒子であるなら、一つ一つの粒子が行動する結果がそのままスリットの穴を二つにしたときも合成されて現れるはずだ。しかし、実際には、光子が当たる位置には細かい縞模様が出来て、これは波の運動として解釈しない限りうまく解釈できなくなる。粒子としての性質を持っているのに、同時に波でもあるというのは、どうも形式論理の矛盾律に反しているようにも見える。これは常識的に了解することの難しい現象だ。

しかも、この現象はどちらかのスリットを隠して、必ず一つのスリットを通るようにしてしまうと結果が違ってくる。もはや波のような縞模様を作らなくなるのだ。光子は一つずつスリットを通すように実験することも出来るそうだが、もし一つの光子がどちらかのスリットを必ず通るのであれば、互い違いにスリットをふさいで実験をしても、二つを開いた状態で実験をしても、似たような結果が出ると予想するだろう。その光子が、たまたまふさいだほうのスリットを通ったとしても、たくさんの実験をすれば、埋め合わせが出来て、似たような結果になるはずだが、実際にはまったく違う結果が出る。スリットを一つにした時は、波のような現象は起こらず、粒子性だけを現す。

このことを形式論理的に解釈すると、次の4つの場合に分けることが出来る。

1 <光子は1のスリットを通る> かつ <光子は2のスリットを通る>
2 <光子は1のスリットを通る> かつ <光子は2のスリットを通らない>
3 <光子は1のスリットを通らない> かつ <光子は2のスリットを通る>
4 <光子は1のスリットを通らない> かつ <光子は2のスリットを通らない>

光子は、1のスリットに関しては「通る」「通らない」のどちらかである。これは排中律によっている。2のスリットに関してもそうだ。だから、この二つずつの組み合わせで4つの場合が、考えうるすべての場合になる。しかし、この4つの場合のすべてについて、光子というものが、二つに分裂することの出来ない最小単位として存在するというような他の前提とあわせて考えると矛盾が導かれてしまう。

1は一つの光子の振舞いとして考えると、二つに分裂しなければこのような行動が出来なくなる。これは光子が最小単位であるという前提に反する。2と3の場合には、光子は必ずどちらかのスリットを通ることが主張されている。これが実現するならば、一つをふさいで実験したときにも二つを開いて実験したときにも同じ結果にならなければいけないのだが、実験結果によってこれが否定され矛盾が生じる。4の場合は、スクリーン上に光子がぶつかることがなくなるのだが、これも実験結果によって否定され矛盾が生じる。矛盾律が成り立つという形式論理から考えると、どれも成立しないことになる。

量子力学的事実は、矛盾律と排中律を否定しているように見えるところに、常識を超えた理解しがたいところがある。これは形式論理の破綻を意味するのだろうか。僕は違うと思う。以前に運動のところで論じたように、不確定性原理というのは、不確定であるということゆえに、静止の表現である形式論理では直接表現できないものなのだと思う。直接表現できないものを表現しようとすると矛盾した言い方になってしまうということだろうと思う。運動の場合と同じ事が起きているのだと思う。

飛んでいる(運動している)矢を、形式論理で表現しようとすると、それは「空間の1点に存在すると同時に存在しない」という矛盾した言い方になる。これは形式論理の破綻ではない。そもそもが静止の表現である形式論理で運動を表現しようとすると、表現できること自体が矛盾になる。それは「運動は静止だ」と主張することになるからだ。運動は形式論理で直接表現することができないということが、実は形式論理に忠実な、形式論理を破綻させないものなのだ。

運動を直接表現しようとすれば、「それは運動している・矢は飛んでいる」と表現すればいい。これを形式論理で破綻なく表現しようとすれば、極限や連続の概念を導入するという工夫や、「任意性」というもので、極限や連続を静止したものとして捉えるという工夫がいるわけである。

粒子性や波動性の問題は、それを確定してしまえばどちらかに決まってしまう。両方一緒に同時に実現するという観測は出来ない。その意味では、静止状態においては形式論理は破綻していない。この状態を、「運動している」と表現する対象と同じように、一言で表現すれば「重ね合わせの状態にいる」というしかないのだろうと思う。どちらか一方の状態には決められない。だから、決められない時は、両方の状態が重ね合わせられているという表現しか出来ないのではないかと思う。

運動を形式論理である数学で表現するには関数が使われた。関数というのは、変化を表すといわれているが、実は変化そのものは関数からは分からない。関数は変化の断面を切り取った静止画像を表現しているだけだ。変化そのものではなく、変化の結果の羅列を表現しているに過ぎない。それが連続していれば、変化と言うイメージがより強くなるが、変化は人間が読み取るもので、関数が表現しているのではない。

この関数に当たる道具として量子力学で提出されているのがベクトルである。ベクトルは「重ね合わせ」を形式論理で取り扱う道具として上の著書でも説明されている。関数の微分が運動方程式として表現されたように、重ね合わせの原理はベクトルの計算として表現される。

運動方程式を解くと、それが表現している運動の未来のある時点での物理量を求めることが出来る。それは、変化を捉えたものというよりも、未来のある時点での静止画像を正確に描くものといったほうがいいだろう。形式論理である数学がその解答を与えるというのは、形式論理としてはまことにふさわしい機能だと思う。

同じように、ベクトルの計算で求められる解答は、未来のある時点での量子の振舞いの状態を与えるという。それは形式論理であるから、もちろん静止画像としての表現になる。確定しないことに対する静止画像というのは、確率的な表現になるということだ。

上記の著書で、著者は「第1章で話した電子の不可解と見える振舞いのすべてを正しく預言するアルゴリズム(計算の規則)がある。このアルゴリズムが量子力学と呼ばれるものだ」と書いている。これはちょっとびっくりするような表現だが、眼から鱗が落ちるというような感じのする表現だった。

量子力学というのは、極微の世界を正しく語った理論だというイメージを持っていたのだが、実は、その正しさを確かめる方法は人間にはないのではないだろうか。極微の世界は、観察することで状態が変わってしまうのだから、実際にどうなのかということが確定しない。すべては想像の範囲のものだ。想像した結果が現実にどう現れるかという、静止画像としての結果は人間にわかる。しかし、今現在の極微の世界がどうなっているかということは永久に知りえない。

これはまことに形式論理にふさわしい対象だ。そして、結果を予測するためのアルゴリズムとして量子力学という理論が存在するという解釈は、まことにすっきりした考えだと思う。形式論理こそは、まさにアルゴリズムのもっとも完成された形だからだ。量子力学も、形式論理に従っているからこそ、それは合理的に理論展開できるのだということが納得できる。

たとえそのものの話に入る前の前置きが長くなってしまった。この本では、電子の色と硬さという比喩で位置情報と運動量の不確定性原理のたとえ話を語っている。次回は、その具体的なたとえ話の内容と、それが形式論理的にどのように理解できるかを考えてみようかと思う。
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by ksyuumei | 2007-06-27 10:22 | 論理


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