個人としての自分が見てそう思うのか、誰が見てもそう思うのか

久しぶりにすごい人間に出会った。マル激のゲストで語っていた萱野稔人という人物だ。その明快な論理展開は、宮台真司氏の文章を初めて目にしたときと同じ印象を感じた。この人は優れた専門家だと思える人はたくさん見つけることが出来る。マル激にゲストで登場する人々にはそのような専門家としての優秀性を感じる。しかし、全体的な印象として「すごい」という感覚を受ける人は少ない。萱野さんにはそのような印象を感じた。これは宮台氏に感じて以来久しぶりのことだ。

その萱野さんが「~<政治>の思考~」というコラムで、「第6回 価値判断と認識」という文章を書いている。ここで語られていることは、非常に分かりやすいものであるのに、そこに込められている知の深さと豊かさを感じるものだ。単純なことを語っているからわかりやすいというのではないのだ。非常に難しい深みのあることを語っているにもかかわらず、これほど分かりやすい言い方をしているというところにまず目を引かれた。

これは、三浦つとむさんにも共通していたことだが、ある事柄に本当に通じている人は、それを全体的な把握の下で細部を語ることが出来るので、細部に難しさがあるにもかかわらず易しい語り方が出来る。それは、単に用語を易しく言い換えたのではなく、概念の構造を正確に語ることが出来るので易しい言い方になっている。用語を易しく言い換えただけでは、正確な概念が伝わらないが、正確な概念を伝えてかつ易しく語るということが出来る人が、ごく稀にだがいる。僕はそういう人にすごさを感じる。



さて、ここで萱野さんが語っている「価値判断から認識を区別するということがとても重要になる」ということは、言葉だけを読む限りではそれほど難しいことではない。主観と客観とを正しく区別することが重要だということだ。ある判断をするとき、それは自分という個人がそう思っているだけなのか、それとも、自分ではない平均的な他者(これを任意の他者という)が、誰でもそう思うのかということを区別せよということだ。

これは、科学的に物事を捉えるときの基本になるものだ。価値判断を述べるものは科学にはならない。どのような絵画がいいものか(言葉を変えれば好きかということ)は、人によって判断が違ってくる。このようなものは科学にはなりえない。つまり条件つきの絶対的真理とはなりえない。だが、人はしばしば、自分の個人的感情を真理だと思い込みたいときがある。

そういう時は、価値判断と認識を区別することが難しい。つまり、「価値判断から認識を区別する」というのは、言葉として、命題の意味としてこれを理解するのは易しいが、それを実際に実践するという行為にかかわる部分ではたいへんな難しさがあるものなのだ。

絵画の批評を無理やり科学として成立させることも出来る。それは、批評の基準というものを客観的にまず設定しておいて、実際の絵画が、その基準を満たしているか客観的に判定できる方法を確立しておくことで達成される。しかし、この場合は、客観的基準に照らして判断をするので、それがいいと思えるかどうかという感情は捨象される。感情に関係なく、基準に合致しているかどうかが論理的に判断される。この論理的に判断されるということが客観性にとっては重要であり、科学として成立するかどうかのカギになる。

科学はいったん確立してしまえば価値判断が入る余地はなくなる。そこにあるのは論理的判断の正しさがあるかどうかだけだ。しかし、このようにして確立された科学は、それが人間社会で重要な意味を持つものか、面白いものであるかという判断においては価値判断であることを免れない。それは科学にならない。絵画の批評においても、それが面白いものになるかどうかは、まったく個人の価値判断にゆだねられるだろう。

多くの人が高く評価している絵画が、科学として展開した絵画の評価とよく一致していれば、そこに僕は面白さを感じる。それはおそらく、絵画という芸術の本質を捉えるような科学的な基準が立てられているのだろうと感じる。しかし、多くの人が高く評価しているものを低く評価し、つまらないものを高く評価するようなものであれば、その評価基準は、論理的には整合性があるかもしれないが、現実をよく反映したものではなくつまらないものと感じるだろう。

最も面白さを感じるものは、感覚的にはその良さがすぐには分からないが、その基準に照らして対象作品を捉えてみると、それが優れていることがよく分かり、絵画の鑑賞をより深めることが出来るような科学的な基準があれば、僕はそれをとても面白いものだと感じるだろう。絵画の評価などは、ある意味ではセンスの問題になってしまうのだが、このセンスというのは訓練で身につけることが出来ず、素質や偶然の発見などで身につくようなものになる。しかし、科学であれば、手順を踏んだ教育によって大多数の人は身につけられると考えられるからだ。科学の確立は、教育にとって非常に大きな意味がある。

さて、萱野さんは上のページの文章で、国家について、これの価値判断と認識とを区別して捉えようとしている。それは「国家はどうあるべきか」という問題と、「国家とはなにか」という問題を区別して考えるということだ。これは実践的には非常に難しい。なぜなら、国家の存在が自分の人生にとって利害関係を持ってくることが多いからだ。国家から利益を得ている人にとって、その利益をもたらしてくれる国家像が、国家としてあるべき姿に映るだろう。そして、それが国家本来の姿であるという「認識」の問題でもあると思いたくなるのではないかと思う。

逆にいえば、国家が自分を圧迫しているという感じを受けている人は、国家というのはそのような欠陥のある存在であることが本来の姿のように映るだろう。出来ればないほうがいいもの、百歩譲っても必要悪くらいの認識になるのではないだろうか。

これを価値判断を括弧に入れておいて、まずは客観的な存在としての国家がどういうものかを認識することからスタートさせようとするのが萱野さんの方法であるように見える。これは科学として正当なやり方だ。

萱野さんは『カネと暴力の系譜学』という本で、国家にとって暴力が必然的かどうかを論じているらしい。これは、「暴力はあってはならないもの」という価値判断を持っていると、考えることがそもそも難しくなる。その価値判断が、ある種のパラダイムになって、あってはならないものが現実に存在することに不当性を感じてしまう。正しい認識をすることが難しくなる。あるいは、国家の存在そのものが不当であるという、反国家的なイデオロギーを持ちたくなるかもしれない。

国家にとっての暴力の必然性を考えるには、価値判断から区別された認識の確立という意識がなければならないだろう。萱野さんは、この本のある書評に対して次のようなことを書いている。


「おそらく立岩さんは、私が国家を一方的に糾弾していると考えているのだろう。国家は、結局はヤクザと同じで、暴力のうえになりたっている悪の存在だからダメだ、と私が言いたいのではないか、と。」


価値判断と認識とを区別する習慣がないと、認識として国家の暴力の必然性を結論したことが、国家を非難しているという受け取り方をされてしまうと感じているのだと思う。しかし、国家が暴力を伴うというのは、それは現実の国家の属性を客観的に語ったものであって、それがいいか悪いかという基準はどこにも提出されていないので、価値判断はしていないのだ、いいとも悪いとも語っていないのだと受け取るべきだというのが萱野さんの主張ではないかと思われる。萱野さんは、上の文章に続けて次のようにも語っている。


「さて、こうした立岩さんの指摘に対する私の反論だが、まず言いたいのは、私はなにも「暴力は悪だ」という自明性を議論の出発点にしているわけではない、ということだ。私が国家とヤクザ組織を比較するのは、べつに国家の本性が悪だということを暴き立てたいからではない。あくまでも認識のレベルで国家を理論化するためである。国家を価値判断することは『カネと暴力の系譜学』の目的ではない。だから、立岩さんも指摘しているように、私はこの本のなかでは「暴力はいいのか悪いのか」「暴力はどこまで必要か」といった議論をまったくしていない。」


萱野さんの目的は、あくまでも国家という存在の理解なのである。それも客観的科学的な理解だ。それは、価値判断に優先されなければならないという考えがそこにはある。なぜなら、客観的に確立された国家の概念は、個人的な思いにかかわらず、客観的なメカニズムで展開をする。つまり、人間の思いに関係なくそうなってしまうという現象がそこには現れる。それを正しく捉えることが出来なければ、人間がどんなに願っても、その願いは実現されなくなる。願いが強ければ神がそれを聞いてくれるということはないのだ。客観的な法則性を正しく捉えて行動しなければ目的は達成されないという科学のメカニズムがそこにはあるのだ。萱野さんは次のように書いている。


「たとえば、立岩さんがそうしたように、「暴力は必要か」あるいは「他人の労働の成果を吸いあげることはいいのか、悪いのか」と問うとしよう。こうした問いは、価値判断にしたがって暴力や吸いあげの運動をどうこうできる、という前提のもとでなされている。実際、もし「暴力は必要でない」という結論がでたときに暴力をなくすことができないのなら、暴力は必要かどうかを問うこと自体が無意味となるからだ。」


僕が科学や理解にこだわるのも、実はこのような理由からだったのだというのを、萱野さんが明確に書いてくれたおかげでよく分かった。科学的に見て「暴力をなくすことが出来ない」のなら、それを考えたって意味がなくなるのだ。そして、単に願いの強さを増すことを考えるよりも、対象の認識を深めることが出来れば、その可能性を見つけることも出来る。つまり、可能性がゼロであればあきらめるしかないが、ゼロでなければ、どこに可能性があるかを科学は教えてくれる。単に願うだけではなく、科学として問題を捉えることが問題の解決につながるのだと思う。

このことを一般的にまとめると次のようになる。萱野さんの言葉を引用しておこう。


「こうした問題に答えを見いだすためには、まず価値判断をカッコに入れて認識を深めていくしかない。当為(べき)が存在(ある)を規定するのではなく、存在が当為を規定する。社会を組み立てている要因について、価値判断をおこなうまえに、どこまでが人間の意によっては動かすことができなくて、どこからが動かすことができるのかを、まずは理論化しなくてはならないのだ。価値判断はそのうえではじめて有効となる。」


誰もが感じていることだがなかなか正確に表現できないことを適切な言葉で表現する。そして適切な表現によって、その問題に対する理解が深まっていく。価値判断と認識を区別することが正しいことは誰でも考える。しかし、それが正しい価値判断をするための認識の優位性からするのだというのは、世界の全体像を把握している広い視野と、世界のつながりを正しく捉える深い論理性を兼ね備えている人間だから言えることだろう。普通の人間は、自分の感情に流される思考をしてしまう。それを越えているところに、萱野さんのすごさを僕は見る。
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by ksyuumei | 2007-05-26 10:46 | 方法論


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