左翼の勘違い

在日朝鮮人の「強制連行」という問題は事実の問題であり、事実を間違えているという意味で嘘という言い方がふさわしいだろう。それは意図的なものでもあるようだし。これに対して、事実の間違いから生まれた嘘ではなく、理論の間違いから生まれたものは嘘というよりは勘違いと呼んだほうがいいかもしれない。三浦つとむさんは「官許マルクス主義」と呼んで、その理論の間違いを指摘していたが、僕自身も左翼の勘違いによる間違いを感じた経験がある。

僕が経験したのは、組合を通じて学習した労働講座だった。そこはマルクス主義の理論を学習する講座だったが、何回かのレポート提出があり、そこで資本主義と共産主義の比較というテーマのものがあった。僕は三浦さんを通じてマルクス主義の理論的優位というものは感じていたものの、資本主義に優れている面がないわけではないと感じていた。

板倉さんがどこかで言っていたのだが、資本の発明というのは画期的な人類の発明であって、これによって個人ではなしえない大きな仕事が可能になったという評価をしていた。国家権力を使えばもちろん個人で出来ないような仕事をすることが出来るが、それは一握りの権力者の意図を反映するだけだ。大衆的人気を持ったものが実現するという面で、資本の発明は大衆社会のきっかけであり、大衆が豊かになるための道を切り開いたものとして評価できる。結果的に、マルクスが批判したような面を見せたとしても、資本の発明は労働者を苦しめただけではなく、労働者に豊かさをもたらした面も評価しなければならないと思っていた。



しかしレポートの採点に関しては、資本主義を高く評価したことが批判的に評価されていた。これはマルクス主義という当時の立場からすれば仕方がなかったかとは思うのだが、教条主義的ではないかと感じた。すべての点において共産主義のほうが資本主義よりも優れているというのは、ソビエト崩壊を経験した今となっては理論的な間違いであることは明らかだ。レポートの採点においては、資本主義を評価してもいいが、共産主義はさらにそれを凌駕していることを見なければならないという評価がされた。しかし今でも、それを見なかった自分のほうが正しいと思っている。

宮台真司氏が教育を語るとき、それを「動機付けと選別の装置」という言い方をよくする。これは単純に受け取ると、左翼的な批判にさらされてきた「差別と選別の道具」という非難されるようなものを肯定するかのように聞こえてしまう。僕も、「左翼の勘違い」に毒されていたときは、宮台氏のこの言い方に違和感を感じたものだった。

宮台氏によれば、教育というものを自己実現のための何か、それを受けた人間をよくするためのものというユートピア的なイメージで考えるのは、社会学的には間違いだということだ。教育の当事者として、自分が受ける教育を、自分の感覚で受け止める場合には、それは自分を向上させてくれるいいものであってほしいと思う。しかしそれはあくまでも個人的な感情と願望であって、社会的にそういうものが教育であると考えたのでは、教育の実体もつかめないし、どのような教育をすることが社会にとってふさわしいかという指針も出てこない。

自分を良くしてくれる教育というのは個人的な偏りの大きいものである。誰にでも同じように感じられるものにはならない。自分にはとてもいいけれど、他の人にはまったく良さがないという教育はいくらでもあるだろう。そのようなものを基準に社会的な教育を考えることは出来ない。社会的な教育には平均値というものが重要だ。

板倉さんもエリート教育と大衆教育の違いというものを語っていたが、エリート教育というのは、エリートであるという意識さえ高めることが出来れば、方法がひどくてもエリートだと思い込んだ被教育者自身が勝手に勉強するので、結果的に大きな成果が出るという。これを板倉さんは「エリート効果」と呼んでいた。明治維新のころに多くの偉人が輩出されたのは、その当時に狭い日本を越えた世界的な視野でものを考えることが出来た人間は、自分こそが真のエリートだという自覚がもてたことが大きいのではないかと思う。

大衆教育は、そのようなエリート効果は望めないので、最低ラインの技術を保障するものになる。これは数学教育における「水道方式」という画期的な方法を発明した遠山啓先生にも通じる発想だ。最低ラインの技術を教えるから、これはそれほど難しいものを教えるのではない。だがエリート効果が望めないので、そのままではモチベーションが下がってしまう。これを改革するために生まれたのが仮説実験授業だ。

内容的な難しさはないが、面白くて楽しい授業にするためにはどうすればいいか。これが仮説実験授業が追い求めてきたテーマだ。それは誰にでも習得できる。しかし、その面白さも誰にでも経験できるということが大切だ。それが面白く楽しいものであるから、いつのまにか技術が習得できてしまうというところが仮説実験授業の特徴だ。

仮説実験授業を受けると、その授業が好きになり、結果的にこの教育は自分にとってよかったと評価してもらえる。しかし、それは結果であって、そのような教育を行わなければならないということで仮説実験授業が構成されているのではないと思う。それは、大衆教育というものにおける動機付けが優れているのだと思う。

社会において動機付けと選別が大切だというのは、社会には多種多様な職業が存在し、どの職業も社会が存続する上で必要不可欠であり、誰かがその職業を担わなければならないというものがたくさんあるからである。自己実現という、いわば自分のエゴから出発すれば、社会的な職業が成立しなくなる恐れがある。人気のある職業には人が殺到するが、必要であっても人気のない職業は誰もやりたがらないということになる。

職業というのは、やってみなければその面白さがわからないという面がある。また、やってみたけれど、最初のイメージと違って自分とは馬が合わないという面があることにも気づくだろう。職業にとって、社会的に大事なことは、適材を適所に配置するということだろう。この適材適所に配置するという機能をもったものが実は教育なのだというのが宮台氏の言葉の真意だったのだ。

大衆教育を担う場である学校においては、この機能こそが第一に考えられなければならないものになるだろう。自分にとってそこで教育を受けたことがいい思い出になるというのは、個人の人生にとってすばらしいことではあるだろうが、それは結果的にそう思えるということであって、目的として設定することの出来ないものだと思う。個人の感覚は多種多様なのであるから、そのような多様性に応じた学校を作ることは不可能だ。

学校はある種の基礎的な技術を伝えることが重要な役割になり、その上で自分がどのような適性を持っているかを自覚させるということが社会的な意味での本来的な仕事だということになる。ある程度の「差別」と「選別」は止むを得ないものになる。だが、この場合の「差別」や「選別」には、道徳的な価値観を入れずに考えなければならない。

「差別」は、差異に従った扱いをするということであって、差異の評価や扱いに不当性がなければ肯定されるべき「差別」になるのだと思う。そして「選別」においても、「選別」の結果としての利益に不当な開きがなければやはり肯定されるべき「選別」になるのだと思う。このような発想は、教育が自分にとってよいものでなければならないという前提で考えていると、なかなか肯定することは難しいのではないかと思う。しかし、社会の存続にとってはこの発想こそが大事なのではないかと思う。

僕は、適材適所に配置された人間が、他人の3倍くらい働いたとしてもそれはかまわないと思っている。過剰労働だなどという文句は出ないのではないかと思う。適材に配置された人間は、そうでない人間が同じ仕事をするのに、5倍くらいの効率で出来るのではないかと思う。それならば、3倍くらいの仕事をしてもまだ楽なのではないかと思う。教育を自分のエゴから発想する自己実現のための、自分にとっていいものという感覚を基礎にして捉えると、適材適所という捉え方が出来なくなるのではないかと感じる。それは左翼の勘違いだったのではないかと思うのである。

宮台氏を通じて最近よく読むのは小室直樹氏の著書だ。以前だったら、天皇主義の極右の論客として敬遠していた人物だったが、その論理的な展開が分かってみると、今まで左翼の勘違いに毒されていたと思える部分にかなり気づくようになった。一つは軍隊に関する捉え方だ。今までなら、軍隊は侵略戦争と結び付けて発想したために、どのような軍隊であってもせいぜいが必要悪の範囲で捉えられるだけで、その恩恵を受けて今の豊かな生活があるという発想は出来なかった。

しかし、板倉さんも書いているように、明治維新後のある期間は、強大な軍隊を持たないアジアの国はことごとく植民地化されたという歴史がある。朝鮮は日清戦争の際に中立を宣言したが、いくら宣言をしても中立できるだけの軍事力を持たなければ中立が保てなかったというのが当時の状況だった。

日本が植民地化されなかったのは明治維新後に強大な軍隊組織を作り上げた結果であるというのは歴史的な事実として認めなければならないだろう。もちろん敗戦に至る過程で数多くの失敗があったことも事実だっただろうと思う。しかし、かつて優秀だった軍隊が日本を守ったということは否定の出来ない事実として、その後の失敗の歴史とともに忘れてはいけないことだと思う。問題は、このように優秀な軍隊が、何故に国民自身をも苦しめる悲惨な戦争に突入してしまったかということではないだろうか。

結果的に悲惨な結果をもたらした戦争をしたから、日本の軍隊はひどいところであって何から何まで間違っていたのだと考えるのは発想が逆なのではないかと感じるようになった。何から何まで間違っていた軍隊だったら、それがないほうがいいという結論にならざるを得ないだろう。

しかし、軍隊を持たずに憲法9条で国際平和を宣言しておけば平和になると考えるのは、中立宣言をしても中立を保てなかったかつての朝鮮と同じ道を歩むのではないだろうか。問題は、国家を守るだけの強大な軍隊組織が、かつての失敗を繰り返さないような組織として再生されているかということではないのだろうか。そのためには、かつての失敗の本当の原因が分からなければならない。軍隊は悪だというイメージから出発する発想ではなく、何が失敗に結びついたかという覚めた視点が必要だろう。

南京大虐殺30万人説に対する疑問や、沖縄の「集団自決」に対する言説を慎重な取扱いをしたほうがいいと感じるのも、軍隊はすべて悪いという発想を見直したほうがいいのではないかという感じがしているからだ。憲法9条に関しても、これを守りさえすれば世界平和が実現すると考えるのは左翼の勘違いではないかと感じている。これは世界平和に貢献したというよりも、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることを阻止するのに役立ったという内政的な面を評価したほうがいいのではないかと思う。改めてどこかで考えてみたいと思う。
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by ksyuumei | 2007-04-03 09:54 | 左翼の嘘


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