人気ブログランキング | 話題のタグを見る

義務教育における7つの教育方針 2

ジョン・テイラー・ガットさんの『バカをつくる学校』で語られている義務教育学校の3つ目の弊害は「無関心」というものだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、「私は、たとえ子どもたちが何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える」と語っている。それは、学校というものが、一貫性のないカリキュラムを持っているので、満遍なく全部をやらせるには、偏った関心を持たせることはまずいからだ。

この「無関心」は学校においては制度的にそうなるように工夫されている。ジョン・テイラー・ガットさんの授業が子どもたちを夢中にさせていても、チャイムがなればその気持ちをすぐに切り替えて別の学習に気持ちを振り向けなければならなくなる。そのときにいつまでも夢中になった気持ちを引きずっていれば、次の学習に支障が生じて落ちこぼれることになるだろう。天才といわれたエジソンのエピソードなどには、そのような気持ちの切り替えが出来ずに学校で落ちこぼれる姿というものがうかがえる。

この弊害の最も大きなところは、ジョン・テイラー・ガットさんが語る次のような点ではないだろうか。


「それどころか、子どもたちはチャイムを通して、やり遂げるだけの価値のある仕事はないと教えられる。そのため、何かに深く興味を持つこともない。何年間もチャイムに従って過ごすうち、一部の耐性のある子を除いて、もはや社会にはやるべき重要な仕事はないと思い込むようになる。
 チャイムは時間割の隠れた原則で、その原則は絶対だ。チャイムは過去も未来も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう。それは、自然の山や川が実際にはそれぞれ違うのに、地図上ではどれも同じように抽象化されるのと似ている。チャイムによって、授業はすべて無意味なものになるのだ。」





何かに深く興味を持つことがないと、真に深い学習は出来なくなる。本当の実力が身につくことはないだろう。これは、被教育者のための教育としては間違っている。しかし「バカをつくる教育」としてはまことに効果的な方法である。

価値のある仕事がないと思った人間は、公的な道徳心も育たないだろう。世の中に価値があるものなどないのだから、自らの感性を満足させるだけの対象があれば、それを求めるのは自然な流れになる。公共性などは顧みられることがないだろう。

学校における時間割とチャイムは、あまりに当たり前に存在するので、それがこのような大きな弊害をもたらすという主張はにわかには信じられないかもしれない。こじつけや屁理屈のように聞こえてしまう人が多いかもしれない。しかし、学問に対する関心を持続させるためには、チャイムや時間割にとらわれない学習が重要だと自分の経験からも僕は思う。

僕は、大学を卒業するまで、その時間割に設定されたものを勉強するのだという意識が乏しかった。時間割に設定されているので、とりあえず教師が来てその学習についていろいろと話をする。その話を、自分が理解できる間は聞いているのだが、理解できなくなると僕は勝手に自分がそのときに勉強したいと思うものを勉強し始める。僕はいつも教科書に別の参考書をはさんで授業を受けていた。

時には、授業の最初から話を聞く気が起きなかったときは、最初から別の勉強に没頭することもあったが、そのときはうっかり指されたりすると困ったものだ。しかし、このような勉強のおかげで、僕は学問に対するモチベーションを下げることはなかった。いくつになっても、学問は僕の最大の関心の対象となっている。それは授業と関係なく、自発的に学習してきたからだ。

さて4つ目の弊害は「感情的な依存」として語られている。学校は決して自立した大人を育てる場所ではないのだ。「バカを作る」ためには、むしろ依存的な子どものままに留め置いていたほうがいいという考えがそこからは伺える。ジョン・テイラー・ガットさんは次のように語る。


「子どもたちは、教師に褒められたい、あるいは怒られたくないと思うように条件付けされる。私が生徒の答案に○や×をつけたり、特別な褒美や罰を与えたり、優しい顔や怖い顔を使い分けたりするのは、彼らの感情的反応を私に依存させるためである。つまり、教室の中では教師が支配者であるという感覚を植え付けるのである。」


これは、日本の学校では当たり前のことだと感じていたが、アメリカでもそうだったのかというのを知って驚いた。アメリカ人はもっと大人だと思っていたのだ。しかし、教師の側に立てば、このようにシステムが作られていれば、少なくとも仕事はやりやすくなるということはいえるだろう。

ジョン・テイラー・ガットさんが指摘するように、学校で行われている教育活動にはあまり正当性というものがない。つまり、変に大人になった生徒が出てきて、その不当性を突かれたら教師はまともな答えができないのだ。教師にとっては、生徒が大人にならずに子どものままでいてくれたほうが都合がいい。特に支配にとってはそのほうがいいのだ。

日本の学校では、「子どもになめられないように」ということを教員の側がよく言う。この感覚は、子供の抗議にはまともなものがないという感覚で受け取っているのを物語っている。ごろつきやチンピラの言いがかりと同じもののように受け取っているので、なめられたらその言いがかりを通してしまうのでなめられないようにしようということになる。これは学校が子どもを成長させないから、教師もそのような受け取り方しかしないのだと思う。もし子どもが成長して、子どもなりの理解の範囲で正当な異議申し立てをするのなら、教師の側もそれを正当に判断できるような能力が必要だ。どちらも成長しなければならない。しかし、どちらも成長しないなら、子どもの依存性を助長して支配していたほうがずっと楽なのである。

子どもが教師の指導によく従うことが、ある意味では教育の効果であるように語られるときがあるが、これは同じ現象であっても意味的には違うかもしれないと疑ったほうがいい。生徒の側が自主的に判断したことと同じ方向の指導があるから、積極的にそれに従うことが出来ているのか、依存性のゆえにただ言われたことにしたがっているだけなのか。同じ現象であっても、後者のような現象であれば、それは子どもが少しも成長していないということを意味するのである。

5つ目の弊害として語られているのは、依存性の中の「知的な依存」というものだ。4つ目の弊害ですでに依存性が語られていたが、それはどちらかというと行動の判断に対する依存性だった。ここでは知的な面での依存性の弊害が語られている。行動は生活の実際面を指すが、知的な部分は抽象的な判断におけるものとして考えられているようだ。

それは「彼らが何を学ぶべきか」「彼らの人生に何が必要か」などという言葉で語られている。これらは、本来は子どもたち自身が考えることで成長が促されるものだ。このことにはただ一つの正解が見つかるというものではない。しかし、このことを考える過程で子どもは成長し大人になっていく。ところが子どもにはこのことを考えさせることはなく、これは専門家と呼ばれる人間が解答を与え、子どもたちはその専門家に知的に依存させられる。それは、ジョン・テイラー・ガットさんが「影の雇い主」と呼ぶ存在の代弁であることが指摘されている。

ジョン・テイラー・ガットさんは、


「「優等生」とは、教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度な熱意を持って、それを受け入れる生徒のことである。何をいつ学ぶのか、「影の雇い主」が決めたことに従順で、他のことには興味を抱かない。」


と、「優等生」という存在についても実に的確な分析をしている。これを見ると、「優等生」というのは、アメリカでも日本でもその本質は変わらない存在なのだと思う。学校優等生というのは、学校においては最も高く評価される生徒なのだが、それが最も知的な依存度が高いというのが、学校という存在の欠陥であり大きな弊害を生み出す元になっている。

「劣等生」に対する次の記述も、快哉の拍手を送りたくなるほど見事なものだ。


「一方、「劣等生」とは、教師の示した考えに抵抗し、何をいつ学ぶのか、自分でそれを決めようとする生徒のことだ。教師としては、そうした生徒を野放しにしておくわけにはいかない。そこで、彼らの意思を砕くため、親に連絡するという効果的な手段を使う。」


劣等生は、主体性はあるがその能力については評価するのが難しい。板倉聖宣さんなどは、「びりっけつ、向きを変えれば一番だ」などという格言を語っている。評価の基準によって、びりは一番にもなるのである。そういう評価が難しい生徒を評価するなどという行為は、かなり危なっかしくて教員にとってはやりたくない仕事になるだろう。

アメリカで感動を呼んだ教師の映画の多くは、このような一見劣等性に見える生徒を正しく評価して、その才能を見出し開花させた教師が尊敬に値するという描かれ方をしている。リチャード・ドレイファス主演の「陽の当たる教室」という映画がそうだった。この点、学校が同じような欠陥を持っていながらも、アメリカでは尊敬を受ける教師像というものが日本とはやや違うのではないかという感じもする。日本で人気のあった金八先生は、生徒に寄り添い生徒ともに歩むという姿はうかがえるが、生徒の隠れた資質を発見してそれを伸ばすために寄与したというイメージが浮かんでこない。教師としての指導性よりも、道徳的な人間性のほうが尊敬の対象になるような感じがする。

最後にジョン・テイラー・ガットさんの次の指摘を引用しておこう。学校の弊害が、社会を支配したい人間にとっては実は有用な結果を導いているというのがよく分かるだろう。


「「優等生」は、大人になっても専門家の指示を待つ。今日の経済社会は、そうした人々によって成り立っているといっても過言ではない。もし子どもたちが従順であるように訓練されていなかったら、すべては破綻してしまうだろう。社会システムは機能せず、カウンセラーやセラピストは休業を余儀なくされる。人々が自分で楽しみを見つけるようになれば、テレビなどの商業的娯楽も衰退する。
 また、他人のつくった食事に頼らない、自給自足の生活が見直されれば、レストランや加工食品といった飲食産業も衰える。学校教育が無力な人間を生み出さなくなれば、学校はもちろん、現代の法律や医療、工業なども衰退するだろう。
 つまり、職を失いたくなかったら、学校改革に賛成票を投じるのは軽率だというわけだ。私たちの社会は、自分で考えることを知らず、ただ言われたことをするだけの人間によって成り立っている。それは、学校教育の最も重要な方針の一つなのである。」
by ksyuumei | 2007-05-04 11:02 | 教育


<< 義務教育における7つの教育方針 3 教育の荒廃に対する日教組批判 >>