イデオロギーを排した思考の方法論と、イデオロギーに支配された思考の誤謬論

イデオロギーとは、「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態」と辞書的には定義されている。ということは、イデオロギー的なものに影響された思考というのは、その帰結が「歴史的、社会的立場に制約された」ものであると捉えられている。本来ならば、その時代の特殊性に縛られているはずなのに、それを捨象してしまって普遍性があるかのごとくに勘違いするところに、イデオロギー的な誤謬の本質があるような気がする。

これは、人間の思考がパラダイムという枠組みの影響を免れないということから言えば、そのパラダイムでさえも思考の対象に出来るという、時代の制約を超えた視点を持たなければ克服できない誤謬だ。これは、再帰性というものを反省の対象にすることが出来た近代になって初めて気がつかれたものではないだろうか。近代以前の社会では、どれほど優れた人間であろうとも、時代の制約そのものを反省の材料にして自分の思考の結果を検討した人はいなかったのではないか。

マルクス主義というイデオロギーが人々を支配した時代も、そのイデオロギーそのものが前提として正しいものかということは発想することが難しかったのではないかと思う。おそらく、その時代には、マルクス主義を成り立たせていた条件がほぼ自明なものとして受け取られるような時代的制約があったのだろう。



近代成熟期に入り、マルクス主義的なイデオロギー的前提が、現実に成り立たなくなってきたことから、それに疑いの目を向けることが出来るようになったのではないかと思う。マルクス主義では「階級」というものを自明の前提のように設定していた。しかも、本質的にはブルジョアジーとプロレタリアートという二つの階級に抽象されていくものという前提が自明なものとして考えられていた。

しかし、近代成熟期になると、人間の社会的存在というのは多様性を増し、単純に二つの階級に区分できなくなり、階級という考えそのものさえ成り立たなくなるような現実がやってきたのではないかと思う。物理的条件としてはまったく同じように見える人間が、社会的にはその思考も行動もまったく異なっているというような多様性が生じたのではないかと思われる。

このように、自明だと思われていた時代性さえも再帰的に思考の対象になることによって、その帰結が一段高い普遍性のレベルに到達してきたのが現代のさまざまな主張の帰結なのではないかと思われる。今までは特殊性を普遍性と取り違えていたが、本当の意味での普遍性を求めようとしているように見える。あるいは、今までは時代に制約されてはいるが、その時代には一般的に成り立つ事柄を「普遍性」と捉えていたが、時代を超えてもなお成立するようなものを新たな「普遍性」として捉えなおそうとしているように見える。

これは、我々の思考のレベルが、かつての人々よりも優れているというよりも、時代が変わったおかげで、今まで見えなかったものが見えてきたということだろうと思う。我々の思考がパラダイムを超えることが出来るほど進歩したというより、事実性がパラダイムを変えてしまったので、思考もそれを受け取らざるを得なくなったといったほうが解釈として妥当なのではないかと思う。

このような時代に萱野さんが「~<政治>の思考~」というコラムで、「第6回 価値判断と認識」を綴っているというのは象徴的なことではないかと思う。ここで萱野さんは、「価値判断から認識を区別するということがとても重要になる」ということを語っているが、これはイデオロギーを排した思考を進めなければならないということと対応すると思った。

イデオロギー的な帰結というのは、実は論理の展開の結果として得られるものであるにもかかわらず、それが普遍化されてしまうと、次の論理の出発点に置かれてしまうものになる。それが論理の帰結であることが意識されていれば、論理の前提となる条件を忘れずにいることが出来る。しかし、帰結ではなく、普遍性を持った論理の出発点ということになってしまえば、それは数学的な意味での公理と同じものになり、検討するまでもなく真理性が保証されているものとして捉えられる。

このようにイデオロギーが論理の出発点になってしまうのは、そこに価値判断が先行しているからではないかと思われる。萱野さんは、「国家はそもそも存在すべきものなのか」という問いを価値判断として捉えている。これは、その肯定判断・否定判断が普遍的なものにはなりえず、信念の表明のようなものになる。だから、本来は論理の出発点にはなりえず、ある条件の下で考えれば、「国家はそもそも存在すべきものなのか」ということに対する肯定判断・否定判断のいずれかが出てくるものとなる。

だが、自分の感情として、どちらかの価値判断が正しいものだと思いたいと、その価値判断を正当化する条件を自明に成立するパラダイムとしてしまう傾向を持つ。これは、それが自明に成立すると仮定すれば、自分が望む帰結が正当化されるので、このパラダイムから逃れるのはかなり難しいだろう。そして価値判断が先行して打ちたてられた現実の前提は、論理の帰結として得られたイデオロギー的な主張を、今度は論理の出発点として要請してくる。

イデオロギー的な主張を論理の出発点にしても、論理的な整合性を取ることはいくらでも出来る。だから、そこに誤謬が入り込んでもなかなか分からない。論理的な誤謬は見つけるのは簡単だが、事実性の間違いは、それが明らかに分かるような形で出現してこないとなかなか分からない。むしろ、事実性の間違いを隠蔽するような論理のつじつまあわせのほうが出来てしまうことがある。

経済学における自由主義は、自由こそが正しいという命題を論理の出発点にするそうだ。それが正しい根拠というのはどこにもないのだが、それを論理の前提に置いて、つじつまが合うように論理を展開する。この命題は、本来なら、ある条件の下にこれが正しくなるという論理的帰結であるべきなのだが、自由主義ではこれが論理の出発点になる。これが「主義」と名づけられる理由だろうと思う。

これが論理の出発点になると、経済において何らかの問題が生じたときは、自由が侵害されたことが原因で問題が生じたという論理の展開をするようになる。例えば、市場において失業だの恐慌だのという問題が生じるのは、どこかで自由が侵害されているからだという発想をする。自由さえ実現されれば、市場のメカニズムによって、その問題は解決されるはずだというのが論理的な帰結になる。

自由主義の経済学者が注目したのは、自由を阻害する存在としての労働組合だったということだ。賃金というのも市場において自由競争にさらされるべきだとしたら、他の価格が下がっているときに、賃金だけを下げないというのは自由を阻害することになる。賃金は適正な価格まで下げられるべきであり、その自由を阻害する労働組合は、資本主義的自由にとって害悪になるという結論になる。

これは、自由主義を論理的な出発点に置けば、論理的なつじつまは合わせられるだろうと感じる。しかし、現実の事実としては何が見えてくるかといえば、下げられた賃金では食えなくなった労働者の生活の困窮がまず見えるだろう。そしてその生活の困窮から逃れる方法がなければ、犯罪的な方法を使ってでも生き延びようとする人々も出てくるに違いない。経済学的にはつじつまが合って、経済の問題は解決できたとしても、それ以上に深刻な問題を社会に引き起こす結果を招くのではないかと思う。その事実を見て、人々はこのイデオロギー的間違いに気づくのではないかと思う。

イデオロギーが価値判断と結びつき、自分にとって価値あるものを正当化しているなら、そのことからそれを論理的前提として設定することに、ナイーブに同意してしまうことはイデオロギーに支配された誤謬を招く。それは、現実の条件が、イデオロギー的主張を成り立たせている間は表面化しないが、時代が変わって条件が変化すると、その間違いが事実として見えてくる。価値判断と認識とを区別せよというのは、方法論としても、誤謬論としても重要なことではないかと感じる。

萱野さんがコラムで語っていることと同じことを、内田樹さんの「2006年04月25日 非人情三人男」という文章の中にも見ることが出来る。「非人情」というのは、人情という感情に流されないで、対象を突き放してみることを意味する。つまり、感情的な価値判断を離れて、対象の認識のみに精神を集中することができるということを「非人情」と呼んでいるわけだ。

ここで内田さんは夏目漱石の『草枕』について書いている。三浦つとむさんによれば、漱石というのは、文学を科学として確立するために四苦八苦した人だということだ。漱石は極めて理科系的な人だったという。文学という、文章を味わう行為を、感情から切り離して科学化できるかということに疑問はあるものの、価値判断と認識を切り離して、まずは認識のほうに重きを置いたのが漱石の「非人情」という考え方のようにも見える。

内田さんは、「「非人情」とは畢竟「距離感」のことである」と語っている。距離感を大きく取ることが出来れば、感情に流されることが少なくなり「非人情」になれるということだろう。当事者意識が強くなれば距離感が取れなくなり「非人情」になれない。つまり、価値判断と認識を切り離すことができないということだ。ある対象の認識を深めたいと思ったら、その対象に対しては第三者的に振舞うことが正しいのだと思う。

内田さんは、「非人情」の人としてラカンについても書いているが、そこでは「ラカンの非人情もメルロー=ポンティを失うことの欠落感には耐えられなかったのである」と語っている。ラカンにとってのメルロー=ポンティというのは、第三者的に他人事として見ることの出来ない存在だったのだろう。ラカンは、メルロー=ポンティに対しては「非人情」になれなかったので、価値判断抜きに認識することは出来なかったに違いない。しかし、それはある意味では幸せなことだったと思う。価値判断抜きに認識することが出来ない対象を持つということが、幸せの一つの現れだと思うからだ。

普遍的な真理を得たいという対象に対しては、価値判断と認識を切り離さなければならない。そのためには、普遍的な真理を自分の個人的な幸せとつなげないほうがいいだろうと思う。

萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』の中で、国家の本質を「他人から金を奪う」ことに見、資本主義の本質を「他人を働かせて、その上前をはねる」ことに見ている。これを、価値判断として「何とひどいことをしているのだ」と考えると、認識のほうが曇ってしまう。

むしろ、そのひどいと思われるようなことが、国家の行為としては肯定され、企業の行為としては肯定されるところに、それが価値判断的に無条件に悪だとはいえないという認識を持たなければならない。つまり、これらが価値判断として悪(不当)だとされたり、悪ではない(正当)とされる条件はどこにあるかという認識の方向に行かなければ、現実を正しく解釈することが出来なくなる。

資本主義における搾取が必ずしも悪ではないなどと言うと、イデオロギー的に同意できない人もたくさんいるだろうが、搾取がない・利益をすべて労働者に配分するような資本主義が、資本主義としては衰退することが論理的に帰結できるのではないかと思う。資本の増殖のためのストックは、搾取という行為からしか得られない。もっとも、このような行為を「搾取」と呼ぶことに価値判断的に反対されると、やはり認識を深めることはできなくなるだろう。

このような現象を搾取と呼ぼうと、あるいは資本蓄積・増殖などと呼ぼうと、本質的には違いはない。と考えることが価値判断と認識を切り離すことになるのだと思う。問題は、現象を妥当に認識することであって、それがいいと思えるか、悪いと思えるかという自分の感情の問題ではないのだ。萱野さんの文章は、方法論・誤謬論として読むとさらに面白さが増すように感じる。
[PR]
by ksyuumei | 2007-05-29 10:32 | 方法論


<< 萱野稔人さんの国家に関する考察... 治安問題に対する関心 >>