ロジック(形式論理)的センスの訓練

僕は昔からのパズルファンでそれが数学への道にも通じていたのだが、今でもよく遊ぶパズルは<イラスト・ロジック>と<ナンバー・プレイス>と呼ばれるものだ。これは知らない人に説明するのは難しいのだが、僕がこの二つのパズルを特に気に入っているのは、それが極めて形式論理的な構造を持っていると思えるからだ。このパズルは、かなり純粋な形で形式論理の考え方を使うことが出来る。つまり、ほとんど予備知識なしで、論理のみでパズルが解けるようになっている。

形式論理を日常言語の表現に対して応用しようとすると、その日常言語的な表現をまず確定しなければならないという問題が起こってくる。形式論理というロジックにおいては、確定しない表現に対してそれを適用することが出来ないからだ。対象に対する立ち位置や視点が違ってくると解釈が変わってくるような問題は、その立ち位置や視点をまず確立した上でロジックを適用しなければならない。そうでなければ、対立した解釈が両立してしまうという弁証法性を逃れられなくなる。弁証法性を持つ対象に対しては、形式論理というロジックを適用することが出来ない。それを無理やり形式論理を当てはめてしまうと矛盾が生じるという困った状態が起こる。

<イラスト・ロジック>や<ナンバー・プレイス>の場合は、そのパズルのルールの解釈は、複数の受け取り方を許さない。誰がやろうとも同じ解釈のもとに、同じ判断がもたらされる。だから、問題に不備がない限り、そのパズルは誰が解いても同じ答になる。ちょうど数学の答が、結果的にはみな同じ値になるように。




僕は、この二つのパズルを、ロジックの訓練に使えないかとずっと考えている。それはロジックのセンスを磨くのに役立つのではないかと感じている。ロジックのセンスとは、「矛盾律」と「排中律」という言葉で呼ばれているものの理解を直感的に行うものだ。対立した二つの主張が両立しないというのが「矛盾率」であり、ある事柄の肯定と否定とのどちらかが必ず成り立つというのが「排中律」と呼ばれるものである。

<イラスト・ロジック>は、連続した格子を塗りつぶすという数字のヒントをもとに、塗りつぶされた格子の結果があるイラストになるというパズルだ。これが形式論理として捉えられるのは、このパズルが、どの格子に対しても、それが塗りつぶされるかどうかということが「矛盾率」と「排中律」を満たすように考えられているからだ。

ある格子が、塗りつぶされると同時に塗りつぶされないということはない。矛盾した・対立した判断は両立しない。矛盾は排除される。また、その格子は塗りつぶされるか塗りつぶされないかどちらかに決まる。どちらにも決められないということはない。また、半分だけ塗られるというような第3の場合は排除される。

<ナンバー・プレイス>の場合は、縦横9個ずつの方眼の中に、1から9までの数字を一つずつ入れていくのだが、縦・横の一列には同じ数字が入ってはいけない。また、縦横3個ずつの小さい方眼の中にも、1から9までの数字が一つずつ入るように数字を入れていく。

これが形式論理的になるのは、どの方眼の場所にも、例えば1の数字が入ると同時に他の数字も入ってしまうということがない。矛盾した場合が両立しないようにパズルが作られている。そして、そこには1の数字が入るか入らないかのどちらかが決定される。第3の場合はない。

この二つのパズルは、形式論理の持つ特徴を、それだけを意識して考察を進めることが出来る。基礎知識として要求されているのは、せいぜいが数字の簡単な理解くらいだろうか。数字の数え方と、1から9までの書き方くらいを知っていればパズルを解くことが出来る。かなり純粋な形でロジックの思考を使うだけでパズルを解くことが出来る。

このロジックの思考のセンスを磨くと、形式論理で捉えるべき対象に対する理解が深まるだろう。この場合は、考察している対象が、形式論理で捉えることによって正確な理解になるという前提が大切だ。この二つのパズルは、「矛盾律」と「排中律」が成立するように工夫して作られている。だが、もしパズルの作成に失敗すると、この形式論理の法則が成立しないような問題が出来てしまう。

そのような失敗作のパズルでは、<イラスト・ロジック>の場合で言えば、ある格子が塗りつぶされるかどうかが決定できなくなる。それは塗りつぶされる可能性もあるし、塗りつぶされない可能性も出てくる。答が一つに決まらずに、二つの答が両立してしまう。<ナンバー・プレイス>の場合は、ある方眼の眼に、一つの数字が入ることが決定できずに、複数の可能性を残してしまうような問題が失敗作だ。

このような失敗作が生まれたときに、形式論理をどう理解するかということがまた重要になる。形式論理が通用しない問題の存在を事実として重視しすぎれば、形式論理には通用しない場合があるというような解釈をしたくなる。つまり、これは形式論理の限界を物語るものだと受け取ってしまうわけだ。

だがそれは間違った受け取り方だろう。そのようなパズルの失敗作は、パズルに不備があるのであって、形式論理がパズルの不備の責任をとらされるわけではない。それは、形式論理の適用の対象としてはふさわしくなかったというだけのことなのだ。形式論理は、依然として正しいものとしてそこに存在する。

このような発想は、うっかりすると「パズルは形式論理に従うべきだ」という「べき論」のように受け取られる恐れがあるが、そうではない。不備のあるパズルは、パズルとしての機能を果たさないという事実の問題を語っているだけだ。つまり、不備のあるパズルは、パズルではなくなるというだけのことなのだ。パズルという存在の属性が、形式論理的でなければならないというような、パズルの必然性を語るものではないのだ。

自然の法則性のように、パズルというものがそのような属性を法則として持っているのではない。パズルに対して、そのような性質を要求するのは、そのほうがパズルが面白いものになるし、答が一つに決まるようなパズルのほうが、解く甲斐があるということに過ぎない。つまり、パズルをそのように規定するのは、人間の恣意性であり、他の定義をすることも可能なのだが、そのように定義したほうがパズルが面白だろうという好みの問題なのだ。

パズルは自然に存在するものではない。だから、人間がそれを定義して、形式論理に従うような存在として概念化することが出来る。これが、自然に存在するような対象を考えるときに、それをあるがままに観察して属性を求めるような扱いをすれば、形式論理で取り扱うことは出来なくなる。形式論理で取り扱うためには、パズルのように、自然には存在しない対象を定義しなおして、形式論理で扱える対象として概念化しなければならない。

自然科学における学術用語は、すべてそのようにして定義しなおして使われているため、形式論理に従った理論展開ができる。そして、形式論理の一分野である数学が適用できるようになる。

自然に存在しているものを、あるがままに観察すれば、立ち位置や視点を変えれば、いくらでも対立する解釈が生まれてしまう。形式論理としての「矛盾律」や「排中律」が成立せず、現実存在の弁証法性が見えてきてしまう。形式論理としてのロジックのセンスの中には、対象が形式論理に従う形になっているかどうかの判断ができるというセンスも含まれる。これは非常に重要だ。

宮台真司氏が、小泉政治を語ったときに、「景気の回復」と「構造改革による小さな政府」は、論理的に両立しないことを知らなければならないというようなことを語っていた。「景気の回復」というのは、高度経済成長のときのように、誰もが豊かになるということを意味する。しかし、構造改革をして小さな政府にすれば、景気回復において政府の役割は小さくなる。ケインズ的な公共事業によって景気を刺激するというような政策は出来なくなる。

これを形式論理的に捉えれば、どちらを選ぶかという二者択一の方向を取らなければならない。どちらも希望するということは出来ないのだ。では、この対象は、弁証法性を持っていて、どちらも成立する可能性を持っているものだろうか。「景気の回復」が、政府主導ではなく、民間が主導してやるのならば、政府の政策とは関係なく起こる可能性はある。だが、そうであるなら、それを小泉さんに期待するのはナンセンスということになるだろう。

この二つのものを政府に期待するのは、形式論理としては成立しないのであり、また形式論理的なものとして捉えなければならないものだと思う。少なくとも、ケインズ的な政策のほかに、政府主導で景気対策が有効に働くというような理論が見つからない限りは、これは形式論理的な対象になるだろう。

安倍政権は、戦後スキームからの脱却を主張しているようだ。この実現が、今抱えている教育の問題や治安の問題・官僚の腐敗を始めとする構造改革の問題と形式論理的に矛盾しないものであるかを考えるのは面白い考察ではないかと思われる。そのためには、形式論理の考察にふさわしいような形に問題を設定しなおす必要があるだろう。弁証法性を温存したまま形式論理的考察をしないように注意しなければならない。考えてみたいことだ。

もう一つ考えてみたいと思っているのは、合法性という概念だ。萱野さんは、国家の暴力を考察するときに、そこに合法性という正当性を見ていた。これは道徳的な正当性とは違うという考察をしていた。

国家というのは、自らが法律を設定する機能を持っている。ということは、自らの暴力が合法性という正当性を持つことを、自らが設定する法律で基礎付けることができるということだ。だから、国家においては合法性は、必ずしも他の意味での正当性をもたらすことが出来ない。道徳的に正当かどうかは、現実の存在を出発点にして考えなければならないから、弁証法性を免れない。だから、合法性という正当性は持っていても、視点を変えれば、道徳的な正当性は否定されるということはありうる。

しかし、この合法性という判断は、合法であるかどうかが決定できなくなれば、それは法としての機能を果たさなくなるのではないだろうか。つまり、概念として合法性は形式論理に従わなければ、それを考察する意味がなくなってしまうのではないかと思われる。合法性というのは、自然の観察によって発生するものではなく、法の定義から導かれる形式論理的なものと捉えなければならないのではないかと思う。

もし合法性に対して疑問が大きくなるようなことがあれば、それはパズルの答が一つに決まらないパズルを不備のあるパズルと考えたように、不備のある法律であると捉えたほうがいいのではないかと思う。合法性が形式論理に従わない場合があると解釈するのではなく、合法性はあくまでも形式論理に従うということが、概念から導かれる前提とされなければならないのではないかと思う。

法律に人情を求めるのは、人間の感情としては自然だと思うが、合法性の判断は冷徹な形式論理的判断が正しいのではないかと思う。詳しく考えて見たいことだと思う。
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by ksyuumei | 2007-06-07 10:03 | 論理


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