戦後も60年以上も経つと、どの時期の教育を「戦後民主主義教育」と呼んでいいか分からなくなる。僕が中学時代をすごしたのは昭和40年代半ばくらいだが、この時期は戦後も20年くらいたっていて、もはや戦後ではないと言われてから久しい。
僕が教員になったのは昭和50年代半ばくらいで、校内暴力の問題が深刻化していた時期であり、それが沈静化した後に登校拒否が表面化してきた時代でもあった。そして、いじめの問題が深刻化するのはもう少し後になるだろうか。 戦後まもなく行われた教育は、それ以前の軍国主義教育を否定したものであり、ノスタルジーとともにいいものとして語られることもある。それに比べて、最近に近くなるほど教育の荒廃は進んできたように言われている。つまり、戦後まもなくはまだ明るい希望に満ちた時代で、それがだんだん悪くなっていき、近年はこれ以上ひどくなることはないのではないかと思えるほど悪くなっているように感じられている。早急な改革が叫ばれている現状でもある。 戦後民主主義教育の評価というのは難しい。保守論壇の主張によれば、現在の教育の荒廃をもたらしたものは、すべて戦後民主主義教育の失敗であり、履き違えた権利主張の弊害が進んだために最低限のモラルさえも身につかない教育になってしまったという評価をしているようだ。小室直樹氏などは、戦後民主主義教育と呼ばれているものは、実は民主主義とは似ても似つかないものであったという理論的な誤りのために今の教育の荒廃をもたらしたと評価しているようだ。 それに対して、戦後民主主義教育を擁護する左翼の立場からは、さまざまの権力の横槍によって戦後民主主義教育が貫徹できなかったことが教育の荒廃につながっているのであって、これを徹底できなかったことが間違いだったと主張しているように感じられる。教育基本法に対する見方も、統治権力である自民党の側から見れば、それは間違った戦後民主主義教育を象徴するものであって、変えることこそ正しいという主張になる。逆に、それに反対する立場からは、教育基本法を守り、その精神を貫徹することこそ正しいということになる。 これは、理論的にはどちらの立場が正しいかを客観的に決めるのが難しいだろうと思う。僕は、ちょっと前なら教育基本法を守り、戦後民主主義教育を守る立場こそが正しいと思っていたが、小室氏の『悪の民主主義』という本を読んでからは、自分の学校体験を振り返って考えると、戦後民主主義教育の欠陥というものを強く感じるようになった。 日本の教育というのは、戦前は軍国主義で、戦後は民主主義というような単純な比較が出来ないものではないかという感じがしている。むしろ、戦前から戦後まで一貫して変わらなかったのが日本の教育ではなかったのか。そして、皮肉なことに、この一貫した教育は明治維新後の最初は教育が社会の進歩を引っ張り・支えたものになり、逆に戦後は社会の進歩に教育が追いつけずに、社会の進歩の足を引っ張るような反動的な欠陥が露呈したものになっていったのではないかと感じる。 本当なら、社会の進歩とともに教育も変わっていかなければならなかったのに、教育はまったく進歩することなく同じままで今まできてしまったのではないだろうか。だから、かつては良いものを生み出したと思えたものが、今ではまったく時代に合わない代物になってしまったのではないかと思う。 自分の経験を振り返ってみると、学校体育というのは軍国主義下の教育である軍事教練とどこが違うかという印象をもっている。そこで目標とされているのは、何よりも統一的に指令に従う集団主義教育であり、個人の嗜好や特性を考慮されない、体の頑健さだけを求める健康教育だ。戦前だったら、強い兵隊を作るための体作りとでも言えるようなものではないだろうか。 学校体育ではスポーツの持つ楽しさというのはかけらも教えられなかった。むしろ、みんな一緒に同じことをすることの圧力と、それから脱落したら困るという不安のほうが教育された。その圧力によって従順な気分をつくるには役立ったのではないかと思う。また芸術教育である音楽においても、音楽の楽しさというものを教わった記憶はない。学校教育から「楽しさ」というものは無縁だったというのが自分の体験からくる印象だ。 僕にとって学校はほとんどいいことがなかったので、早くそこを出て行きたいと思うような通過点に過ぎなかった。だから、僕は自分が出た学校に対する愛着というものはかけらも持っていない。そこで何を教えられたかということもまったく覚えていないのは、たぶん学校が嫌いだったからだろうと思う。そこは我慢してすごすようなところだった。 僕がいた学校が特別ひどい学校だったとは思わない。おそらく普通の学校だっただろうと思う。だから、そのような印象をもったのは、僕の個性からくるものだったのか、それとも日本の学校が共通に持つ欠陥だったのかは判断が難しいところだ。もし、僕のように、学校を生徒を締め付ける牢獄のようなものという印象を持つ人が多ければ、日本の学校はやはりそのような欠陥を持っていたのだろうと思う。 この、僕が体験した学校が、普通の戦後民主主義教育の学校であるならば、僕はそれを全面否定したいような気分を持っている。それが「民主主義」を標榜していなければまだ我慢できる。つまり、権力の側にとって有意な人間を作るための学校であるなら、たとえ自分はそんな人間になりたくないと思っても、権力がそれを求めるために学校を作っているなら、論理としてはそれは理解できる。そういう教育をされる立場になったら我慢は出来ないが、第三者として考えれば理解は出来る。 しかし、僕が受けたような教育が「民主主義」の教育であるなら、それは「民主主義」に対する無理解から生まれたものではないかと思う。権力者のための教育ではなく、民衆のための「民主主義」教育であるなら、民衆を育てるためになぜ民衆の一員となる生徒を苦しめて我慢させるような教育をするのかということだ。 また、この我慢も、生徒の側がよく考えて納得した末での我慢ではない。理不尽だとは思いながらも強い圧力の下に逆らうことが出来ないようにして押し付けられた我慢だ。民主主義であれば、生徒の側の主張を聞いて、それが間違えていればその間違いを諭すような仕組みを教育の中に持つべきだろう。生徒の主張がまったく届かないようなシステムで全体主義的な雰囲気の中で教育されることが果たして「民主主義教育」と呼べるだろうか。 学校はいまだに全体主義の巣窟だと僕は感じている。個人の特性というものをほとんど考慮に入れない。誰もが同じ事をすることを好む。人間は、誰にでも得意なものと不得意なものがある。得意なものを生かし、不得意なものは、それが得意な他者をリスペクト(尊敬)するという気持ちを持つのが「民主主義」教育では大事なことではないだろうか。 学校というところは、「適材適所」という発想からまったく遠いところにある。どんなに下手であっても一生懸命やることに意義があるというのが学校の評価だ。しかし、実際はこれは建前であって、本当に下手であればそれはほとんど評価されない。かくして、誰もが同じ事をしなければならなくなり、どれも不得意な人間は、自分がいかに能力がないかを毎日確かめるようなことになる。 僕は、自分自身が学校からほとんど影響を受けなかったと思っているので、学校教育というものに対してそれほど重要なものだと考えていないようなところがある。どうせこの程度のものなのだから、後は自分でがんばるしかないというような発想だろうか。 僕は大学を卒業するまで、授業や講義のノートを取ったことがない。教師が語ったことや黒板に書いたことをそのまま書くことに意味があると思えなかったからだ。重要なことであれば、教科書や参考書に書いてあることのほうがまとまっていて、しかも抜け落ちているところがない。教師が書いたり語ることは、抜け落ちていることが多くてそのまま書いても何のことかさっぱり分からなくなる。 僕は授業のときはノートを取らずに、教師の語ることを分かるところまで聞いているという勉強をしていた。分からなくなるとそこからは聞かなくなる。分からなければ聞いても仕方がないし、ノートを取る気もないので、そこからは別の勉強を始める。たいていは自分で見つけた参考書を開いて、授業とはまったく関係のない勉強をしていた。 僕は授業中に騒いで授業の邪魔をするわけではなかったので注意されたことはなかったが、その実態を知ったら教師としてはやりにくい生徒だと思ったことだろう。しかし、学校などはその程度のものだと僕はずっと思っていた。時代が違っていたら、資格試験だけを受けて、学校には通わない道を選んでいたかもしれないと思う。この科目は学ぶに値しないと思ったら、最初から教師の話を聞かないで他の勉強をしていたからだ。日本史の勉強は年号の記憶ばかりだったのでたいていが最初から他の勉強をしていた。 戦後民主主義教育というのは、実際にはどのようなものを指すのだろうか。僕が受けたものもやはり戦後民主主義教育の一つなのだろうか。僕は、その教育からほとんど何の影響も受けていないので、ある意味ではそれに対するルサンチマン(恨み)はない。しかし多大な影響を受けた人にはルサンチマンが残るのではないかと思う。貴重な青春の時間を無駄に過ごしたというルサンチマンが残るのではないだろうか。 小林よしのり氏の『戦争論』などに影響を受けた若い世代は、いわゆる「自虐史観」と揶揄されるような教育に強いルサンチマンを抱いているように言われている。僕などは、どこの国にも負の側面を探すことが出来ると思っているし、先進国と呼ばれる国のほとんどは侵略の歴史を持っているのだから、日本だけが悪いことをしてきたという「自虐」的な思いを抱くことはない。また、悪いことは反省して今後直していけばいいのだし、明治維新の歴史などを学べば、事実として日本人のすばらしさも学ぶことが出来る。 だが、このような思いは、教育に強い影響を受けなかったから抱くことが出来るのかもしれない。戦後民主主義教育の実態と、それに強く影響を受けてルサンチマンを抱いた人々の気持ちを正しく受け止めることを考えたいものだと思う。それの持っている欠陥を、客観的な意味で明らかにしたいものだと思う。そうすることによって、学校に抱いている自分の嫌悪感にもある意味での決着がつけられるだろうと思う。
by ksyuumei
| 2007-04-15 12:29
| 教育
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