三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本を書いている。僕も若いころに何度もこの本を読んだ。そのときには「科学」という言葉にさほど注意をすることはなかった。だが、板倉さんを通じて仮説実験授業を知り、板倉さんが語る仮説実験の論理による科学の成立ということに科学の本質を見るようになってからは、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは間違いではないかと思うようになった。
板倉さんの解釈では、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは、比喩的な意味で言ったのであって、それは観念的なでたらめとは違うというようなニュアンスで「科学」と言ったのだと受け取っていたようだ。弁証法的な言説はたいていの場合は詭弁となり、でたらめになってしまう。しかし、対象の弁証法性を正しく捉えているときには正しい言説になる場合もあると理解したほうがいいということを語っているものとして解釈していたようだ。弁証法においては、どのようなときに正しくなるかを判断することが大切だというわけだ。 だが、板倉さんは後に、三浦さんが本当に弁証法を「科学」と考えていたようだと語っていた。三浦さんは、板倉さんが言う意味での仮説実験の論理を基にした「科学」の概念を持っていなかったという。三浦さんの言語学は、言語に関するあらゆる知識を求めて、その知識の中での整合性を取っているが、実験によってその正しさを確認するという手続きはない。三浦さんは、あらゆる角度から対象を眺めて、よく考え抜いた末の結論は、その思考の深さによって真理を与えると思っていたようだ。これは板倉さんが語る「科学」の概念とは違う。僕は三浦さんを師と仰ぎ尊敬しているが、弁証法に関する理解では板倉さんに賛同する。 現実に存在する対象は、いくらよく考え抜いたとしても、そのすべての属性を把握することは原理的に出来ない。未知の部分は発見されてから未知だと判断されるのであって、発見されるまではその存在すら思考できない。未知の部分が存在するという可能性は、現実存在に対しては、それが現実にあるということを前提にする限りでは排除できないのだ。 だから「科学」では、対象の未知の部分を捨象して、理論展開のための抽象的対象を設定して、まず理論構築の部分をモデルとして構築する。そのときは、未知の部分が捨象された抽象的対象となっているので、属性をすべて把握したものとして数学の適用が出来る。逆にいえば、数学が適用できるような形で対象を抽象するといったほうがいいかもしれない。すべての科学的な理論の基礎には数学がある。だからこそ科学としての理論は信頼できるとも言えるだろう。 理論を構築した時点で考察が終わるなら、それは「科学」と呼ぶよりも「数学」の一分野、究極的には「論理学」の一分野と呼んでもいいかもしれない。経済学などはそのような道を歩んでいるらしい。宮台真司氏の社会学も、確率論を駆使したり線型代数を使ったりするという。数学を基礎にした理論であるからこそ、「科学」としての資格を有するのではないかと思う。 数学的・論理的な理論展開だけでは、「科学」としては必要条件は満たすが十分条件を満たしていない。それは現実を対象にしたときも有効性を持たなければならない。そうなって初めて「科学」は「真理」として認識され、「科学」としての資格を獲得する。それが仮説実験の論理による検証だ。「科学」が現実をよく説明し、未来に対する正しい予測を語るとき、「科学」は「真理」としての資格を獲得する。 科学の理論構築においては、現実対象から何らかの属性を末梢的なものとして捨象している。その捨象が正しいものである限りでは、現実の対象に科学を適用したときも、科学が正しい未来予測が出来ないときは例外的な場合だけに限られる。つまり、ほぼ100%に近い未来予測が出来、例外的にそれが外れるときは、どのような例外によって予測が外れたかも理解できるとき、「科学」は100%正しい真理なのだと言えるわけだ。捨象した条件が、未来予想に関してどのように影響したかが分かれば、その捨象が正しかったかどうかも判断できる。 科学は、このように論理的整合性を持った理論展開を基礎にして、現実に対する有効性を獲得したとき、板倉さんが「バカの一つ覚え」と比喩するような100%正しいという真理性を獲得する。このような科学の概念から考えると、弁証法というのは科学ではあり得ないと結論しなければならない。 弁証法は、対象の弁証法性を正しく捉えたときは真理を語るが、対象が弁証法性を持たない部分に対して適用すれば、それは詭弁になりでたらめになる。弁証法は、未知なる対象に適用して真理をもたらすことが出来ない。逆に、対象をよく知った上で適用しなければ、弁証法の適用そのものが間違いになる可能性がある。これは板倉さん的な科学の概念とはまったく違うものになってしまう。 三浦さんは『哲学入門』(仮説社)の中でことわざを使って弁証法を説明しているが、ことわざというのは科学ではない。それは、それが正しくなる条件をよく知っていて適用しなければ、ことわざの有効性は発揮できない。「バカの一つ覚え」のように、いつでもそのことわざを適用しようとすれば、軽蔑的な意味での「バカの一つ覚え」になってしまう。 「悪に強きは善にも強い」ということわざがいつでも正しいものであれば、悪人ほど結果的にいいことをするということになるが、ヒトラーの例に見られるように、一時期はいい事をするかもしれないが、結果的には悲惨なことになる。どのような条件のときにこのことわざが正しくなるかを知らなければ、これを現実に適用することが出来ない。そして、それは経験から学ぶしかない。経験以前に条件を測定して正しい適用をすることが出来ない。 ことわざ的な真理を、いつでも成立する科学的な真理と取り違えると、精神主義的な間違いを犯すだろう。心がけさえ正しければ望むことが実現する、というのが精神主義だが、心だけでは現実的な物理的条件が整わないので、これは現実的な条件から否定される。それでもこの命題が正しいと思い込んでいれば、それは心がけが悪くて実現されなかったのだと判断してしまうだろう。弁証法が詭弁になりでたらめになるきっかけはこのようなところにあるのだと思う。精神主義が正しい時もあるが、間違っている時もたくさんある。現実の条件を経験によって知ることで正しく適用できる、と捉えるのが正しい弁証法の適用だ。 弁証法というのは、対象に対する考察で、ある命題が正しい場合もあるし、正しくない場合もあるということを教えることに価値がある。常にそれが正しいのだということを証明することは弁証法の仕事ではない。それは形式論理の仕事であり、現実を語るときは科学がその仕事をする。 板倉さんが、弁証法は発想法として使うときにもっとも有効性を発揮すると語るのは、このような意味でのことだと思う。対象に対する考察をしているとき、それが正しくなる場合も、正しくならない場合も、経験的によく知っているときは、人は弁証法の適用を間違えることは少ない。しかし、経験的に常に正しいという現象を見ていると、それが正しいことが自明の前提になってしまい、正しくない場合もあるという発想は持ちにくくなる。 それが間違っているという経験を持たなくても、あえてそのように考えてみることが、発想として弁証法を利用するということだ。これは、理論展開が行き詰まってしまったときなどに有効だ。現実に「矛盾」が見えてきたときに、その「矛盾」をそのまま理論の中に取り入れてしまうと、形式論理が崩壊して理論そのものが無価値になってしまう。理論を崩壊させずに、その「矛盾」を取り入れるには、「矛盾」を発生させた原因として、自明だと思っていた事柄にもそうでない場合があると捉えたほうがいいことがあるだろうと思う。 弁証法的に考えるのは、「べき論」にとらわれていて、教条主義的な堂々巡りに陥っているときにも有効だ。学校において、子どもは勉学に励むべきであると考える人はもう少ないと思うが、このようなべき論は、現実に勉学に励むことが困難な子どもが多数を占めると、現実の問題を解決することが出来なくなる。どうやったら子どもが勉学に励むようになるかという方法論を提出できないのだ。 「べき論」からスタートすれば、そうなっていない現実が間違っているのだから、精神を鍛えるという精神論以外に処方箋が出てこない。そして、そのようなやり方は、たいていの場合有効性を発揮しない。弁証法は、そのようなやり方が有効なときもあるということを教えてはくれるが、それがいつも成功するものではないということも教える。そして、現在の状況では、精神論では成功しないときがほとんどだということを経験的に知ることになるだろう。 「べき論」がうまく行くのは、現実がその「べき論」を成立させる条件を持っているからだ。だが、現実がその「べき論」でうまく行かなくなったら、その「べき論」が間違っているかもしれないという弁証法的発想をしたほうがいいだろう。これは、教条主義にとらわれていたり、その「べき論」が道徳的に正しかったりすると困難だ。あえてそのように考えるという、弁証法的発想という方法がなければ出来ないことだろう。 弁証法と形式論理との関連では、最近量子力学について調べている。量子力学の基礎概念である「粒子性」と「波動性」の二重性については、これは互いに対立する概念であり、この両者を同時に持つというのは「矛盾」として捉えられている。しかし、この「矛盾」が形式論理的に、ある命題の肯定と否定が「同時」に成り立つというものであれば、量子力学は形式論理を否定するものになり、合理的な思考では捉えられないものになる。 これはたぶんおかしいだろうと思う。量子力学は、どれほど奇妙な結論を語っていようとも、科学として形式論理に従うのだと思う。ということは、この「矛盾」は形式論理が排除する「矛盾」ではなく、視点の違いからもたらされた、一つの存在が対立する側面を見せるという弁証法的な「矛盾」だろうと予想できる。 この「矛盾」は、観測そのものが対象の存在や運動に影響を与えるという、極微の世界を考察することによって引き起こされたものだ。それまでは、このような極微の世界は、人間の考察の対象外だったので、観察して対象の正確な知識を得るということの自明性を疑う経験がなかった。だが、極微の世界までもが観察の対象になってくると、その自明性を疑わざるを得ない経験が起こったのだろうと思う。このときにそれを整合的に理解するために弁証法的発想が必要になったのだと思われる。 形式論理的に考えれば、粒子性と波動性は、時間的な同一のもとでは起こらないはずだ。しかし、観察そのものが対象の運動と位置情報に影響を与え、観察することでそれが変わってしまうなら、それを同時に確定することができなくなるという原理的な問題が起こってくる。つまり、同一の時間において、その対象が粒子性を持つか波動性を持つかが確定できなくなるだろう。それは未知にとどまるので確率的な理解をするしかない。その確率的な理解が、粒子性と波動性という、二重の性質の並存という対立を生むのではないかと感じる。そして、そのように理解すれば、形式論理を破綻させないですむのではないだろうか。基礎概念の解説書を調べて、このあたりの論理的理解がどうなっているのかを調べてみようと思う。そして、この概念の理解に形式論理が役立つものであることを確かめたいと思うものだ。
by ksyuumei
| 2007-06-13 10:12
| 科学
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