波とはどういうものか

『量子力学』(山田克哉・著、講談社ブルーバックス)という本の冒頭には、「波の現象は、はた目で感じるほど簡単な現象ではありません」と書かれている。これは、目で見た波のイメージが、波の本質を直感的に把握させてくれるものではなく、むしろ誤解させる要素を多く含んでいるという意味ではないかと思う。

波は、見た目には「伝わる」というイメージがある。海の波が代表的だが、遠くに見える波がだんだんと自分のほうに近づいてくるのを感じる。また、紐を上下に動かすと波が出来るが、その波の形(紐が上に膨らんだように見える形)は、紐を伝わって動くように見える。この波の伝播は、波が「動いている」ように見えるのだが、実際には波の移動に伴って物質が移動しているのではない。

波においては、物質はその場における振動という動き方をしている。これは、物質の位置をまったく変えてしまう運動ではなく、また元の位置に戻ってくるという周期的な運動になる。波は、移動して遠くへ行ってしまうのに、物質そのものはまた元の位置に戻ってきて位置の変化が限られているというのが波の本質である。波は見た目にはどこか遠くのかなたへ消えてしまうように見える。そのままでは元の位置に戻ってはこない。この、見た目と本質の違いは波の理解を難しくしているように感じる。




量子力学における波動性の理解が難しいのも、本質と現象の違いという、把握が難しいのではないかと思う。弁証法的な表現を使えば、波はその見た目の形の移動という視点から語れば、位置が変化し「動いている」と判断できる。しかし、波という現象を構成している物質的存在を見るという視点からは、それは元の位置に戻るという振動という運動をしているのであって、その位置が変化して遠くに行ってしまうわけではない。つまり「動いていない」という判断ができる。「動いている」と同時に「動いていない」と判断できるので、ここには弁証法的な「矛盾(対立)」が存在する。視点を変えることによって、波という一つの現象に対して、正反対の判断が可能になり、その対立を背負っていると考えられる。

波という現象において、振動という運動がなければ波も起こらない。単純に個体が移動するという運動を観察するだけでは波という現象は見えてこない。そのときは、個体の位置情報の変化が記録されるだけになる。個体の位置情報の変化は、それを切り取って、ある瞬間における位置情報の数値という表現が出来る。つまり、形式論理で扱える形にすることが出来る。しかし、それを切り取った時点で、その連続性を現実には捨てることになる。

切り取った点が、瞬間という分断されたものではなく、連続している運動だと捉えるためには、無限に分割した点の隣が把握できなければならなくなる。隣とくっついているということが確認できるからこそそれは連続しているという把握になる。そして、連続した位置情報の変化があれば、それが「運動」と呼ばれるものになる。しかし、この連続性とそれを支える無限分割は形式論理では捉えることが出来ない。これがゼノンのパラドックスだった。

現実の運動を、瞬間という時間で切り取ったとき、それを運動として表現することはあきらめなければならない。それは、形式論理では表現できるが、運動としては表現できないものになる。この運動に関連して生じてくる、数学での極限の捉え方は、限りなく近づくという運動を、ある時点で切り取って「任意」の正の数(任意であるからどれだけ小さくしてもいいという)より小さくできるという、静止した表現で語ることになる。極限におけるイプシロン・デルタの表現は、運動を静止で捉えるという形式論理の最大の工夫なのだろうと思う。

この運動一般の弁証法性は、振動という運動を不可欠のものとする波の現象でも弁証法性として現れるだろう。波は振動がなければ起こらない。振動という運動は、その弁証法性として「ここに存在すると同時に存在しない」という、形式論理の枠組みでは表現できない「矛盾」を抱えている。瞬間を切り取って記述する形式論理は、それを静止としてしか表現できない。形式論理で表現したときに、それは運動という性質を失ってしまう。

位置の変化という運動の記述においては、瞬間という時間を0(ゼロ)であって0(ゼロ)でないという極限の表現に置き換える。しかし、それは形式論理的表現であるから、やはり静止を表すことしか出来ない。そこで、運動につながる表現として「任意性」というものが登場する。形式論理は、運動における弁証法性を、「任意」という言葉を語ることによって表面に出てこないようにしてしまったといえるだろう。運動を隠蔽する表現によって、運動の断面を記述することだけに専念することが出来たと解釈できる。

この「任意性」というものは形式論理では記述できない。それは実無限を対象にしたものになるからだ。明確に表現すれば、ある対象が「任意」であるということは、それは分からない・未知であるということになる。それは確定することが出来ないが、まあこのくらいだと考えても論理は破綻しない、という程度の問題として捉えていると考えられる。

この任意性は、数学的な表現で言えば確率的な表現に結びつくだろう。確率的な表現では、ある事象が起こることに複数の可能性があったとき、その複数のどれかに特定できない場合、それは何が起こるか分からないという「任意性」を持っていることになる。このとき、何が起こるかは分からないのだが、どの事象が起こるかという可能性が同じだという前提を立てて数学的に扱うのが確率論だということになるだろう。

この、確率が持っている論理構造は、運動が持っている論理構造とよく合致するのではないだろうか。マクロの目に見える運動の場合は、この確率が、ある事象が起こるときがたいへん高くなるので、ほとんど0(ゼロ)に近い事象を無視できるという捨象を経て、必然的な法則性がニュートン力学として求められているのではないだろうか。

この運動の確率が捨象できないような事象のときは、運動そのものを確率的に表現する必要が出るのではないかと思う。波の現象における、振動する物質の運動は、確率を捨象して物質の位置を固定してしまうと波そのものの現象が記述できなくなるのではないだろうか。振動しない、固定された物質は波を起こすことが出来ない。波が起こるということは、必ず振動という運動をする物質が存在することを意味し、それが運動している限りにおいては、位置を固定することが出来ず、確率的に、その物質はここら辺に存在するのだとしか言えないのではないだろうか。

波というのは、物質の運動そのものではなく、運動の結果として現れた形=現象を捉えただけではないのだろうか。波は実体ではないのだ。実体はあくまでも物質のほうであり、物質の観察の結果得られるのは、その存在を断面的に切り取った位置情報だけではないのだろうか。この位置情報が実体としての粒子性に結びつき、運動という、形式論理では直接捉えられない性質が、波動性に結びつき、現象としての波の姿(形)として捉えられるのではないだろうか。これが粒子性と波動性の論理構造ではないかという気がしてきた。

粒子性と波動性というのは、二つの視点から得られる判断であり、一つは実体としての存在を見る視点だ。これは、実体として対象を捉えるので、その位置情報をつかむことが重要になる。そして、位置情報というのは、現実を静止したものとして断面的に切り取らなければつかめない。逆にいえば、静止的な断面として捉えることが出来るので形式論理で操作できる対象となる。粒子性は、そのままの形で形式論理の対象にすることが出来る。

もう一つの視点である、運動として対象を見るときは、それは運動の持つ弁証法性が現れるので、そのままの形では形式論理で操作することが出来なくなる。形式論理で表現することが出来なくなるのだ。これは波動性を語る視点であり、物質を実体的に見るのではなく、運動をしているという状態を見る視点になる。

この波動性は、見たままの形をそのまま記述することが形式論理では出来ない。だから、形としては直感的には理解しにくいが、確率的な表現を使うことによって、形式論理で扱うことが出来るような工夫がされている。直感を超えた表現を使わないと形式論理で扱うことが出来ないところに、波動性の理解が難しいという面があるのではないだろうか。

波は運動の持つ弁証法性を持っているので、その記述に工夫をしなければならないのだが、具体的にどのような工夫をしているかを見るのはなかなか難しい。論理として抽象すると上のような構造を見ることが出来るのだが、その構造を具体的に記述するには数学が必要になってくる。それはかなり難しい数学になるのだが、数学の難しさを横に置いて、その記述の工夫の論理構造を抽象することが出来ないかを考えてみたいと思う。

波には縦波と横波の区別があるのだが、見た目の形と波の性質が直感的に把握される現象としては、波の伝わる方向と振動という運動の方向が直行する横波のほうが理解しやすい。これは、横軸にとった時間と、振動の位置情報を縦軸に取ったときのグラフの形が、まさに波が伝わる形=現象として現れた波の姿と一致する。だから直感的に把握しやすい。

しかし、振動する方向と波が伝わる方向が同じである縦波の場合は、うねって伝わるような形=現象は見られない。だから、これが波だと言われても、直感的に把握することは難しいだろう。グラフに描かれた形が、見た目の形と一致しない。このあたりは、「横波と縦波」を見ると、横波と縦波の違いを目で見ることが出来る。

また「横波と縦波」には、縦波の現象を、横波のようなグラフに描き変えることが説明されているが、直感的に理解するのは難しい。だが、この記述の工夫は、運動の弁証法性を静止として捉える工夫にもつながっているようにも見える。

波のグラフは、ある瞬間の波の形を切り取って記述した写真のようなものに見える。それが運動を連想させるという、人間の見方の働きがあることによって、静止画像が運動を表すという工夫が見られる。それは任意の波の形の代表として一枚が選ばれているという見方が出来るだろう。この任意性に運動という表現が込められている工夫を感じる。

縦波の場合は、このような見た目の形の一致で表現するという工夫が出来ない。しかし、それだけに、縦波の表現の工夫の中にこそ、直感では捉えきれない波という運動の形式論理的表現が見出せるかもしれない。そのような発想で、波についてもう少し調べてみようかと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-06-18 10:47 | 論理


<< 波が伝わるメカニズム 矛盾は実在するか >>