「蓋然性」は論理の問題

ある事柄に対してその信憑性が高いとか、それが存在する確率が高いという判断は、何か別の事実やデータを持ち出してそれを根拠に主張することではない。事実というのは、論理的に言えば真理のことであるから、真理であれば100%確かでなければならない。何かの事実を根拠に論証するときなど、その事実は100%確かだという前提で推論しなければ、推論が長くなればなるほど結論の信頼性が低くなってしまう。

事実が事実であるかどうか、つまりそれが真理であるかどうかは二者択一の問題であり、80%くらい真理だという判断などはないのである。真理は0か1かのどちらかであって、その信憑性という、われわれがそれを信じるかどうかという点で「蓋然性」が問題になるのである。信じるに足る根拠があれば信じるし、根拠があやふやであれば信じられないし、それは根拠となる事柄の論理性によって判断される。

以前にNHKの問題で、現在の安倍総理や中川経済産業大臣が圧力をかけたのではないかという問題があった。このとき、何らかの事実が見つかって、例えば「番組を改変しろ」という命令があったと証明されたら、これは「蓋然性」の問題ではなく、「圧力があった」という判断がされる問題になる。事実の確認は、「蓋然性」を高めるのではなく、まさに真理が決定することを意味する。



「蓋然性」というのは、そこで主張されていることが極めて信憑性が高いという判断なのである。安部氏や中川氏が圧力をかけたというのは、事実としては絶対にと言っていいくらい出てくることはおそらくないであろう。そういうへまなことをするとは考えられないからだ。このとき、単純に考えれば、事実が出てこないのであるから「圧力はなかった」といってしまえばいいことになる。しかし、このような単純な理解ではすまないところに「蓋然性」を考える意義というものが出てくる。

直接証拠となる言葉は決して見つからないのに、圧力をかけたということの信憑性が高まるのはなぜだろうか。どのような考えから、圧力の存在の「蓋然性」が証明されるのだろうか。それは、事実を媒介にしてではない。あくまでも論理による推論の形での判断でなければならない。

推論のポイントの一つはNHKの予算が国会の承認を経て成立するということだ。これは宮台真司氏が指摘していた。国会の承認を必要とするということは、そのときの政府である多数政党の意向が強く働くということである。予算を成立させるためには、時の政府のほうを向かなくてはならないというのが推論できるだろう。

もちろん、そんなことをせずに、あくまでも正当な要求をして論理によって予算を通すという方向も選べないことではない。しかし、それができるためには、不当な扱いを受けたときにそれを是正することのできる制度的保障がなければならない。政府の要求が不当なものであった場合、それが白日の下にさらされ、次の選挙に影響するというようなことがあれば、不当な要求を突っぱねるという「蓋然性」も出てくる。しかし、そのようなものがなければ、不当だろうがなんだろうが政府の要求を飲んでおいたほうが有利だという判断が働くほうの「蓋然性」が高くなるだろう。

また日本社会は「忖度社会」であるとも言われている。これは、直接要求しなくとも、力のあるほうの要求をうまくつかんで飲み込んだ人間が出世したりするという有利な面がある社会だということだ。そのような社会では、例えば直接話をしなくとも、「会いたい」といっただけでも相手がちゃんと忖度してくれることが考えられる。

制度的なもの(NHKの予算が国会で承認される)や、日本社会の特質(忖度社会)などは、それ自体は一つの事実である。しかし、その事実が「圧力」を意味するものではない。それが「圧力」として働くというのは、さまざまな関係をつなぎ合わせた論理的判断だ。そして、この論理的判断が存在することによって、そこに「圧力」となるような直接の言葉がなくても、「圧力」が存在したという「蓋然性」が高いという判断ができるのである。

直接圧力をかけるような言葉を使えば、その行為が不当であることは誰の目にも明らかになる。つまり、そのような事実があれば、その事実が「圧力があった」ということが真理であることを100%証明してくれる。もはやそれは事実の問題であって「蓋然性」の問題ではなくなる。このようなことは誰にでも分かるだろう。ということは、政治家になるほどの優秀な人間が、この程度の配慮をせずに、直接圧力をかけるとは思えないのだ。もしその程度のことも考えられない人間だったら、おそらく他の面でもかなり大きなぼろを出すのではないかと思う。

圧力があったかどうかが「蓋然性」の問題になるのは、それが直接事実として証明できないからだと思う。これは原理的におそらくできないと思う。そのような問題は、「蓋然性」という視点で考えるべきで、圧力をかけたという「蓋然性」が高いと判断できれば、やはり政治的な責任が生じるだろうと思う。

実際に、安倍氏や中川氏の行為は、圧力をかけた「蓋然性」が高いと思われるので、現在の制度(NHKの予算が国会で審議されるというようなこと)が続くのであれば、時の統治権力である政府の人間は、NHKに対して一切の働きかけをしてはならない、会ってもいけないというようなことをすべきだろうと思う。これは、圧力をかけなかったとしても、かけた・あるいはかけられたと相手が判断してしまう可能性が高いので、誤解されるような行為を排除することが必要だと思う。

事実というのは、おそらく単純なことしか確実な判断は出来ない。少しでも複雑な判断が入り込めば、それは「蓋然性」の判断しか出来ないのではないかと思う。また、単純だと思われたことも、ちょっと深く突っ込んで考えるとたちまちその単純さが失われる。

柳沢大臣が「女性は子どもを産む機械」と発言したときも、これは柳沢氏の女性蔑視の差別性が露呈したものと受け取られた。これは、事実を単純に受け止めればそのようになるだろうと思う。しかし、これを少し突っ込んで考えると、柳沢氏は本当にそのような女性に対する差別意識を日常から持っていた人間だったのだろうか、というような「蓋然性」が問題になってくる。

マル激のゲストで出ていた西部邁氏は、柳沢氏には女性ばかりの子どもがいて、家庭では女性に囲まれて生活している人だと語っていた。そして、家庭ではむしろ女性の指示を仰ぐような日常であって、単純に差別性をうんぬんできるかどうかに疑問を呈していた。あの言葉一つだけを取って、他の面を一切見ないという単純さで判断すれば、柳沢氏の差別性が真理として浮かび上がってくるかもしれない。しかし、他の面をいくつか見ながら考えれば、それは「蓋然性」の問題として浮かび上がってくる。

NHKの圧力の問題は、制度的な面を考えれば、圧力がないと判断するほうが「蓋然性」がないと判断できる。宮台氏も言っていたが、自民党政府の要人から「会いたい」と言われてそこに何の圧力も感じないNHKの職員がいたとしたら、それはよほど鈍感な人間だろうということだ。

「蓋然性」の問題は、それが論理的に判断できるものであれば、その妥当性はかなり高められるのではないかと思う。論理ではなく、偶然に左右される面が強いときは、「蓋然性」はわからないといったほうがいいだろう。

「南京大虐殺」における「30万人説」というのも、「大虐殺」された人々が「30万人」だという主張だと僕は受け取っている。単純に戦闘の結果として犠牲になった人々が「30万人」だったということではないと受け取っている。このような受け取り方をしたとき、この主張が語ることにはやはり「蓋然性」がないと僕は考える。

この「大虐殺」にわざわざ「南京」という言葉をつけるのは、南京攻略戦という一つの戦いにおける「虐殺」を意味するものだろうと普通は考える。戦争のある期間を通じて虐殺者が30万人に達したというのなら「蓋然性」はあるだろう。しかし、それはどの期間かということを具体的に指摘することになれば、「蓋然性」の程度は違ってくる。

戦闘状態にいる兵士が敵を殺す場合でも、殺すという行為自体に残虐性を見たい人もいるかもしれないが、それを「南京大虐殺」ということで考えている虐殺行為に入れてしまえば、そもそも「虐殺」などという概念を考える必要はなくなる。すべては「殺人」で一緒くたになってしまうからだ。だから、この「蓋然性」の判断も、何を「虐殺」と見るかという定義が深くかかわってくる。

僕は、戦闘行為の間の殺人行為は、虐殺であるかどうかの客観的な判断ができないと思う。虐殺とそうでないものとの区別はつかないと思うのだ。だから、基本的に虐殺という行為が見られるのは戦闘行為終了後のことであり、例外的に戦闘行為中に見られるとしたら、戦闘を行っていない部隊で起こったものに限るだろうと思っている。

戦闘行為終了後に、どのように整然と虐殺行為を行えば30万人を虐殺できるかと考えれば、その「蓋然性」はまったくないと考えざるを得ない。だいたい戦闘行為が終わっているのに、30万人も殺す必要があるのだろうか。この30万人には、そもそも数字の確からしさを検討するだけの意味はまったくないのだと思う。いわば「白髪三千条」というときの「三千」と同じだろうと思う。大きいという形容のレトリックに過ぎないのだと思う。

「南京大虐殺」の議論が数字の問題になってしまったのは、それを否定したい側のうまい戦略だと思う。それは、そもそもが決定することの難しい数字であり、いくらでも議論の余地のあるものに流すことができる。しかし、数字である以上、それは曖昧には出来ずに決定されなければならない。決定されなければならないのに決定できないものを考察すれば、結論が出ない議論になり、結論を出したくない側にとってはまったく都合がいいものになる。

「南京大虐殺」で語られていることの本質というのは、数字が大きいか小さいかということではなく、むしろ「虐殺」という事実の質の問題ではないかと思う。どのような殺され方をしたのかということのほうが重要なのではないだろうか。そういう意味ではやはり「南京大虐殺」という言い方には抵抗を感じる。これは「南京事件」でいいのではないか。そこではどのような「事件」が具体的に起こったのか。その質をこそ問題にすべきではないだろうか。そして、それが信じられないような「事件」として語られているなら、その「蓋然性」こそが検討されなければならないだろうと思う。
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by ksyuumei | 2007-03-17 16:16 | 論理


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