「矛盾は実在するか」という問いは、肯定的にも否定的にも答えることが出来る。それは「矛盾」という言葉の概念によってどちらの答も可能だ。実在する対象に「矛盾」という名前をつけて呼べば、これは実在するように名前をつけたのだから、実在するのが当然だ。弁証法的用語としての「矛盾」はこのような言葉になる。
しかし、形式論理で言うところの「矛盾」は、頭の中に作り上げた概念につけた名前であり、これは実在する対象を持たない。想像上の概念は、基本的に実在する対象を持たない。だから、神という概念も、それが想像上のものである限りではその概念に対応する実体は実在しない。 しかし、想像上の対象であっても、現実を解釈することによって、その概念と実在する実体とを対応させることが出来る。この対応は、想像上の概念が実在することの証明ではなく、あくまでも解釈に過ぎないのだが、逆転した錯覚のようなものを感じることもあるだろう。解釈の問題は認識の問題なのだが、これを対象の属性という客観的な性質だと勘違いすると、想像上の対象が存在するような錯覚を起こす。 霊魂という対象を考えてみると、霊魂の存在を示すような不思議な体験というのはたくさん存在する。超常現象という実体は客観的に存在する。しかし、それを霊魂の存在だと解釈すると、これは認識の問題であって、客観的存在を考えていることにはならない。超常現象を、霊魂の現象として認識したということになる。 この場合、その特殊な超常現象に現れた、具体的な対象に対して「霊魂」という名前をつけただけなら、そこに限定した意味で「霊魂」の存在を主張することは間違いではないだろう。しかし、超常現象というのは、滅多に起こらないことだからこそ不思議な体験としてインパクトを持っている。そもそも一般化が出来ない事実だ。そのような超常現象から一般化された概念として「霊魂」を語れば、これは実在するはずはないと結論しなければならない。頭の中で、想像上の対象として設定されたものだからだ。 普通「霊魂」の存在が語られるときは、一般的に定義された「霊魂」の概念から出発してそれを考えることが多いだろう。特殊な超常現象のときにのみ見られる現実の対象だけを「霊魂」と呼ぶような議論は少ない。だから、「霊魂」が存在するかどうかという議論はナンセンスだ。意味があるとすれば、ある超常現象が起きたとき、それを「霊魂」の現れだと解釈できるかどうかの妥当性が議論できるだけだ。 言葉と存在の関係はすべてこのような構造を持っているだろう。例えばリンゴという果物の存在を語るとき、目の前にある、定冠詞で語ることの出来る「そのリンゴ」が「ここ」という具体的な場所に存在することは語ることが出来るだろう。しかし、一般名詞としての「リンゴ」の存在は語ることが出来ない。その具体的な存在を「リンゴ」と呼ぶのは、それがリンゴだと解釈することが出来るからだ。 目の前のリンゴという物質が、手で触れたり・目で見えたり・食べて味わうことが出来れば、実践を経てその存在が確かめられることになる。そこに何かが存在することは確かだ。それを「リンゴ」と呼ぶのは、リンゴの概念がその物質の解釈によくあうということだ。その具体的な存在だけを指して、他のものとの関連を語ることがないのであれば、それは必ずしも「リンゴ」と呼ぶ必要はない。どんな単語でもいいのだが、あえて「リンゴ」と呼ぶのは、それを一般化した認識がそこにあるからだ。 「リンゴ」という言葉を語るのは、「リンゴ」の存在を語っているのではなく、存在する対象が「リンゴ」と呼べるという解釈を語っていることになる。「矛盾」という言葉に関しても同様で、「矛盾」というものは実在しない。考察の対象である現象を「矛盾」と呼んでもいいかどうかが解釈されるだけだ。 板倉聖宣さんは、『新哲学入門』(仮説社)の中で、次のように語っている。 「それなら、ある人々の言うように、「矛盾は実在する」と言っていいのでしょうか。私はそうは考えません。「運動は、静止の論理にこだわって表現しようとすると、どうしても矛盾した表現を必要とする」というのと、「運動そのものが矛盾している」というのとは違います。「矛盾」という概念は、もともと人間の論理にかかわるものなので、人間の認識とは独立な自然や社会そのものに矛盾があるはずはないのです。 ところが、「人間の認識は自然や社会の反映なのだから、人間の認識に<矛盾>という概念が必要だということは、自然や社会そのものに矛盾が実在していると考えるべきではないか」という人がいるので注意する必要があります。「人間の認識上で必要になったものは、みな自然の中に実在するとは限らない」のです。何度もいうように、人間が静止の論理でもって無理に表現しようとしなければ、矛盾など問題にならないからです。」 認識したものが実在の反映であり、反映したものが存在すると考えるのは観念論的妄想になる。確かに、反映をもたらした認識の対象はそこに存在するだろう。しかし、それが言葉で名づけたものだとする解釈が正しいかどうかは検討しなければならない。「リンゴ」を間違える人は少ないだろうが、ある現象を見てそれが「差別」だと名づけていいかは、解釈を間違えることもあるだろう。 それは、実在する対象を「差別」だと解釈したことを間違えたと理解すればなんでもないことになるが、「差別」と名づけたからには、「差別」をもたらした対象がそこに存在するはずだと考えると、解釈の間違いよりも、実在する「差別」を探すほうに注意が向いてしまうだろう。人間の認識の中にあるものが現実にも存在していると考える人には、本当に注意を要するだろうと思う。 かつてマルクス主義では矛盾の存在が議論された時代があった。それを解釈だと理解していれば害は少なかっただろうと思うが、矛盾を体現するものが実在すると考えると、これは危険な思想になるだろう。ブルジョアジーとプロレタリアートの間の対立を、矛盾と捉えるかどうかは解釈の問題だが、これが社会の根本的な矛盾だと捉えると、それが実在するとする考え方は、その矛盾を体現する実体を求めるようになる。 中国の文化大革命は、この矛盾を体現する人間として、知識人をそこに見出したのではないかと思う。知識人を弾圧するというのは、よく考えればそれがばかげたことであることがわかると思うが、知識人が矛盾を体現した人間であると思い込んでいれば、その矛盾を取り除くことこそが正しい行為だという判断も出てきてしまうだろう。 「矛盾」というのが抽象的な概念である限りでは、それを現実に探しても仕方がない。現実の対象は、それを「矛盾」と呼んでもいいかどうかという判断ができるだけだ。このときの解釈には、「矛盾」をどう定義するかという問題が出てくる。形式論理と弁証法では、この「矛盾」の概念が違うので、弁証法的な定義で「矛盾」と判断されても、それは形式論理の定義では「矛盾」とはいわれなくなる。 これは、その用語の違いをちゃんと意識して使い分ければいいのだが、どちらのイメージのほうが強いかということで、認識を取り違えるということが起きてくるかもしれない。「矛盾」というのは、語源的には、「どんな盾でも貫いてしまう矛」と「どんな矛でも貫かれない、それを防ぐ盾」の両方を売ろうとした男の物語にその起源を持つ。 これは、現実には両立し得ないものになる。どちらかは嘘なのだ。「どんな盾でも貫いてしまう矛」があってもいいが、そのときには、「どんな矛でも貫くことが出来ない盾」は存在しない。両方がともに成立するということはないのだ。そういう盾と矛は存在しない。この故事から、両立しない言明を「矛盾」と呼ぶようになった。つまり、「矛盾」の本来の意味は形式論理的な意味のものを指す。それは、思考の過程で排除される対立なのだ。 弁証法でいう「矛盾」は、似たように対立した言明を語るので、やはり「矛盾」と呼ばれている。例えば、心臓の動いている人間は「生きている」と判断される。しかし、その人間の個々の細胞を観察すれば、古い細胞が新で新しい細胞が生まれているのを見ることが出来る。細胞という視点で人間を見ると、「死んでいる」とも解釈できる。 「生きている」と「死んでいる」は対立した概念であり、これを両方同時に主張すれば形式論理的な「矛盾」になる。しかし、弁証法では、これは視点を違えた判断だということで両立させる。同じ視点の基での両立を主張しているのではないので、形式論理的な矛盾ではない。 しかし、「矛盾」のイメージは形式論理的な意味が起源になっているので、それは排除されるべき判断だと受け取られやすいのではないかと思う。プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾も、弁証法的な矛盾であれば、必ずしも対立を解消して、どちらかを消滅させなければならないとは限らない。しかし、それが「矛盾」であると指摘されると、ブルジョアジーを倒してプロレタリアートの政権を樹立しなければならないという雰囲気が強くなるのではないかと思う。 このような用語の混乱が起こるようなら、弁証法的な意味での「矛盾」を「矛盾」とは呼ばないほうがいいかもしれないと僕は思っている。板倉聖宣さんは、『新哲学入門』の中で、社会の「矛盾」という言い方について次のように語っている。 「「社会の矛盾」という言葉の好きな人がいます。たとえば、「今の世の中は、金持ちはますます豊かになり、貧乏人はますます貧しくなるようになっている。このような社会の矛盾を何とかしなければならない」などというのです。しかしその場合、どんな矛盾が生じているというのでしょう。「金持ちがますます豊かになり、貧乏人がますます貧しくなる」というのは、確かに困ったことです。そういう状態が続くと、貧しい人々の間に不満が鬱積して、社会不安の元にもなり、豊かな人にとっても、住みにくい社会になる恐れがあるからです。しかし、そういう問題は、ただ「困った問題だ」といえばいいので、それを何も「矛盾だ」などといわなくてもいいでしょう。矛盾という言葉は、例の「矛と盾」のように、「こちら立てればあちらが立たず」というような場合にだけ使うべきだと思うのです。困った問題があったら、それを一つ一つ解決すればいいわけです。」 困った問題を「矛盾」と呼ぶと、もう一つ別の問題も生じるだろうと思う。この「矛盾」を形式論理的な「矛盾」だと感じてしまうと、それは排除されなければならない、取り除かれなければならないものになるが、形式論理的な「矛盾」は、まさに形式論理であるからには、放っておいても論理が破綻して「矛盾」が解消されるはずなのである。それは、取り除かれることが正しいものとして実在すると勘違いしてしまう。 このような「矛盾」が現実には少しもなくならないとしたら、現実は不条理だという感覚だけが残るだろう。実際には、その「矛盾」は形式論理的なものではなく、弁証法的なものなのであるから、視点(条件)を変えない限りなくならない。現実に視点が変わらないのであれば、矛盾はいつまでも残る。 マルクス主義の革命が失敗したのは、現実の条件を変えることに失敗したということだと思うのだが、これを「矛盾」だと捉えてしまうと、現世というのは不条理なものだというニヒリズムに陥ることにもなるのではないかと思う。困った問題は、それを「矛盾」と呼ぶのではなく、具体的に解決を図っていくことが建設的な方向になるだろう。具体的な問題は、抽象的に考えるのではなく、具体的に実践したほうがいいだろう。「矛盾」という言葉を使うと、それが反対のほうへ行ってしまうのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2007-06-16 18:01
| 論理
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