直感の及ばない対象を論理的に把握すること

量子力学について調べていると、極微の世界などの直感の及ばない対象に対して、どのようにして概念を作るかという問題を感じるようになった。直接眼に見ることの出来ない存在を、我々はどのようにして把握しているのだろうか。これは、極微の世界だけではなく、抽象的な概念であるものの多くも、直接見ることが出来ないものであるにもかかわらず、我々は何らかのイメージを基にそれを理解していると考えざるを得ないだろう。

社会というものは、これが社会だという実体を指し示すことが出来ない。板倉さんは、個人の法則と社会の法則とは違うというようなことを語っていた。社会の法則は、多くの場合統計的なもの・確率的なものとして現れる。だから、社会という存在を科学的に捉えようとすれば、それは確率的な把握の仕方をしなければならないのではないかと考えられる。宮台氏の社会学が確率論を基礎にしているというのは、科学としての意味を強く感じるものだ。

萱野さんが語る国家というものも、国土や国民という実体を指して、これが国家だと言えるものではない。国家という実体は見つからない。だから国家は幻想に過ぎないという言い方も出てくるのだろう。しかし、国家を幻想として片付けたからといって、国家に弾圧される人々にとっては、国家は弾圧する暴力をもった機能としてそこに存在していることは確かだ。国家は、合法的に暴力を行使するという機能としてそれを捉えるしかなくなる。



あるものが実体として存在するとき、その実体を指して概念を説明するということは、日本語を教えるときなどによくすることだ。特に名詞を教えるときにはそのようにすることが多いし、簡単なものはそれで言葉を教えることが出来る。野菜や果物の名前を教えるときなどは、実物あるいは写真や絵を示して、その名前を教える。これは同じ対象を呼ぶ言葉がほとんど外国語にもあるので、対象を指し示すことで日本語でどう呼ぶかが理解されることが多い。概念が同じであることを基礎にして言葉が通じる。

これが動詞や形容詞になるとちょっと難しくなる。例えば、ある人物がバスを「待っている」絵を見せて、「待つ」という動詞を教えたいと思っても、その人物は「立っている」とも捉えることが出来る。そうすると、その絵は「立つ」という動詞の概念を表現しているともいえる。見ただけではどちらの概念なのかが分からない。日本語指導の場合は、「待つ」か「立つ」かは、同じ意味の外国語があるので、そちらに翻訳して教えることにもなるが、そのようなことが出来ない言葉の場合、概念を何か実体を指して教えるというのは、動詞の場合は難しい。

同じようなことは形容詞の場合にもいえる。その対象が、「大きい」「新しい」などという属性を複数持っているときは、どれを指しているかは、それを認識する人間の判断に寄っている。どちらが選ばれるかは対象そのものが持つ属性ではない。どの側面を見ているかという、認識する側の視点の問題を含めて語らなければ、形容詞の判断を伝えることが出来ない。

それでも、動詞・形容詞の場合は、対象の属性を表現するという点では、どれを指しているかという問題はあるものの、いくつかある選択肢の中のこれだ、という形で示すことが出来る。しかし助詞の場合は、そもそも対象となる実体がない。これは、認識の捉え方を直接表現したものとして言葉になる。概念は極めて抽象的になってくる。「を」という動詞は、ある種の動詞の対象として、何らかの実体を志向しているものとして表現されている。しかし、それがいつでも「を」で表現されるとは限らないところに言葉の難しさがある。


  公園 を 散歩する。
  公園 で 散歩する。


という二つの表現を比べてみると、「を」の助詞を使った場合は、散歩をするという行為の対象として公園というものが選ばれているという表現者の認識を感じる。それが「で」で表現されているときは、散歩という行為が行われている場として公園が意識されているという読み取りになる。しかし、この行為を比べてみても、行為自体には違いはない。あるのは認識の違いだけになる。これは、日本語話者としての日本人には、身に染み付いた認識だが、そうでない外国人にとっては、どこに違いがあるのかが分からないだろう。「を」と「で」の概念の違いが把握されていないからだ。

名詞というものが理解しやすいのは、それが実体の属性に直接言及できる言葉だからではないかと思う。だが、この名詞も、複雑な内容を持つものになるとだんだんと理解が難しくなる。例えば、病院や学校という名詞について、外国にもそのようなものがあれば、建物を指差すだけで病院や学校というものを教えることが出来る。しかし、名詞の実体としては、病院や学校というのは建物を呼ぶ言葉ではない。病院は医師がいて、病気になった人間が治療のために訪れるというような意味を含めて概念化されている。それは、すでに病院というものの概念を持っているから、建物を指差すだけで病院という言葉が理解されるのである。

もし概念を持っていないものを指差して、例えばこれは床の間だというふうに言って、ある部屋の絵を見せても、床の間という概念が伝わるかどうかは難しい。概念の理解には、それが抽象的であればあるほど、実体を指差すだけでは足りなくなる。抽象の最たるものである科学的な学術用語に関しては、その概念はどのようにして形成することが教育的に有効な方法になるだろうか。

板倉さんは、仮説実験授業において、科学的思考において重要になる基礎概念を正しく把握することを教えるというようなことを語っていた。例えば、「原子」という概念を正しく把握していれば、原子は現実世界においては消滅することも無から発生することもないということから、重さの不変性などの物質的性質が論理的に導かれる。これが法則性として認識されると、体重計の上で、片足で立っても・力を込めてふんばっても、それが人間の身体を構成する原子を増やすことはないので、体重は変わらないという結論を、実際にやってみる前に理論的に導くことが出来る。

「ばねと力」という授業では、物質的存在にはすべてばねとしての性質が存在するという基礎概念を教える。ばねというものを実体的に把握しているだけでは、金属をたくさん巻きつけたようなものしかばねと呼ぶことが出来ないだろう。しかし、物質的存在がすべてばねとしての機能をもっていると理解すると、物理で言う「抗力」という反作用の力が理解できる。反作用の力というのは、物質が何か押されるような力を受けたとき、その力と同じ大きさの力で押し返すというようなものだ。まるで、物質が意志のある存在であるかのように抵抗するというのは、ちょっと不思議な感じがするのではないだろうか。

板倉さんに寄れば、これは、計算結果を合わせるためのご都合主義的な解釈に見えたそうだ。そんな力があるかどうかは分からないが、それがあると仮定して計算すると、その結果が現実の現象とよく合うということだ。しかし、ものがすべてばねの性質を持っていると考えれば「抗力」は納得して理解することが出来る。ばねというのは、押されたら押し返すという性質を持っている。ばねは元の形に回復しようとする性質を持っているからだ。ものはすべてばねの性質を持っているというふうに、ばねの概念を拡張したときに、「抗力」という概念が正しく把握できる。

机の中にばねを見るというのは、直感が及ばない見方になる。しかし、机の上に辞書などを乗せると、その辞書の重さの分が机にかかり、机は同じだけの力で辞書を押し返すというのが力学的な解釈になる。このような見方は、そういうふうに見た方が都合がいいのだという見方では理解が図れない。そのような見方は、よく理解は出来ないけれど、とりあえずそういうふうにしておいたほうが便利だというだけに過ぎない。

このような理解の仕方は、この問題の解答はこの計算をすればよいという公式が分かっているときは、その特定の問題を解くことが出来る。しかし、新たな問題に遭遇して、その問題を合理的に考えて解決を図るということが出来ない。ものはすべてばねの性質を持っているという「抗力」の概念の把握をすることで、対象を合理的に考察するということが出来るようになる。

直感の及ばない対象を論理的に把握するということは、その概念を使うことによって、物事を考えるという理論展開ができるということになる。直感が及ばない対象を、直感だけで把握して、論理的な把握が出来なければ、それは合理的な思考の道具としては使えなくなる。

国家というものを直感的に把握している人、つまり国家が現実に見せる一面を経験的に知って、その面を国家の概念に直接結び付けている人は、国家の不当性を強く見ていた場合は、反国家的な思考をするようになるだろう。国家のやることはすべて悪いことのように見えてしまうに違いない。だが、国家の概念を論理的に把握する人は、国家のやることがいいか悪いかという価値判断をする前に、そこに必然性があるかどうかを合理的に考えるようになるだろう。萱野さんの姿勢にそのようなものを感じる。

対象が直感の及ばないものであるにもかかわらず、それを直感だけで把握しようとすると認識において間違いを犯す。しかし、論理だけで対象を把握しようとすると、それは公式的なご都合主義に陥る危険もある。論理と直感をどうバランスよくつかんでいくかが重要だ。それがうまくいくような方法を見つけたとき、教育は大きな成果をつかむことになるだろう。

論理という抽象的なものと、直感のような具体的なものとを結ぶものとして、水道方式を考案した故遠山啓先生は「シェーマ」というものを提唱した。これは、数を教えるときに使われた「タイル」と呼ばれた教具の持つ性質を概念化したものだ。「タイル」は正方形の実体という具体性を持った現実存在だが、それは個数という性質のみがクローズアップされて見えてくるような存在として提出されている。つまり、ある性質が抽象されて、他の性質が捨象されるような工夫がされている。

数を教えるときには、伝統的に棒やお金などが使われていたが、棒は、10個ずつ寄せ集めたときに、それが10個という単位であることが分かりにくい。10進法という位取りの数の性質を抽象することが難しい。お金は、それでものが買えたり、価値が高いというような余計な属性があって、捨象が難しくなる。「タイル」はこのような欠点が最も少ないものとして考案された。

「量子」「社会」「国家」などの概念の理解に、直感的な把握にも役立ち、しかも論理的に抽象する点でも間違えないような「シェーマ」に当たるものが発見できないだろうか。今、量子力学については入門書を調べているのだが、その中からうまい説明を見つけて、シェーマに当たるものを見つけてみたいと思う。また、数学において、直感の及ばない対象として「無限」の概念について考えてみたいとも思う。果たして、これを論理的に正しく把握するにはどのような概念がふさわしいのだろうか。単にたくさんあるという直感では、有限であっても大量にあるものとの区別がつかなくなる。「無限」の把握が出来るような論理的な説明があるものかどうか考えてみたい。
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by ksyuumei | 2007-06-14 10:37 | 方法論


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