ゼノンのパラドックスについて考えていたとき、板倉聖宣さんの解釈をとても面白いものだと感じたことがあった。板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で「運動は矛盾である」ということについて書いているのだが、この「矛盾」というのは、弁証法的な意味での「矛盾」であって、形式論理的な意味での「矛盾」ではないということを指摘している。
ゼノンのパラドックスでは、「飛んでいる矢は止まっている」というものがある。飛んでいる矢というのは、運動している矢のことだが、これを瞬間という時間で捉えてみると、ある瞬間の時間にはその矢は空間のどこかに位置を占めていなければならない。そうすると、その瞬間を記述すれば、その矢はそこで止まっていると言わざるを得ない。 しかし、運動している矢が止まっているというのは、運動という概念に反する。これは、「運動している矢は運動していない」という肯定と否定とが同時に成り立つという「矛盾」を語っているように見えるのだ。これは形式論理を崩壊させるものではないのか。現実に矛盾が存在するのでは、現実を形式論理で捉えて合理的な思考の対象にすることが出来ないということになってしまうのではないだろうか。 このゼノンのパラドックスに対して板倉さんが提出する解釈は、形式論理というのは、対象を静止の視点で捉えて表現するというものだ。運動というのは、その概念の中に「静止ではない」というものがあらかじめ入っているものだ。運動が静止であるというのは概念に反する。だから、これは現実の観察によって得られる判断ではない。いわば形式論理におけるトートロジー(同語反復)だと言っていいものだろう。 「運動は静止ではない」という命題は、「運動は運動である」ということだ。運動は静止ではないのに、静止という視点でそれを眺めれば、静止ではないという矛盾が見えてくる。それがゼノンのパラドックスだというのだ。だから、ゼノンのパラドックスは、運動を運動という観点で眺めて、「飛んでいる矢は運動している」と語れば、その矛盾は消えてしまう。運動というものを静止の視点である形式論理で表現しようとすることによって、矛盾が現れてしまったというのが、板倉さんの解釈だった。 形式論理が、対象を静止の視点で眺めて表現するという指摘は、言われてみればなるほどと思うものの、なかなか気づきにくいものではないかと思う。気づきにくいものだから、ゼノンがパラドックスで指摘するような形式論理の展開を聞くと、そこから運動の矛盾を引き出して、形式論理的に矛盾しているのだから、運動は存在しないのだという背理法が正しいように感じてしまうのではないだろうか。 しかし、ゼノンのパラドックスによって否定される命題は、現実の運動の存在というものではなく、運動という静止ではない対象を、静止の表現である形式論理で表現したことが間違いだったということだ。「運動が形式論理で表現できる」という命題を否定した背理法だと解釈すれば、「運動は形式論理では表現できない」という命題が真理であると受け止めればいいことになる。 形式論理は、現実に存在する対象をすべて考察できるという道具ではないのだ。それが考察できる対象にはある条件があり限定されている。運動というものは、概念の中に弁証法性が存在して、それを捨象することが出来ないので形式論理で直接取り扱う対象にならないと解釈するのが正しいだろう。 しかし、数学の関数は変化を扱い、それを利用した力学などでは運動を扱うのではないかと感じる人がいるかもしれない。だが、関数が扱うのは「変化」そのものではない。力学が扱うのも「運動」そのものではないのだ。運動そのものは形式論理では表現できていないのだ。 力学で運動を考えるときは、ある瞬間における位置情報というものを物理量として扱う。それを時間の関数として捉えることによって、運動の結果としての位置情報の予測が出来る。それは、あくまでも運動の結果の予測であって、運動そのものの記述ではない。関数が記述できるのは、入力に対する出力の対応関係であって、それによって変化を読み取るのは、人間の認識が運動を運動のままで受け止めることが出来るので、その対応関係から運動の様子を読み取るからだ。人間がそれを読み取るからといって、運動がそこに表現されているのではないのだ。 物質が、ある瞬間にどこの位置に存在するかを表すのが、時間をパラメーターとした位置の関数の表現である。それは、運動を瞬間で切り取った静止の表現なのである。その静止から運動を読み取れるのは、例えばその関数をグラフ化したときの、グラフが表す曲線の流れをわれわれの目の運動が捉えるからだ。眼の運動によって、現実の物質の運動を読むので、それが対応して静止表現から運動が読み取れてしまう。しかし、それは静止表現であって、運動そのものの表現ではないと解釈することが重要だ。 力学では、瞬間の運動を分析するのに微分という方法を使う。このときに現れるのは、0(ゼロ)であって0(ゼロ)ではないという、対立を背負った極限という存在だ。この極限というものが、この対立を時間的にも同時に背負ってしまえばそれは形式論理的な矛盾になってしまう。数学や自然科学では存在してはいけないものになる。 だが、極限というのは、ある場面では0(ゼロ)になるが、違う場面では0(ゼロ)にならないという、二つの側面を見せはするが、それが時間的に同一の状況で見えることはない。微分の計算において、分母と分子に極限の△xが存在すると、そのときは約分されて消えてしまうと解釈される。つまり、この場合は極限△xは0(ゼロ)ではない。しかし、極限の△xが単独で数式に登場して、それが分数の分母になっていないときは、0(ゼロ)として計算して無視する。 つまり、計算に現れた極限△xは、同時に0(ゼロ)であって0(ゼロ)でないという扱いはしないのだ。ある状況では0(ゼロ)にするが、そのとき同時に現れる極限△xはすべて0(ゼロ)として扱わなければならない。0(ゼロ)でないとして扱うときも同じで、一つを0(ゼロ)でないとしたなら、同時に登場する極限△xは、すべて0(ゼロ)ではないとして扱って計算しなければならない。 極限が同じ存在であるにもかかわらず対立した二つの属性を「同時」に持っているというのは、常識から考えると、なかなか受け入れがたいものではあるが、それが時間的に「同時」に現れなければ、形式論理としての矛盾律は犯していないのである。 極限という、この矛盾を背負った存在は、運動を静止の表現である形式論理で表現しようとしたために必要になった工夫だと解釈したほうがいいだろう。運動という概念における弁証法性が、極限という存在によって形式論理の中で整合的に取り入れられたと考えられる。整合的という意味は、形式論理的な意味での矛盾にすることなく、つまり、肯定と否定とが形式論理的に「同時」には成立していないということだ。それは、視点の違いによってあるときは0(ゼロ)になるという肯定判断になり、あるときは0(ゼロ)ではないという否定判断になるということだ。その「時」が確定していれば、形式論理としては何の問題もない。 形式論理のメガネというのは、対象をあくまでも静止したものとして、動画ではなく写真として捉えるというメガネだ。このようなメガネは、対象を合理的に考察しようとするときに有効性を発揮する。これは、人間の認識が、基本的には動画を動画として本当に捉えることは出来ず、原理的には静止画の写真が重なったものとしてしか認識できないからではないかと思う。 映画というのは静止画を連続して見せることで、そこにあたかも動画があるかのように感じさせるものだ。それが動画であると見る、つまり運動が存在すると感じるのは錯覚であるが、人間にはそう見えてしまう。現実の運動の観測においても、人間の観測はそうならざるを得ないのだろう。人間が観測できるのは、運動の瞬間の像である静止画だけで、それが本当の意味で連続しているという動画の認識ではない。 本当の意味で連続しているという認識が出来てしまうと、人間は実無限を把握できるということになってしまう。連続という概念は、実数の概念に特徴的だが、どこで切っても隙間がないという認識になる。切れ目がないのでつながっている、連続だということになる。その概念を数学的に表現するとデデキントの切断の考え方になる。 もし連続というものを現実に把握したなら、どこまでも分割可能な、切れ目のない存在を認識したことになるので、ゼノンのパラドックスにおける「アキレスと亀」のように、空間を無限に分割できるということが現実に出来ると主張しなければならない。無限に分割できるということが有限の時間内に行えるというのは、形式論理的な矛盾になり、現実には存在し得ない。人間には、実無限を形式論理で捉えることは出来ない。だから、本当の意味での連続も捉えることが出来ない。これは運動を運動のままで形式論理的な思考の対象に出来ないということと同じだ。 「運動」「連続」「無限」という対象は、それを直接形式論理で表現することが出来ない。だから、ある意味ではこれを考察の対象から除いてしまえという方向も出てくるだろう。実際、直感論理と呼ばれる方法ではそのような主張をしているのではないかと感じる。 しかし、これらを考察の対象にする工夫をして、形式論理の中で弁証法的矛盾を表現する方法を見出すと、そこから実り豊かな結論を得ることが出来る。力学によって、運動の結果が将来どうなるかの予測が正確に出来るようになるし、形式論理によって、複雑に絡み合った論理的関係にあるものが、結果的にどうなるかを論理的に予測することが可能になる。未来に対する予測の正しさという実りある成果がもたらされる。 ここに形式論理のメガネのすばらしさがあるというのを板倉さんも上の著書の中で語っている。等号の論理というものもそのひとつだという指摘はすばらしいものだ。イコールであると同時にイコールではないという矛盾律は等号においては排除される。等号の論理は形式論理だ。しかし、等号は「A=A」というトートロジーを語っても実りは少ない。 「A=B」という等号を語るときに、その形式論理は実りある展開を見せる。AとBは、まったく同じものではない。少なくとも文字としては違っている。それなのになぜ等号が成り立つのか。それは、「同じ」という判断をする視点が違っているからだ。文字として見ればそれは違っている。しかし、Aが表現する内容とBが表現する内容を比べて、その中に同じものを見ることが出来ると、その視点で等号が成立する、つまり同じだという判断が出来る。 マルクスが、二つの商品が質も量も違うのに、商品価値という視点で等号が成立するという視点から、その経済学を展開したように、違うものの中に同じものを見るという、弁証法性を形式論理の中に取り入れる工夫が新しい発見をもたらしてくれる。形式論理のメガネというのは非常に役に立つ。そのポイントは、対象を静止したものとして捉えるということだ。このポイントで見ていくと、今まで矛盾として、常識にあわないと思われているようなことも、形式論理の中でうまく表現されているのだということを理解することが出来るのではないかと思う。量子力学の理解に応用してみようかと思う。
by ksyuumei
| 2007-06-15 10:04
| 論理
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