板倉聖宣さんが、『物の見方考え方第2集』(季節社)の中で手品とトリックの違いについて書いていた。どちらも「だますこと」に関連して結果的に人を欺くことになるのだが、手品の場合は始めからそれが嘘であることを宣言して人を欺くトリックになっている。しかし、トリック一般の中には、必ずしも嘘であることを宣言しているものばかりでなく、本当を装ってだまそうとするものもある。
トリックは手品の前提となるものであるが、トリックのほうが対象となる集合の定義域が広い概念になっている。いずれも感覚的な錯覚や認識の一面性を利用して判断の誤りを引き出してだまそうとするのだが、それが嘘であるということの確証となるタネを見破るのは容易なことではない。 タネが簡単に見破れるような手品の場合は、素人の余興としての宴会芸程度なら問題はないが、見物料を取って商売にするようなプロにとっては腕の悪い手品師として評判を落としてしまうだろう。優れた手品師が行う手品は、どんなに観察力の優れた人でもそのタネを見破ることは出来ないだろう。 手品の場合は、それにだまされたとしてもわれわれに害になることはない。むしろそのことで楽しみを提供してもらえるのでわれわれにとっては有用な娯楽でもある。それが面白く楽しませてもらえるものであるからこそ見物料を払ってでも見たいと思うのである。それに対して、嘘であることを宣言していない、本物を装うトリックの場合は、結果的には詐欺になったり重大な判断の間違いにつながることがあったりしてわれわれに甚大な被害をもたらす。 手品は楽しめばいいが、本物を装うトリックはその嘘にだまされて本物だと思い込まないような注意が必要だ。しかし、そのタネを見破ることが難しいトリックに対して、どのようにしたらだまされずに済むようになるだろうか。結果的に深刻な被害を受けたことが明らかになれば、タネがわからなくてもだまされたということが分かるだろうが、そのときになっては被害の回復が難しい。何とか被害が大きくなる前にだまされることに気づくような注意が出来ないだろうか。 トリックのタネを見破るために事実を調べるというのはあまり有効な方法ではない。そもそも事実に表れないような配慮をされて構築されているのがトリックのタネというものだ。だまされないための有効な技術というのは、事実という情報を知る工夫にあるのではなく、そのトリックが存在する全体状況を論理的に把握するという論理の面にあるのではないかと思う。むしろ、細かい事実にこだわっていれば、手品師がそこに注目させて、タネのある部分からは目をそらせる工夫にうまく乗ってしまうような、だましのテクニックに引っかかるのではないかと思う。 うまい詐欺師というのは、最初から相手をだますようなまねはしないそうである。最初は相手を信用させるような手口を使う。儲かりますよといって勧誘するときは、最初の数ヶ月は本当に儲けさせるのだという。そして、いよいよ相手の信用を勝ち得たときに、相手の全財産を巻き上げるような大きな嘘をつき、それで逃げてしまうというのがうまい詐欺師の手口だそうだ。小さい儲けのときに信用させて、大きい儲けでは嘘をつくという。このトリックに引っかからないですむ人は多分少ないだろう。 手品は最初からそれが嘘であることを宣言しているから、嘘のタネを見破れなくてもそれが嘘だということは確信をもてる。嘘であることについては「蓋然性」の問題ではなく、事実であると受け取ることが出来る。これは手品師は、嘘をつくことが商売で、しかもそれが認められて人々に喜ばれるのであるから、手品師にとっても安心して嘘がつけるということを意味する。手品師にとって心配なのは、自分が作ったトリックという嘘が人々を楽しませることに失敗したときで、嘘をつくこと自体を心配したりしない。 これに対し、本当を装うトリックで人をだまそうとする人は、それが嘘であることがばれることが心配になる。むかし駅の改札口でまだ人が切符や定期の確認をしていた時代は、キセルという行為がたくさんあった。正規のルートの乗車ではなく、間をごまかしたり、定期の場合なら期間をごまかしたりするような行為があった。それをベテランの改札係はよく見破ったのだが、ごまかそうとする人間はどうしても嘘がばれることを心配するので動作が不自然になる。これがベテランになればよく分かるのでかなりの高い確率で見破れる。逆にいうと、そういう動作を平然と行える人の嘘を見破るのは難しい。 だから、だまそうとするのではなく、キセルをした本人も自覚せずにしているときはほとんど見破ることが出来ない。キセル行為というのは、一瞬の間に数字を読み取って判断しているのではなく、挙動不審の動きから判断しているからだ。自覚的にトリックを使ってだまそうとするときは、その自覚が人間の行為の他の面に現れて、そのことをきっかけにトリックが存在するという「蓋然性」の高さを知ることが出来る。トリックの存在は、事実として確認することは難しいが、「蓋然性」の高さを論理によって高めることが出来る対象になるだろう。 儲け話の詐欺の場合は、そこにトリックが存在するかどうかを考えるとき、確実に儲かるという話をする本人自身がその儲けをなぜ自分で独占しないかということが問題になる。また、このことに一応整合的な理屈がつけられても、儲かるという現象自体に整合性があるかどうかも大事になる。儲かるというのは、何らかの形で利益が生まれるということなのであるが、その利益はどこから生まれるかということが整合的に語れるかどうかが大事なことだ。 高度経済成長の時代は、製造業の発達により、新たな価値が生み出されているというのを実感できた。富そのものが増大しているのであるから儲けが出るのも理屈としてよく分かる。しかし、そのような実体的な富が作り出されていないのに儲けが出ると考えると、その儲けはどこからくるかというのが問題になる。全体の富が増えないのに、一部が儲かるとするなら、それは誰かが損をしなければその儲けは生まれない。 バブル景気のころというのは、まさにそのような状況だっただろう。金が余っていたので儲け話に投資をするということが普通だったが、それは富を新たに生み出す儲け話ではなく、人々が儲かるだろうと予想した部分に金が集中しただけだった。だから、それが本当は儲からないということを知ったとき、人々がいっせいにそこから金を引き上げて、トリックに引っかかった人が大きな損害を受け、その損害の分だけ儲けた一握りの人々がいたという結果になった。 このように、誰かの損を当てにして儲けるという話は、確実に儲かるどころか、自分がその損をする人間になる可能性もあるというリスクの高さを自覚しなければならないのだと思う。その自覚があれば、単純にトリックに引っかかることも少なくなるのではないかと思う。特に、誰かの損を当てにして自分が儲けようという意図を持っている人間は、どこかでトリックを使う可能性が高いので、その意図の存在を常に疑ったほうがいいだろう。 トリックを使う動機が存在するところにはほぼ確実にトリックが見られるという「蓋然性」を考えていたほうがいいだろう。宮台氏などが「国家は信用ならないもの」というのを愛国心の基礎とすべしと主張するのも、国家権力は嘘をついてトリックを使う動機が常に存在すると捉えておいたほうがいいというものだろう。特に国家権力が情報統制をしているようなところでは、国家権力にとって都合のいい情報だけを流すというような「蓋然性」が高いということも考えたほうがいいだろう。かつての日本の大本営発表もそうだし、それと同じようなことを「北朝鮮」もしている。そして911のニューヨークテロの直後のアメリカは、近代民主主義国家であるにもかかわらず、一方的な情報のみが流れるという国家権力による嘘があふれていた。 特に国家の利害に直接絡むような情報では、国家権力が嘘をつかないと考えるほうがおかしいというくらいの疑いの目を向けておいたほうがいいだろう。それは、嘘であることが事実として確認されなくても、「蓋然性」が高いという判断をしておいたほうが間違いがない。 板倉さんの文章が収められているこの本には、本当を装うトリックとしての「超能力」の話題が多く分析されている。超能力の場合は、意図的にトリックを利用してだまそうとする場合と、本人の自覚なしにトリックに引っかかる場合とがある。しかし、いずれの場合にも本物の超能力などというものは、ほとんどあり得ないと考えておいたほうがいいだろう。ここで「ほとんど」と形容したのは、定義によっては「超能力」と呼べる場合が論理的には存在するからだ。しかし、それは実体としていわゆる「超能力」が存在するのではなく、「超能力」という言葉の定義を工夫して、現象をそうも解釈できるということに過ぎないのだと思う。 意図的にトリックを使った「超能力」は、手品師が、本来の手品よりも大きな儲けになるということで「超能力」という見世物を行う場合だ。かつて日本で大ブームを巻き起こしたユリ・ゲラーのスプーン曲げなどがそうだろう。ユリ・ゲラーはスプーンをこすって曲げていたが、指も触れずに曲げる手品師もいたので、手品の腕としてはユリ・ゲラーはそれほどうまくはないのだと思う。だから、手品で商売をしようとすればたいした事はなかっただろうが、「超能力」という一大ブームに乗れば大金が稼げるということは確実だっただろう。 ユリ・ゲラーの場合は、興行をしているということが明らかだったので、その「超能力」も見世物として受け取られていたが、その後登場した少年のスプーン曲げに対しては、本物ではないかと受け取る人が多くいた。これは、本物だと受け取りたい人が多かったので、その動機がトリックを見破ることを難しくしたようだ。トリックにだまされるというとき、だまされる側の人々が、むしろだまされるほうを望むということがある場合、それを見破るのはかなり難しくなる。 ユリ・ゲラーの場合は、トリックが解明されなくても、その超能力を本当に信じた人は少ないと思われるが、少年の超能力のほうはトリックであることを完全に暴露しなければそのトリックから解放されなかったようだ。当時の週刊朝日が、超能力現象を隠し撮りして、少年が自らスプーンを曲げているのをカメラに収めることによってこのトリックの問題は決着した。 この少年が、ユリ・ゲラーのように意図的にトリックを使ってだましていたのかというのは議論の分かれるところだった。無意識のうちに曲げていたのを、トランス状態に似たような状況の中で本人に自覚がなかったのではないかとも言われたし、遊びでやっていたことがあまりにも大きな問題になってしまったので引っ込みがつかなくなったのではないかとも言われた。いずれにしても、結果的にだましたことについて、少年には大きな責任はないのではないかと僕も感じた。 ユリ・ゲラーや、少年のトリックを超能力だと大騒ぎした大人たちには社会的には責任があるのではないかと思う。トリックという嘘を本物のように装って、結果的にそれで利益を生み出したというのは詐欺ではないかという感じも受ける。トリックは、人を楽しませる手品として腕を磨くべきだろう。そしてだまされる側の人間は、トリックの性質をよく知ることによって、だまされないように工夫することが大事だと思う。論理はそのための道具なのだと思う。
by ksyuumei
| 2007-03-23 10:15
| 雑文
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