僕は、山本七平氏に対してはあまりよいイメージを持っていなかった。最初に山本氏を知ったのは、イザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたと言われている『日本人とユダヤ人』を批判したものを見たときだっただろうか。今では、このイザヤ・ベンダサンという人物は山本氏が作り出した架空の人物で、これは山本氏の著書だといわれている。
イザヤ・ベンダサンという著者を山本氏だと知らないとき、僕は『日本人とユダヤ人』という本を面白く読んだ記憶がある。それは、日本人が持っている常識的な発想に疑問を投げかけているもので、日本人ではないユダヤ人だからこそそのような見方が出来るのかな、と素朴に感じていたものだった。 しかし、その後本多勝一さんを知り、本多さんとイザヤ・ベンダサンの論争を『殺す側の論理』という著書で読んだとき、イザヤ・ベンダサンという人の論理の展開が詭弁のように見えて仕方がなかった。この論争においては、本多さんの側に確実に論理的正当性があると感じたものだ。 後に、このイザヤ・ベンダサンが山本氏だと知り、面白く読んだ『日本人とユダヤ人』に関しても、そのユダヤ学に関する部分がほとんど間違いだということを浅見定雄さんという専門家の指摘で知って、山本氏に対するイメージがかなり落ちたのを感じた。山本氏が書くことのかなりの部分は信用できないという思いになったのだ。素人の放言ではないのかという感じで受け取っていた。 ところが、この山本氏に対して宮台真司氏がしばしば高く評価するようなことを言うことがあった。何回も語っていたのは、日本社会における「空気の研究」というものに対する評価だ。小泉さんが、以前に記者から質問を受けたときに、「その場の空気によって決める」というような答えを言ったことがあり、日本社会は「空気」というものによって行動が決められるという認識は、かなりの人が共有するものになったのではないかと思う。 宮台氏が山本氏を評価するというのは、その「空気」というものの意味を、最初に指摘したのが山本氏だということの評価なのだろうか。どこが高く評価される点なのかというのが僕にはよく分からなかった。それが、小室直樹氏の『日本資本主義崩壊の論理』という本を読んで、少し見えてきたところがある。この本の副題は「山本七平“日本学”の預言」となっている。小室氏は、この本で山本氏のどこが評価に値するかを細かく論じている。それは論理的にすっきりと分かるものだ。この小室氏の評価を受け継いで、弟子である宮台氏も山本氏を高く評価しているのだろうと思った。 大雑把に抽象的な言い方をすれば、素人が偉大さを発揮するのは<パラダイム>の変革に貢献するときだと言える。専門家は細かい知識をたくさん持っている。そしてその細かい知識は、それまでの伝統的な<パラダイム>によってすべて説明がつくようになっている。かなり確立されていると思われる<パラダイム>が支配している分野では、その根本に疑問を呈するような問題意識は、専門家であればあるほど持てなくなる。 専門家はあまりにも細かいこと(いわば末梢的なこと)を知りすぎているために、それが本質を曇らせて、本当に大事なことが見えなくなっているという欠点を持つ可能性がある。実際には、革命的な大転回が必要であるのに、それまでの<パラダイム>を維持し守る論理を構築する方向に行ってしまう。そんなときには、細かい末梢的な知識を捨象できるほどの天才的な人間か、あるいはそのような知識を持たない(捨てる必要のない)直感に優れた素人の発想が時代の変化をもたらす。 「いつの世でも、偉大なる発見は、方法的に未熟な素人の独創から始まる」と小室氏は指摘する。これは論理的に正当な考えだと思う。独創というのは、それまでと同じ伝統的な思考をしていたのでは生まれてこない。専門家でありながら、伝統に反する発想ができるというのは、よほどの天才でない限りできるものではない。むしろ、可能性としては、それまでの伝統をまったく知らない素人こそが伝統を打ち破る可能性を持っていると考えるのは正当である。 仮説実験授業などでも、誰もが間違える難しい問題では、そのことを本当によく知っている優秀な生徒か、ほとんど知識を持たない劣等生か、どちらかが正しい予想をするということがよくある。そして、優秀な生徒でさえも出来ないような発想を必要とする問題では、まったくの劣等生こそが正しい発想を見せるということがある。まさに科学史での偉大なる素人ということの再現が仮説実験授業においても見られる。 小室氏が評価する素人の偉大性というのは、斬新な発想で新発見をするという面だったのだ。これは、どのくらい優れたことであるかというのは、素人である本人にはわからないし、専門家にも、伝統に縛られている<パラダイム>から離れることが出来ない人間には分からない。山本氏が評価されないということから、小室氏は、日本の学者の専門家としての水準も低いものだという批判をしている。 山本氏は、素人としての欠点を多く持っていたと思う。素人であるがゆえに、本多さんの主張を、文脈を正確にたどったり、他の本多さんの著書を参照して正確に読み取ろうという努力をしなかったのではないかということが伺える。だから、イザヤ・ベンダサンとしての山本氏が指摘する本多さんへの批判はほとんど的外れのものになっている。自分の主張に都合のいい解釈と引用がされている詭弁にしか見えない。 さらに、『日本人とユダヤ人』に語られているユダヤ学に関する部分も、自分が発見した日本学にとって都合のいいものとしてつまみ食い的に並べているだけのように感じる。それは、専門家である浅見定雄さんから見れば、ほとんどでたらめを並べているだけと批判されるようなものになっているのだろう。 このような山本氏に対して、斬新な発想で、これまでの<パラダイム>を崩すような新発見をしたのだと評価するのはかなり難しい。僕も、本多さんと浅見さんの批判を読んだ限りでは、山本氏というのは、ご都合主義の右翼評論家のようにしか見えなかった。まず、自分の感情的な思いからくる結論があって、その結論が正しいことを、ご都合主義的に事実を拾ってきて証明しようとする詭弁家のようにしか評価していなかった。 山本氏に対して、主観的結論を証明しようとする論理の面を見るのではなく、日本社会を見る視点の提出という発想の面で評価をすれば、小室氏のように高い評価が出来るだろうか。 小室氏は、山本氏の視点は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ウェーバーと同じものだという指摘をしている。マックス・ウェーバーは、いかにして西洋社会・アメリカに資本主義が生まれたかを、その精神的基礎から解明しようとしている。それと同じように、日本に資本主義が生まれた理由を、その精神面から解明しようとしたのが山本氏だという評価をしている。 山本氏は素人であるから、マックス・ウェーバーの仕事を正確に把握して日本社会に応用したのではなく、似たような発想から日本社会を見たら見えてきたものが、マックス・ウェーバーが指摘するものと構造的に同じだったと小室氏は評価している。これは、構造的には同じだったが、その社会的背景には大きな違いがある。したがって、日本の資本主義というのは、本来のスタンダードな資本主義の発達と比べるとかなりゆがみがあるという。それが後に「崩壊」につながるだろうというのが山本氏の預言であり小室氏が高く評価しているところのように感じる。 マックス・ウェーバーの「資本主義の精神」という視点は非常に難しい視点であると感じる。唯物論的に考えれば、物質的条件の成立が必然的に資本主義社会を生み出すように、素朴に僕は感じていた。日本が明治維新を経て、江戸時代の封建主義から資本主義へと転換したのも、国家が成立して、生産部門に資本を投入するという物理的条件が成立することによって社会が変革されたように素朴に考えていた。 しかし、社会というのは人間が構成するものであり、その人間に資本主義というものの理解がなかったら、資本主義社会は実現しないのではないかとも思える。では、どうやって人々は資本主義的な認識というものを身につけていったのであろうか。その基礎となったのは何だったのだろうか。 西欧社会においては、それが「プロテスタンティズムの倫理」であるとウェーバーが指摘しているのだろう。これも難しいものだ。その倫理は非常に強い道徳意識であり、現在の資本主義が持っている金儲けのイメージが、この強い道徳意識と整合的に結びつくようにすぐには感じないからだ。この精神が、なぜ資本主義につながっていくのだろうか。 小室氏が語るキーワードは「行動的禁欲」というものだ。強い道徳意識は禁欲的に働くのだが、禁欲というのが「悪いことをしてはいけない」という消極的な面だけに働くのではなく、「他のことを忘れて一心にあることに専念する」ために働くとき、それは「行動的禁欲」と呼ばれる。 この禁欲は、他のことをするひまがない、あるいはするということを考えもしないということで言えば、快楽を求めることがないので「禁欲」と呼んでもいいだろうと思う。しかし、この禁欲で大事なのは「行動的」という側面だ。あることをしない代わりに、そのエネルギーを他の面に全面的に注ぐことができるということが、資本主義にとって非常に重要だったという指摘がウェーバーが主張していることらしい。 資本主義が生まれ、成長・発展するためには、労働こそが貴重で価値あるものであり、人生の大部分を労働することに注ぐことが出来る人間がたくさん生まれなければならない。労働が生きがいになり、価値あるものとして社会に通用していなければならない。それを保障するものが「プロテスタンティズムの倫理」になるのではないかと思う。このように考えると、ウェーバーの主張は論理的に理解できる。 そして、日本社会を見てみると、かつての高度経済成長の時代は、確かに労働こそが男の生きがいという時代があったように感じる。それが、日本資本主義を支えていた精神的基礎だったのではないかという感じもする。日本には「プロテスタンティズムの倫理」はない。それでは、この考えはどこから生まれてきたものだろうか。それが山本氏の「日本学」が指摘するものなのだろう。 山本氏の「日本学」が、論理的に整合性を持って理解できるものなら、その視点や発想はやはり優れたものだといえるだろう。それを補強するために、ご都合主義的に事実を持ってきたりする詭弁があったとしても、それは評価においては末梢的なものになるのではないかと思う。基本的な発想において、それが本質的に重要な部分を見ているのであるかということを考えて、山本氏の評価というものを考えてみたいものだと思う。
by ksyuumei
| 2007-05-12 11:04
| 雑文
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