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シェーマとしてのたとえ話

シェーマというのは故遠山啓先生が、水道方式という計算体系の教育に際して、数という抽象的対象を教えるために考案したタイルという教具の特徴を指して使った言葉である。タイルという教具は、10進法の構造を教えるための教具であり、加減乗除の計算アルゴリズムの構造を教えるための教具として考案された。

タイルは、風呂の壁などについている正方形の板であり、これをつなぎ合わせ10個の細長い棒状にしたものや、縦横10個ずつの大きな正方形にして100を表したりしたものを使って数を教える。タイルの特徴は、つなぎ合わせたときの10個の塊や100個の塊を判別しやすく、10集まると桁が大きくなるという位取りの原理を、目で見て理解することが出来ることだ。

それまでは、計算棒というマッチ棒のようなものをたくさん集めたものや、お金を使って数を教えることが多かったらしい。しかし、計算棒は、10ずつ集まったという集合的な把握のイメージが難しく、10進法という位取りの原理だけを引き出すにはふさわしいものではなかった。お金は、すでに10進法の原理を知っているからこそその大小などが理解できるのであって、お金の価値と大小関係が混同される恐れもある。



また計算においても、小学生などは指を使って計算することが多いが、指は実際に動かしてみないと計算のイメージが湧かないが、タイルは頭の中に想像するのも楽に出来る。正方形であるということ以外の具体性が捨てられているからだ。足し算の時は、このタイルをくっつけて合成するという操作と足し算の計算を結びつけ、さらに10進法の構造と関連させて繰り上がりの計算を理解していくように考えられている。

このシェーマが教育的に大きな成果をもたらしたのは、教員になりたての若い教員が、計算のアルゴリズムの習得ということに関しては、ベテランの教員の実践と遜色がないくらいの結果を出したことで証明された。シェーマを有効に使うことで抽象的な概念の理解が容易になるというのは、教育においては科学的な法則として成り立つのだと思う。有効な理論と方法さえあれば、職人芸的な実践は必要なくなる。社会的な職業というのは、そういうものでなければ大衆的なものにはならないだろう。

水道方式におけるタイルは、シェーマの利用の鮮やかな成功例だと思うが、その他の教育実践を眺めても、なかなか他のシェーマの例を見つけることが難しい。適度な抽象性の対象というのがなかなかないのかもしれない。数の10進構造や筆算のアルゴリズムに関しては、ちょうどいい対象が見つかったと思うのだが、他の抽象的な概念は、具体性から抽象性への飛躍を埋めるのにちょうどふさわしい対象が見つかっていないのではないだろうか。

仮説実験授業は、抽象概念への飛躍を、仮説と実験の繰り返しの階段によってステップアップしていこうとするものではないかと思う。原子という存在は目に見ることが出来ない・想像するしかない、極めて抽象度の高いものだ。仮説実験授業では、この原子の理解に発泡スチロールで作る原子模型というものを使う。これはシェーマに当たるものになるだろう。目に見えない原子を、目に見えるような形の模型にするという、具体性を持ちながらも抽象性を表現する対象になる。

タイルというシェーマは水道方式という計算体系の中で使うことによって、そのシェーマとしての機能をよく発揮する。同じように、原子模型も、仮説実験授業の中で仮説と実験を繰り返す中で使うことで、それがシェーマとしてよく機能するのだろうと思う。その意味では、シェーマというのは、それだけを単独に取り出して利用してもあまりうまくはいかない。教育の中でどのように位置付けるかが重要になるだろう。

シェーマというのは教育においてかなり有効性を発揮するものだから、これを、ある対象の理解に利用することが出来れば自らの学びにも有効性を発揮することが出来るのではないかと思う。その一つの可能性を持ったものが、「たとえ話」あるいは「比喩」としてのシェーマではないかという感じがしている。

抽象的対象というのは、その概念を把握した人間は、それにふさわしい表現を見つけたときには、それ以外の表現ではもはや考えることが出来なくなるくらいはっきりしたイメージになってしまう。しかし、それをつかむ前は、何か得体の知れないもやもやしたものとして頭の中に漂っている感じがする。

数学における概念などは、最高の抽象度を持っているので、いったん理解してしまうと、数学用語以外では表現できなくなる。それを比喩的に他のもので具体的に語ろうとすると、数学の持っている厳密性が失われてしまう。極限などという概念はその際たるものだ。これは、数学的にイプシロン-デルタと呼ばれる論理でつかんだ後は、「限りなく近づく」などという比喩では正確さを欠いていると感じてしまう。極限は極限と呼ぶしかない。

だが、これを理解するまでは、それに近づくためのシェーマがあったほうがいいだろう。高校数学では、「限りなく近づく」という言葉で比喩的に語っているが、これは、高校段階ではそれ以上の抽象的な段階に到達することが難しいと思われているからだろう。具体的なイメージとしての「限りなく近づく」というものが、たとえ正確ではないにしても必要になるものと思われる。

しかし、「限りなく近づく」という比喩はシェーマとしては有効に機能していない。その具体性は、有限の状態からの連想で捉えられているので、実際には本当に抽象された極限の姿を見ることが出来ないからだ。これは、本来の抽象の方向に有効に結びつくようなシェーマとなっていない。むしろ無限という存在を間違って認識する可能性を持った比喩になっている。この比喩は、微分や積分の計算規則を導出するために有効に使われるが、それは計算技術の利用という問題での有効性を持っているだけで、本当の意味での抽象的概念である「極限」の理解にはほとんど役立たない。本当に極限という概念を理解したいと思ったら、有効性を持ったシェーマとして、他の比喩を探したほうがいいだろうと思う。

比喩をシェーマとして利用するというのはかなり難しいことだ。タイルや原子模型は、言葉による比喩ではないので、かなりの具体性を捨てることが出来る。シェーマにおいては、具体性を捨てられるということが決定的に大事なことのように感じる。何かある部分を抽象するというのは、それを理解できた人間が対象を見たときに正しく抽象できるのであって、初学者が対象を見たとき、余計な属性をたくさん持っている対象では、目的の部分を抽象することが難しくなる。余計なものが一緒に抽象されて、うまく概念を作ることが出来ない。

初学者にとっては、抽象したいもの以外のほとんどが捨象されている存在こそが、シェーマとしてもっとも有効に機能するものだろう。言葉による比喩やたとえ話は、具体性がたくさん残されているので、どこを抽象すればいいかというのが、すでに分かっている人間以外にはよく分からないのではないかと思う。

たとえ話で抽象的な法則性を教えるものに「ことわざ」と呼ばれるものがある。このたとえ話は、非常に具体的な表現になっているので分かりやすい。しかし、それを具体的な表現の表の意味だけで受け取っていては「ことわざ」としての機能を果たさない。そこに隠されている裏の意味である抽象的な意味を読み取る必要がある。

ことわざ辞典に「言いたいことは明日言え」というものがあった。これは、人間関係というコミュニケーションを円滑にするためには非常にいいアドバイスだと思う。しかし、これを具体的なアドバイスとして聞いているだけではことわざとしての理解は不十分である。そこに表現されている抽象性を受け取らなければ、たとえ話として機能しない。

言いたいことをすぐ言うというのは、感情の流れに任せて表現をするということだ。これは、あるときは率直さとしていいほうに受け取ってくれることもあるが、たいていの場合は、自分の利害関係において、利益となることを感情的に主張しているだけだと受け取られるだろう。言いたいことというのは、自分にとって言いたいことであって、自分は言うことに利益があるが、相手はそれを聞くことが利益かどうかはまったく分からない。相手が、それを聞くことが利益にならない、むしろ損害であると受け取るなら、その人間関係は壊れてしまうだろう。

この考察の元には、人間は感情的な判断をすれば間違える場合が多いという、一般的な認識もある。間違えないためには、感情的に短絡して反応するのではなく、その反応が多くの選択肢の中の一つであることをよく考えた後、それでもその選択肢を選ぶかということを吟味して反応したほうがいいだろう。そうすれば、同じ反応であっても、結果的には違うものとして作用する。

ことわざでは、「言いたいことは明日言え」というようなことを語って、「よく考えろ」とか、「短絡的に判断するな」というような一般論を語っていない。しかし、今すぐに言わないことで「短絡的に反応しない」ということになる。そして、明日言うことによって、その間に「よく考える」ことにもなる。感情的になっている人間に、冷静に一般論を語っても効果はないので、そのときのアドバイスとしては、実によく考えられたいいものだろうと思う。

この具体的なアドバイスを、ことわざとして受け取らないで、具体的な処方箋として受け取ってそのように行動する人もいるだろう。この場合は、ことわざ的な理解がないので、抽象的な理解はそこにはないことになる。ことわざ的に理解することによって、それを抽象的な法則として一般化して理解することが出来る。シェーマとしてのたとえ話は、このようにことわざ的な理解が出来るようなたとえ話が、抽象概念の理解に役立つものとしてシェーマになるのではないかと思う。

量子力学を調べているといろいろなたとえ話が見つかる。それは、人間の直感を超えた対象を説明しているので、その抽象性をまだ捉えていない人間には、直感と抽象の橋渡しをするものが必要なのでたとえ話で語られているのだと思う。しかし、なかなかすっきりした理解が出来るようなシェーマとしてのたとえ話が見つからない。

極限の場合の「限りなく近づく」というようなたとえに似て、物理状態の計算結果を出すという目的には役立つかもしれないと思えるようなたとえ話が多いように感じる。高校数学では、微分を解釈するよりも計算することのほうが重視されたのでそのようなものになっているようだ。量子力学でも、量子力学的な概念を理解するよりも、計算結果がうまく現実に合っていることを確かめるということには役立つが、その計算がどうして導出されてくるのかという概念の問題を理解するのに役立つたとえになっていないような気がする。どうもうまく理解できないからだ。

その中で『量子力学の基本原理』(デヴィッド・Z・アルバート著、日本評論社)という本の中に面白いたとえ話を見つけた。この本は、「なぜ常識と相容れないのか」という副題がついていて、難しい物理用語を使わずに、日常的に使われるありふれた言葉で比喩的に、量子力学的現象を語っている。その日常的な言葉の具体性に引きずられると、抽象概念の理解が難しくなるが、それが何を比喩的に語っているかということわざ的理解が出来ると、量子力学が語りたいミクロの構造というものが抽象的に浮かび上がってくる。その理解も難しいのだが、何度か読み返しているうちに、ことわざ的な裏の意味が見えて来たように感じる。ようやく、量子力学の抽象概念に一歩近づいたなという気がしてきた。今度はこれの理解を語ってみたいと思う。
by ksyuumei | 2007-06-23 11:36 | 教育


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