無限と連続の弁証法性

数学において無限と連続が本当に意識されて考えられるのは、おそらく微分を学ぶあたりからだと思う。それまでの無限と連続は、それを厳密に正確に把握していなくても、だいたいこんなものだろうというような想像でも数学は破綻することがないのではないかと思う。

微分が持つ視点というのは、物理で言えば極微の世界を考察するものとよく似ているのではないだろうか。それは、今まで目で見た直感の世界では捉えられないような不思議な現象が見つかる。目で見た直感の世界というのは、無限や連続が、想像の範囲内で捉えられていて、無限は「果てがない」というイメージにつながり、連続は「必ず隣が見つかる」というようなイメージにつながっていた。

ユークリッド幾何では直線は無限に延長したものとして定義される。これは、現実にはそのようなものを把握することは人間には出来ない。しかし、現実には、直線が抽象されてきた真っ直ぐの端のある線は、現実の端をいくらでも延長できるという想像をして、「果てがない」という無限をつかむことになる。この理解の仕方は、無限の「果てがない」という現象を具体的につかんだのではないが、形式論理としてはうまい工夫だろうと思う。




形式論理は、対象を静止したものとして切り取って、静止画像として理解する。無限というのは、どこまで延長しても「切りがない」ものとして現れるが、それは、「どこまで延長しても」という運動を伴ったものとして登場する。そうすると、この運動を直接表現することは形式論理では出来ない。形式論理は、この運動をどこかで切り取って、その時点で「切りがない」「果てがない」ということを確認する。そして、どの時点で切り取ってもそれが考えられるという、時点の切り方の「任意性」に無限という性質を押し込めて表現しようとする。

この「任意性」は現実に確かめることは出来ない。現実の「任意性」は、すべての場合を実証し尽くすということになり、それが出来るなら実は無限ではなくなってしまうのだから、もし対象が無限であるなら、それは現実には把握できない。少なくとも、それを現実に把握したと考えるなら、形式論理的には、無限の定義に矛盾してしまう。だから、現実に存在すると考えられている「実無限」は、形式論理的に考察する限りでは捉えられないというのが、形式論理の判断として出てくることになる。

無限というものは、現実にはそれが存在することが確かめられない。ということは、現実にはいくらたくさんあるように見えるもので、それは無限ではないと判断してもいいことになるだろうか。これも、形式論理として捉えるならそう判断することになるだろう。現実に存在する対象が無限であると判断すると、その無限の全体を捉えたことになり、形式論理的には「任意」の対象のすべてに対して、考察している性質が確かめられたということを意味する。それは形式論理では「有限」という判断をしなければならない。

これは何を意味しているかといえば、人間が現実に確かめられるものに対しては、確かめた瞬間にそれは「有限」の存在になってしまうということだ。確かめたときには、それはもはや「無限」ではない。人間にとって、確かめることの出来る存在、つまり認識の対象になるものだけが「存在」であるなら、現実に存在するすべてのものは「有限」だということが形式論理的に結論される。

人間に認識されない、まだ知られていないものも、その知られていない時点でやはり存在しているのだと考えると、「実無限」も、確認は出来ないが存在していると考えることも出来る。しかし、人間の認識の対象になったものはすべて「有限」の存在になる。もし、永久に知られることのないものであっても、それは現実に存在しているのだと、人間の認識以前に物の存在が主張できるなら、「実無限」の可能性も残さなければならない。

唯物論という考え方において、人間の認識以前に物の存在を主張するなら、永久に知られない物でも存在すると言わなければならないかもしれない。しかし、存在すると確認された物質に対しては、それが人間の意志とは独立に存在するのだという主張を唯物論だと考えれば、存在の確認という、認識が先行して物質の存在を主張する、観念論との調和を図った唯物論となるだろう。僕は、このような唯物論のほうが現実の対象を捉えるには有効なのではないかと思う。自然科学における唯物論はこのようなものではないだろうか。

無限というのは現実には捉えられないものだから、存在する具体的対象と結びつけることが出来ない。無限というのは、頭の中に存在する抽象として対象化するしかない。これは、ものの捉え方としては逆転したような認識をもたらす。あるものが、無限であるかどうかというのは、現実にはその対象を観察して、結論として「無限である」「無限でない」というどちらかの判断を出さなければならないと考えたくなる。しかし、それは形式論理では結論が出せない対象だ。

このとき、形式論理では、「無限でありかつ無限でない」という矛盾や、「無限であるともいえない、無限でないともいえない、何か別のもの」という排中律に反する結論を出すわけにはいかない。無限が考察の対象になるなら、形式論理では、どちらかに決めなければならない。つまり、無限であるかどうかという性質は、形式論理においては、理論展開の出発点として恣意的に定義されるものになるしかない。ある対象を無限の存在として設定するということを宣言し、そこから理論を展開していくというやり方をする。

ペアノの公理系によって定義される自然数は、次の数が必ず存在するものとして定義される。自然数というのは、具体的な現実存在としては、ものを数えるときに使われる数のことを指すが、現実には、数えられるものは有限なので、この具体的現実存在としての自然数は無限という性質を持っていない。無限という性質を持っているのは、抽象された対象である自然数だ。これが無限であるということを前提にして自然数論が展開される。すぐあとの数が、どの自然数を取っても(つまり任意の自然数に対して)存在するなら、それは、任意の自然数で自然数を切り取っても果てがないということになり、それが無限という性質を持ったものであることが宣言される。この場合の無限は、対象の属性ではなく、そういうものが対象であるという前提に置かれたものだ。

「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄には、


「満員の無限の部屋に客をいくらでも入れられというのはおかしい」


という感想が語られているが、これは、無限を実無限として捉えたと考えると、このようなおかしさ(矛盾)を感じるだろうと思う。現実の無限である「実無限」は、それを捉えた瞬間に無限ではなくなる。だから、無限ではない部屋には端が存在することになる。そうなれば、その端を越えて新しい客を入れるなどということは、現実には矛盾でありおかしいことになる。

この「無限ホテル」のたとえは、これが現実のホテルではなく、無限だと定義された存在として考えられているホテルだと見なければならない。これは、無限だと定義されているので「果てがない」ことになる。果てがないので、満員であっても、最初の部屋から一つずれた客が、果てのない部屋へ、一つずつずれて入ることが出来るのである。これが全員入りきったかどうかを現実に確かめることは出来ない。現実に無限が把握されることはない。しかし、どの部屋を注目しても、その部屋から出た人が次の部屋の人と入れ替わるのを見ることが出来る。それが無限の定義だからだ。そうすれば、任意の部屋が入れ替われることが分かり、新しい客が一人入る部屋が出来るのを見ることが出来る。これは、無限の定義を出発点とする形式論理で矛盾なく結論されることになる。

また、コメント欄では無限の記号としての8の字を横にしたようなものの計算が次のように書かれている。


「e = (1+1/∞)^∞ = 1^∞ + ... + (1/∞)^∞ 」


これは、∞が記号であって、現実の数ではないということを考えなければならない。記号は計算できないのだ。無限の記号は、果てがないという状態を表すものであって、計算の対象になるような具体的な対象ではない。計算の対象になる具体的な対象がある場合は、それは無限ではなく、有限の表現になる。コメント欄で


「(x+y)^n = x^n + ..... + y^n」


と書かれているように。このnは、あくまでも具体的なある数であり、それが任意であることを表現するためにnという文字を使っている。つまり、このnとして使う数字には果てがないということが、無限の表現になる。無限は、それを計算結果として出すことは出来ず、有限で切り取った断面に「切りがない」ことを語るだけなのだ。

連続という概念は、無限という概念の上位に存在する。連続を考えると、そこには無限の把握がなければ考えられないという関係がある。連続というのは、概念的には「隙間がない」ということになる。隣とくっつきあっているということだ。有限の存在は果てがあるので、果ての隣というのが存在しない。くっつきあうべき隣がないのであるから、有限には連続性があり得ない。無限を前提として連続が考えられなければならない。だから、これも当然のことながら弁証法性を持っている。

この連続には二つの意味があると思われる。一つには、連番と呼ばれるように、隙間なく自然数の連続番号が並んでいるような意味での「連続」だ。これは、まさに隙間がないという意味での「連続」だ。しかし、自然数そのものは離散的に存在している。分数まで含んで考えれば、自然数は隙間だらけだと言ってもいい。

連続というのは、それを考察している空間(集合といってもいいだろう)によって違ってくる。我々にとって感覚的に「連続」というイメージにぴったりくるのは実数の持っている連続性だろう。実数は、現実に我々が生きている空間の中でも隙間がなくびっしり敷き詰められているという感じがする連続性を持っている。

しかし、この連続性は、実数をいくら眺めても結論として出てくるものではない。デデキントによって、隙間を埋めるものとして実数を定義したために、実数とは連続したものとして捉えるという前提によって連続性が導入されたものである。数学においては、無限も連続も、理論展開の出発点として定義された存在なのだ。これを現実の存在として確認しようとすれば、現実存在が持つ弁証法性を持つことになる。形式論理の出発点として設定している限りでは論理は破綻しないが、現実にそれが存在すると考えれば、訳の分からないものになるだろう。

運動の矛盾は、この無限と連続の弁証法性と深くかかわっているだろう。そして、それが極微の世界の記述である量子力学の弁証法性につながっているのではないかと感じる。このあたりの関連から「場」という物理概念を考えてみようかと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-20 10:12 | 論理


<< 実数の連続性 波が伝わるメカニズム >>