左翼の嘘

左翼の嘘という言葉を宮台氏から初めて聞いたのは、「在日朝鮮人強制連行」ということにかかわっての言説だった。現在日本にいる在日朝鮮人の大部分の人が「強制連行」で連れてこられたと学校教育では教えられているが、実は大半の人は自らの意志で来た人ばかりだというのが宮台氏の言葉だった。このことは専門家の間ではほぼ常識化しているということだった。

僕の手元にはたまたま平成4年検定合格の中学社会の歴史的分野の教科書がある。そこでの記述は次のようになっている。「戦時下の国民生活」とタイトルがついたところで


「戦局が悪くなると、これまで徴兵を猶予されていた大学生も軍隊に招集されるようになった。さらに、労働力の不足を補うために、朝鮮から70万人、中国からは4万人もの人々を強制的に連れてきて、工場や鉱山・土木工事などに厳しい条件の下で働かせた。やがて、朝鮮・台湾にも徴兵令がしかれ、多くの朝鮮人・中国人が軍隊に入れられた。」


僕は自分が生徒だった時代に熱心に授業を聞いたことがなかったので、このことをどのように教えられたかまったく記憶していないのだが、在日朝鮮人のほとんどが「強制連行」で連れてこられたのだと教えられた記憶を持っている人もいた。



この「強制連行」が左翼の嘘だと言うにはある前提が必要だろう。一つには「強制連行」という言葉で、それを教えられた人がどのようなイメージを持つか、教える側がどのようなイメージで教えていたかということが重要だ。「第48題「強制連行」考」というページでは、やはり「強制連行」がなかったという論調で書かれているのだが、次のような疑問も提出している。


「日本の植民地支配がなければ在日朝鮮人は存在しない、不当な植民地支配下にやむなく来日したというのは強制連行に価する、在日朝鮮人は強制連行の結果だと言ってよい、という批判もあった。「強制」はどう考えても「威力をもって人の自由意志をおさえつけて無理にさせること」の意しかなく、現在の在日朝鮮人が来日した実際の理由とは全く違う。またここまで「強制」の意味を広げてしまうのであれば、世界史において植民地支配下にある人が帝国主義本国に行くことは(例えばヨーロッパ諸国にはアジア・アフリカの植民地出身者が多く居住している)、すべて「強制連行」ということになりかねない。欧米の場合は「強制連行」にならないが、日本の場合は「強制連行」になる、という論理になるのであろうか。」


選択肢が他になかったという状況であっても、その判断を最終的に下すのが自分自身であるなら、その選択は「強制」ではなく自らの意志でしたものだと考えなければならないだろう。かつての東北地方の出稼ぎなども、それしか選択肢がなかったとしても、何かの力で出稼ぎに行かなかった人々に圧力をかけたものではない。それを選ばざるを得なかったとしても、最終的には自分の意志で出稼ぎに行かざるを得なかったものだった。

だから出稼ぎは自己責任であって無視してもいいという主張をしようというわけではない。そうせざるを得ない社会状況があったとしても、それが「強制」だから不当だという主張をすれば、その主張は間違ったものになるだろう。不当性を主張するなら他の部分で主張すべきなのではないかと思う。

例えば出稼ぎで訪れた職場が不当な取扱いをしたなら、「強制」したことに抗議するのではなく、職場の不当な取扱いに抗議するほうが正しいのではないだろうか。これを「強制」の方に目を向けてしまえば、それは必ずしも「強制」とはいえないという解釈をされれば、実際には不当性があったかもしれない部分も消し飛んでしまうのではないだろうか。

また、出稼ぎをしなければならない状況が存在したことに不当性を見るなら、「強制」ではなくて、政治的な対策のないことに抗議をすることが必要だろう。的外れの批判・避難をすることは、正しい部分を消し去ってしまうことになりかねない。

在日朝鮮人の大部分が「強制連行」されたというイメージを作ることは、的外れの批判・避難の方向をもたらすのではないだろうか。彼らにとって本当に抗議したい部分は「強制」されたことなのだろうか。もしほとんどの人が「強制連行」で朝鮮半島から連れてこられたのであれば、日本の敗戦後すぐにそれらの人々は帰ったのではないだろうかという疑問を提出する人もいた。なぜ多くの人が日本にとどまったのかということに整合的な理由をつけなければならない。

左翼の嘘が問題になるのは、本来の批判すべきものから、批判の方向を末梢的なものにずらしてしまうからだと思う。これは、そこに嘘が含まれているということがはっきりしてしまうと、その嘘の部分に対する反動勢力の側からの批判・避難は激烈なものになるだろうことも予想される。左翼の嘘は、右翼・反動の側から指摘される前に、左翼の側からこそ本質的な批判が必要ではないのだろうか。

教科書に書かれている「強制連行」というものが、在日朝鮮人の大半が「強制連行」されのだという意味での解釈が流通しているなら、それは「左翼の嘘」として左翼こそが自己批判する必要があるだろう。それがある種のタブーにかかわることだとしても、それをしなければ、反対勢力の側からその嘘が明確に指摘された場合は、致命的なダメージを受けるような不利益をこうむるだろう。

このような「左翼の嘘」として微妙な存在として最近浮上してきたのが、教科書の記述が修正された沖縄での「集団自決」の問題だ。これは、僕が持っている教科書では次のように記述されている。


「1945年3月末、沖縄に米軍が上陸し、守備隊との間に激しい戦いが繰り広げられた。戦いは、女学生・中学生まで巻き込み、多くの死傷者を出した。また、「集団自決」の強要やスパイ容疑で日本軍に殺害された人々があった。さらに、疎開中の犠牲もあり、犠牲者は59万の県民のうち12万人以上になると推定されている。」


この文章を読む限りでは、「集団自決」の強要に関しては具体的な記述はない。そういうこともあったという事実の確認で終わっている。これは、事実としてはそのようなことがあったかもしれないと思われるものも見つかるので、そのような解釈の限りではおそらく間違っていないのであろう。しかし、この「集団自決」の強要がある個別的なケースのイメージと結び付けられて語られるのが普通であった場合には微妙な問題が生じる。

「作る会」の藤岡信勝氏というと、ちょっと偏見の目で見てしまいそうな危惧があるのだが、「沖縄集団自決の「軍命令」は創作だった」という報告を書いている。このタイトルにはちょっと疑問を感じるのだが、集団自決の「座間味島・梅澤少佐の場合」という具体的なケースにおいては、軍の責任者である梅澤少佐の直接的な命令がなかったことが確かめられているようだ。

梅澤少佐が「集団自決」を命じた、つまり強要したというのは『鉄の暴風』という本に「軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。……村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。」という記述があったことが決め手になったらしい。この記述には、さらにそれを証明する証言者が現れたということだ。藤岡氏によれば


「のちにこの記述を裏付けるような証言者が現れた。昭和三十二年四月、厚生省引揚援護局の職員が「戦闘参加(協力)者」調査のため座問味島を訪れた。そのとき、当時の女子青年団長だった宮城初枝さんは、村の長老から呼び出され、厚生省の役人の前に座った。「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」という、質問に、宮城初枝さんは「はい」と答えた。」


と報告されている。しかし、この証言者が実は嘘をついていたということが、「座間味島の集団自決から三十三回忌(三十二年後)に当たる昭和五十二年三月二十五日、宮城初枝さんは娘に「梅澤隊長の自決命令はなかった」ことを初めて告白した。」というように、本人の告白によって知られるようになった。なぜ嘘をついたかという理由には合理的なものが語られている。藤岡氏は、


「では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。」


と報告している。これは、嘘の証言をしたといわれる宮城さんの心情としてはよく分かるものだ。止むを得ない嘘だったからこそ、後にそれを告白するという気持ちにもなったのだろう。

沖縄での「集団自決」の強要が、一般論としてそういうこともあったというニュアンスで語られているなら、まったくないということが証明されない限りは正しい言い方になるだろう。しかし、これが上のような典型的だと思われる具体例とともに教えられていたなら、その具体例がまったく嘘だとわかった時点で批判が必要だろう。それは可能な限り左翼の側がやらなければならなかったことだと思う。明らかな嘘を反対勢力の側につかまれた場合は、その攻撃によって受けるダメージは計り知れないものになる。

沖縄での「集団自決」がどのように教えられていたかは、僕はまったく記憶がない。だが、一般的によく知られているようなら、単なる一般論として表面をなでて教えられたようには考えられない。人々の記憶に残るのなら、そこには何らかのインパクトがあっただろう。藤岡氏に批判されているような具体例が語られて教えられてきたなら、やはり厳しい批判が必要だろう。どのようなものであったかは、専門家かジャーナリストに検証してほしいと思う。

教科書の「集団自決」修正に関するニュースは、その記述が修正されたということは伝えているが、それがどのような問題があって、どのような観点から修正されたのかということが報道されていない。単に修正されたという側面のみから語られているような気がする。不十分なのではないだろうか。

「左翼の嘘」は左翼の側からこそ批判されなければならないと思う。右翼の側に先に批判されるようならそれは致命的なダメージになる。嘘であってもプロパガンダのためには否定できないというタブー化されているようなら、それはいつか取り返しのつかない結果を生むのではないかと思う。ソビエトが崩壊してしまったように。昨今の左翼勢力の静寂化は、もしかしたらもうすでに致命的なダメージをこうむっているのかもしれない。それならばなおのこと「左翼の嘘」を丁寧に考えていく必要があるだろうと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-02 10:21 | 左翼の嘘


<< 左翼の勘違い 埋葬記録への疑問 >>